サルスフォレント公国、巷では「森の公国」と呼ばれている此所は、名の通り深い森に囲まれて存在している国である。深くその森へ潜れば肉食の獣や異形の生き物達が俳諧し、中には盗賊や人の道を外れた者達が潜んでいることもある。危険極まりないが、言ってみればそれはこの森に限らず街道でも草原でも同じ事で、多少の差があるとすればこの森は良い隠れ蓑になる事くらいである。
 この森に包まれて暮らすきっかけは、元は隣国のシルビア神聖国で祭る神を信仰する貴族信者達が他の大陸から移って来た事からだったが、今では信者だけではなく一般市民も然る事ながら、聖霊と共に生きる者や、魔術を求める者も引き寄せられる様に集い、西の魔術国には劣るが多彩な種を抱え持つ魔法国となっていた。
 その国から西側へ行くと、帝国コールヴェクタの壁がそびえ立つ。近年皇帝が代をかえ、穏やかになりつつあると思われた情勢が再び怪しい影を帯び始めた、という噂を聞く。噂なのは、代が変わった途端に帝国が鎖国状態となったからだ。それと同時に消えかけていた異種狩りが再び行われるようになったとも聞く。
 その噂は確かなものとは言い難いものばかりではあったが、森を挟み、帝国と睨み合う形になった公国のひとつの領地ではその気配を敏感に感じ取っていた。隙あらば公国さえも手中にいれようと企んでいるという噂もあり、国境では常に緊迫した空気が漂っている。
 サルスフォレントの最西端、国境間近にひとつの領地がある。中都市程の規模で、リードリーンと呼ばれていた。人並みに開拓されているがそれでも尚深き森に包まれている其処は、一見すれば森と同化しているように見える。町並みの中にも木々がざわめいているのだ。通路に石畳を敷いてはいるものの、ひとつ横をそれれば土と木と草。元々は石畳が敷き詰められていたのだが、領主が交代した後、取り外される事となった。木も後から植えられたものである。
 初めはその町中の様子に眼を丸くする者もいる。此所は大きくもなく小さくもない、中都市程の街ではあった、それ程の所ならば周囲は煉瓦と石畳で埋め尽くされていいものだ。だがここはそうではない。大都市と呼ばれる所では見慣れた見事に整頓された煉瓦の連なりが木によって遮られている。驚くべき事はそれだけではなかった。夜は森に囲まれ、一帯は深遠の闇になる筈だった。だがここは、木々に「光明」を垂らし、仄かな光が街の中にいくつも浮かばせていた。それは明け方になれば消え、暮れると光り出す不思議なものだったが、光明は間違いなくこの街を漆黒の闇の恐怖から遠ざけてくれていた。光明は身分の高い者の説明によると聖霊の力の一種らしく、この街の外に人工的な光は僅かしかなかった。
 木々の中には季節が来れば実の成るものもあり、子供や大人もまた自由に口にする事ができる。さわさわと風になびいて揺れる様は心を和ませ、陽がさんさんと照らされる時には葉の影に隠れ葉ずれのざわめきの下浅い眠りにつくことも出来る。木々は確実に人の生活の中に馴染み、このような土地柄故にいつも張り詰めていた空気を、柔らかくしてくれていた。
 こんな土地だからこそ、安定した心情が必要だと、領主の伴侶が発言したのだという。彼女は世界でも指折りの聖霊師であった。自然と共に生きるモノの力を借りる故に、自然が人にどんな効果をもたらしてくれるかが判る様だった。
 現領主がここに訪れてから早十数年経つ。元々は特殊な場所である為に交代制の土地で現領主も一度交代したのだが、後に呼び戻されてから変わっていない。民からの希望を受けたのもあるが、好んで此所に来ようとする貴族達が居ないのもある。通常の領主交代の頻度は遅くて数年、早くて一年の間に行われていた。逃げて行く様にここから去る者もいれば、攻め込まれ命を落とす者も居た。幾度となく命のやりとりが行われているそれは、今も同じ。
 その混乱に乗じて森に隠れる輩もいるものだから、領主の苦労も人一倍だった。
 かつり、と靴音が人気のない廊下に響く。
 リードリーンを治めている主が住処としているこの館は、館と言うには規模が大きく、城と言うには少々質素であった。一般的な城よりも、全く持ってきらびやかな貴金属の装飾がないのだ。
 この世界では魔法による防護壁が何よりも重視されている。普通の壁を幾ら分厚く造ったとしても、魔法の前ではそれはあまり意味を成さないからだ。だから城は簡素、そして防護壁を十分に張る事で、現在も城の防備は十分だった。そんな予算の軽減から、外見に凝る領主達も多い。元々この城にもその様な装飾が豪華さを見せつける様に飾られていたのだが、現領主がそれらを排除してしまった。元のつくりが周囲の城よりも頑丈につくられていたのもあり、現在は城塞そのままの出立ちとなっていて、質素の筈が逆に目立っていた。
 ふ、と廊下を歩く青年が思い出し笑いをする。以前他の領の友人に装飾を排除した事を不思議がられ、父親にたずねた事があった。返って来た父の言葉は「紋章の他は必要無いだろう」と実にあっさりとしていて、権力や己の立場を誇示しようとしない父の様子に呆気にとられていた友人の顔が今でもはっきりと思い出せる。
 一応、自分達の立場は周囲からすれば貴族であった。しかし自分と自分達の両親はその地位を特に必要としない、少々面倒なものだと認識している。事情があるにはあるのだが、それであっても回りの貴族達から見れば、おかしな家だと思われているだろう。
 朝日が渡り廊下の窓から顔を出し、光を差し込んでくる。その中で青年が歩いていると、不意にこつりと頭を後ろから小突かれる。何の察知もなく自分の後ろを回れるのは少数しかいない、振り返ると、癖のある艶やかな漆黒の髪を束ねた女性が、焦茶混じりの黒曜石の瞳を細ませて彼を見上げていた。侶道が笑い返すと、彼女はほんの少しだけ高い彼の頭をくしゃくしゃにしながら撫でる。
「夜明け前から御疲れ、侶道。大丈夫だったか」
「母上…」
 苦笑いで挨拶と共に述べると、彼女の力強い笑みが聖霊越しに見えた。
 当麻=ファルス。リードリーンの領主の伴侶であり、侶道の母親でもあり、世界で有数の聖霊師である。彼女は元は一般市民であり、貴族にしか使われる事が殆どない古語名を持てる様な存在ではなかったのだが、この世に産まれた時に既に膨大な魔力を持っていた事により、戒めとして古語名が授けられた。古き文字は、その者自体に名の意味の影響を与える事が出来ると言われている。その戒めが効いているのか、彼女は今も己の力に溺れる事なく自在に操り、現在は名の知れた聖霊師となっていた。かといって、貴族になっていた訳でもなかったし、その地位を彼女が望んでいた訳でもなかったのだが。
 立ち止まっていた彼を、当麻は片手で誘導しつつ歩き始めた。左側の黒髪の合間から微かに垣間見える青い光。彼女の家で継がれている蒼い宝石の耳飾りが、漆黒に紛れて揺れていた。
「帝国側から流れてきた蛮族の残党だった様だ。何人か自害、または体力の限界で事切れた。
 ……人売りもしていたらしくてな。
 こっちで手を引いている奴が何処かに居るみたいだ」
 そんなもの、心当りがあり過ぎるのだがなと苦い様に呟く母を隣に、侶道はほんの数刻前の事を思い出す。
「…母上… あの少年…」
 表情を曇らせる息子に、母は無言のまま頷いた。
「様子からして帝国から来たんじゃないだろ、流れの吟遊詩人だと思われたんじゃないかな。
 多分、森の中を彷徨っている時にばったり出くわしちまったんだろうな。随分痛めつけられたみたいだったが手はつけられてなかった。
 見ると結構可愛かったし、そのまま売られたらろくな目に会わなかっただろうから、運は良かった方だ」
「彼は?」
 何も言わず、当麻は客間の廊下を歩いて行く。暫くした後にひとつの客室を示したので向かおうとした所、母は息子の腕を掴み、歩みを止めた。つられて足を止めた侶道は、振り返り母を見る。何かを発するのかと思いきや、何も言わずただじいと見つめるだけ………その姿に、はっとし、青ざめた。
 母は自分よりも優れた聖霊師だ、ただ視ようとするだけでも軽い所は見れるし、身体の一部に触れれば、簡単にその者の聖霊の細かな所を見る事が出来る。
 つまり今の自分の状態を、視られたのだ。
「…無理したな。大分弱っているじゃないか」
「………申し訳ありません」
 押し殺すような声に、重い分銅が全身にのしかかった気分だった。
「いいか、忘れている訳ではないとは思うが、元々聖霊の癒しの力は女だけが使えるものだ。男のお前が本来は使えるはずがないんだ、いくら使えるからといってそれを行使し過ぎれば、その力はお前の命を削る事になるんだぞ。」
「承知しています。けれど……けれど、目の前で彼の命が息絶えようとしているの黙って見過ごす事など出来なかったのです。
 お叱りは受けます。けれど、私がした事に悔いはありません」
 はっきりと母親に告げる。
 母は、少々きつい光を込めて侶道を見つめていたが、暫くの間の後にふと軽い溜息をついた。諦めたような笑いを浮かべ、腕を離してたんたんと軽く肩を叩く。
「判ってる。──お前の性格ぐらい、とっくの昔に理解してるさ。
 だからって無駄に無茶はするなよ。命といっても、お前の身体の聖霊自体が削られているんだ。下手にやりすぎるとそれ以降一生動けなくなる可能性もあるんだからな」
「はい、判っています」
「……少し位いつもの口調に戻れよ。俺とふたりっきりなんだからさ」
 普段の調子に戻った当麻の言葉に暫く返答を返せず虚を突かれた面持ちをしていたが、何かを思い出したか、ふっと笑いが漏れて彼は軽く首を振った。母が歩き出すのを、後から追い掛ける様に彼も歩き始める。
「…母さんの様に切り替えは上手じゃないんだよ。
 こっちに戻すと素でこれが表に出そうで」
「だからって親子の間にあの口調はないだろ?」
「一応、あれが今の俺の素なんだよ」
「………どんどん貴族色に染まってくな、俺達」
 うんざりとした当麻の言葉に、軽く侶道は笑う。
「でも、母さんは染まってない分、幾らか助かってるよ。何処か高圧的で疲れる時があるし、やっぱり街の言葉が一番慣れてる」
「セルベル達には不評だけどな。この前もこの口調何とかしろって小言を食らったよ。」
「実行に移していない分、まだ許してるじゃないか。
 それに母さんは土壇場で使い分けられるから、大目に見てもらってるんだろう?」
 そうなのか、と首を傾げつつ、当麻は客室の扉をノックひとつせずに開けた。出来るだけ音を立てずに戸を引くと、中で椅子に座って何かの様子を見ていた侍女が立ち上がり、部屋の中へ入ってくる二人に深々と頭を下げた。
 彼女の横には素材の良いベッドが置かれている、そこに横たわり、眠りについている少年が一人。穏やかな面持ちの様子の少年を見てから、当麻は視線で侍女に状況を促す。それを受け止めて頷き、侍女が口を開く。
「熱は下がりました。漸く落ち着かれた所です。
 先生は大丈夫だと仰せられましたが、縫合を後に治癒の力で治めるまで安静を要するとのことです。体力も回復し切れていないので、休養も与えておく様にと仰せられていました」
「そうか、サンキュ、…とフィンを呼んで来てくれないか」
「承知致しました」
 そろそろと足音を立てぬ様歩いて行く。その姿が妙にぎこちない、当麻は不意に気になり、しばしばと目を瞬かせる。
「カノン」
「はい」
「…客人なんだからな」
 立ち止まり、振り向いた侍女は口元を押さえていた。…笑いが抑えられない様子だ。呆れ顔で当麻が促すとカノンはするすると部屋から退室していく。
「あいつに任せない方が良かったんじゃないか?」
「時既に遅し、だよ。世話役から外したら、きっと泣いて懇願されるよ」
「あー……早く他のやつも医療技術覚えてくんねえかなあ……」
 呟いて息をついてから、二人は再度少年を見た。
 枕に散らばる短い髪は海の様に深い蒼色をしていた。面持ちはまだ幼い所を残し、肩幅も広いというよりはまだ華奢の部類に入る。感覚的に大人へ成長するほんの少し前の所だった。程よく筋肉の乗った腕のライン、下手に整っている顔立ちは侶道の脳裏にあまり顔合せしたくない貴族の面々を次々と思い浮かばせた。売られていたら、一体誰が買っていたのやらと思うと、眉を潜めて渋い面持ちになる。
「今、莫迦共の顔触れ思い出しただろ」
 同じく、苦い面持ちを浮かべた当麻に是と侶道は伝える。苦いものを吐き出す様な声を吐いて、当麻は頭を抱えた。
「ほんっと、運良いぞ、こいつ…カルブゴーンのあれの一員になってかもしれないとか、メレオスの所に持ってかれたかもしれないとか、いろんな事が頭ん中でぐるぐるしてる。
 いや、それよりも、ゲミスのあのお嬢の所に行ったら、さぞかし大変だっただろうな……」
「母さん…キリがないよ、それ」
 目眩を覚えたのか、当麻はふるふると首を振った。
「貴族ってどうしてこー変態ばっか多いんだ? いい加減慣れては来たが、サドにはまだ耐えられん」
「暇なんだろう? それでもって、目に入るものは綺麗なものじゃないと気がすまない」
 はあ、と大袈裟に溜息が漏れた。
「早く抜け出してえな…」
「父さん置いて?」
「莫迦、出来るかよ」
 かしかしと、頭を摩る。元々一般市民だった当麻が今迄生きて来た人生の殆どは一般市民としての人生である、貴族とは全く無縁の存在だったのだ。なのに彼女が今この地で市民よりも高い位についているのは、彼女の伴侶に因るところであった。
 軽く扉を叩く音が聞こえる。答えると、開いた扉から空色の髪の少年が現れた。
「呼びましたか?」
「ああ。フィン、ちょっと来てくれ」
 是と答えてからフィンは軽い足取りで二人の元に近寄ってくる。視線がベッドの上に眠る少年に行き、彼は二人を見上げた。
「どうですか、その人」
「大丈夫だそうだよ。暫く休養は必要みたいだが、問題はなかったみたいだからその内目は醒めるだろう」
「そっか、良かった」
 ほっと安堵の息をつく。フィンは外見は目の前の少年よりも幼く見えるが、実際は彼よりも多く生きている。自分より年下の者が命を落とすのは忍びないと思っていたのかもしれない。
「で、呼ばれた御用件は」
「ああ、そうだった。まあこの少年の事なんだが…判るだろ?」
 一応はと相槌を打ってフィンはまた少年を見下ろした。少年が瞳を開いた事がまだないので瞳がどんな色をしているのか判らないが、この髪の色は特に気にもしない、稀少ではあるものの存在する色だった。現にフィンの髪も瞳も、真っ青な空色である。
 しかしこの少年には、明らかに彼らと違う何かを身に抱えていた。
「…」
 微かに、少年が身じろぎする。顔をこちらに動かしたかと思うと、うっすらとその瞳が開いた。ぼんやりとした表情のまま侶道達を見、視線をその上の天井、天幕へと移させる。瞼を数度瞬かせる。段々と見開かれる瞳は、公国では短い夏の空の色だった。
 がばりと突然身体を起した、だが、傷に障ったのか少年は高い呻き声を上げて蹲る。
「動いては駄目だ。治癒の力が届かず手術を行っている身体なんだ、縫合の傷が塞がる迄無理に動かしてはいけないよ」
 手を伸ばして少年の肩に触れると、少年の身体が異常に反応して震えた。硬直してしまった身体が手に伝わり、軽率だったと思ったが、敢えて侶道はその手を離さなかった。ゆっくりと少年の顔が上がり手の存在の姿を確認すると、途端に肩の力が抜けて行く。宥める様に、侶道は優しく笑いかけた。
「…貴方は」
「此処に住む者だ。森を巡回していた時に君を見つけて保護させてもらった。
 …取り合えず起きていてはいけないよ、傷は塞がっていないんだ。もう暫く安静にしていると良い」
 肩に触れていた手でそっと少年の身体を押すと、大人しく少年はその力に従った。横たわってから侶道の他にも人が居たのに気付いたらしく、二人を交互に見やり、そして何かを思い出したのか少年は慌てた様子を見せた。
「すいません、楽器、僕の楽器は…」
「荷物は全て保管しているよ。確認はしていないが君の持ち物もその中にあるだろう。
 後で持って来よう。どんなものなのかな」
「草色の袋に、稲の色をした紐を編み上げた縄で口を縛っている袋です。」
「判った、探すのは少し時間かかるだろうから、待っていて欲しい」
 ほっと彼が息をつく。吟遊詩人かと思っていたが、もしかしたら楽士かもしれないなと考えていると、少年が再度何かを思い出したらしい、今度は頬を赤らめて慌てた。
「あ、あの。助けて頂いて有難うございます」
「礼には及ばない。私が君を見つけた時は既に危険な状態だった。後少し遅れていたら助けられなかったのかもしれない、私が謝るべき事だよ」
「そんな、今僕は生きているじゃないですか。本当なら死んでいた筈なのに、今こうしていられるのは貴方のお陰なんです、本当に有難うございます」
「…水を差すようで悪いが、どうしてお前あんなになってたんだ?
 こうはっきり言うのもなんだがお前、商品として連れてかれてたんだと思ったんだが」
 良い金になる商品をあそこまで傷物にするという事は、余程の事をしたのだろうと自分の中で付け加えつつ……だが口に出す事はなく……問うた当麻の問いに少年は躊躇し、暫く迷いの表情を浮かばせ沈黙した。言うか言わないか、それに迷っているのかうろうろと視線が彷徨っている。
 暫くその様子を見、侶道は少年の肩に手を置き、軽く叩いた。
「無理に言う必要もないよ。何かがあった事だけは判っているのだから……それよりどうする、君はまだ会話が出来るかい? 疲れているなら、暫く休んだ方が良いのだが。」
 頭を横に振り、大丈夫だと答える少年に侶道は微笑で了承した。
「では、手短かに話す為単刀直入に訊ねるけれど──君、この世界の者ではないね」
「は … …、──」
 答えようとした少年の口が空いたまま、彼の時が凍った。
 数秒口を開いたまま身動きせず、数秒のち、瞬きをし始めた。次第に瞳が右往左往と動き始め、最後に侶道を見る。あの、と肺の底から押し出したような声を出して。
「…判る、んですか?」
「私達は聖霊師だからね。…と、聖霊師とは何か、判るかな」
 ふるふると頭を振る少年に、侶道は頷いて説明を始めようとする。それに気付いたフィンが向う側に在った椅子を移動させて来る。侶道と当麻に椅子を与え、座らせてから、彼はそそくさと侶道の後ろに佇んだ。
「聖霊師とは、言葉の通り『聖霊』という力を見る事が出来る者の事だ。この世界全てに存在していると言われている意志を持った力──妖精と似た存在でもあるかな。
 それは人の中にも居て、これはどうしようもなく皆同じものを持っている。君に関してもそうだ。だが君の場合、生命の聖霊というものの色が、我々と少々違う。
 他の聖霊の色ならまだしも、生命の聖霊の色となると、この世界に生きる者は全て同じ理から生まれてくるから、それはあり得ない事なんだ。」
「だから僕がこの世界の人間ではない、と」
 是と頷き、侶道はふと思い出した様に苦笑を浮かべる。
「付け加えると、この土地は現在少々情勢が不安定でね、あの森に君の様な者がいる事は滅多にない。それに、どうもここ一帯は違う意味で不安定で、君の様な"星渡り"をして辿り着く人が少なく無い」
「…それは、僕の他にまだこうやって来た人がいるという事ですか?」
「そんな所だよ」
 ぽかりと、少年は頭に石をぶつけられた様な顔をした。無理もないだろう、自分は実はここの人間ではなくて、何処か違う世界から来た──なんて、普通ならばおかしくなったかとでも思われるものだ。それをあっさりと肯定され、しかも自分と同じ立場の者がいるなんて、すぐには認められないだろう。
 だが実際彼と同じ者達は居て──今だこの世界の何処かに存在していた。侶道達は実際目の前でそんな者達を何度も見て来たのだ。
「ともあれ、私達はこの様な事に慣れている。
 慌てずゆっくりするといい。何かあればここに呼び鈴があるから私でもフィンでも気軽に呼んでくれればいい──と」
 ベッドの横に置かれている棚の上の鈴を示してから、そうだと侶道は何かに気付く。
「自己紹介を忘れていた。私は侶道、侶道=ファルスという者だ。彼はフィン、彼は──」
「宜しくお願いします、僕は侶道さんの従者です。」
 何かを言い掛けた侶道の声を遮って、はっきりとした口調でフィンが少年に声をかける。ぱしぱしと目を瞬く少年の前で、少々困ったような面持ちになった侶道が、そしらぬ様ににっこりと笑っているフィンの方に意識を向けた。が、すぐに少年の方に戻り、小さく溜息をつきながら気を取り直したらしい、言葉を続けた。
「──もう一方は、私の母で、当麻という」
「宜しく。何かあったら、俺にも遠慮なく聞いてくれ」
 男の様な口調で喋りかける彼女に気後れする事無くにこりと笑って、少年はよろしくと返した。
「こちらこそ、いろいろ御迷惑をかけると思いますが宜しくお願いします。
 あ、──ええと、"リシェ"、と言います」
「…リシェ、か。宜しく」
 答えた当麻の短い言葉。その中に何かが隠されたのを二人は聞き逃さなかった。
「さて、自己紹介も終わった事だし、暫く静かにさせとこうか」
「え、いえ大丈夫です。僕、これからの事とかどうすればいいのか、聞かせてもらいたいんですが…」
「莫迦、その過信が危ないんだよ。お前の傷は酷い所の騒ぎじゃなかったんだ。
 一度の魔法で完治出来なかったのは、二度目で完治出来るものじゃない。それほど命に関わるものだったという事だ。
 もう少し安静にしていないと」
「でも…」
「…何か心配事でもありそうだが」
 椅子から腰を上げ、す、と当麻が前へ身体をすすめる。リシェの空色の双眼の前に手をかざし、トーンを下げた声を響かせる。
『眠っておけ。お前の中に居ずる疲れ果てた聖霊達』
 ふわりと、彼の顔と当麻の掌の間にささやかな風が生じ、流れに乗って四散した時にはリシェは目眩が起こしたかの様に顔をしかめさせ、頭をくらりと揺らした。最後には目を閉じ背凭れていた枕に身体を預け、規則正しく深い呼吸を繰り返しはじめる。
 …完全にリシェは眠りに落ちた様だ。
「…あーあー…」
「何だよ」
「当麻さんの悪い癖ですね」
 ちらりと当麻が横目で見ると、息子と従者が……と言っても息子の方は双眼が閉じているので、そんな感じがするだけなのだが……抗議の視線を送っていた。
「自分の事は棚に上げておいて、他人の事になるといっつも強制的になるのはどうにかした方がいいと思いますよ。心配する気持は判るけど」
「俺が何時自分の事を棚に上げたよ」
「…… 自覚ないんですね、当麻さん」
 すごい言われ様だな、と不機嫌に言い、腰に手を当ててへの口に曲げる。
「ふん、名前も言えない様なやつはこれくらいやったっていいんだよ」
「母さん…それは彼も何か事情があったからじゃないの?」
「だからって、あらかさまな嘘を言われるのも腹が立つ」
「…」
 子供じみた膨れっ面に苦笑を浮かべていると、隣からあの、とそっと遠慮気味にフィンが声を出す。
「名前を言えないって、どういう事ですか?」
「…… …はあ?何だ、お前判らなかったのか」
「…え、え?」
 何がですか、という面持ちのフィンに、当麻は呆れた様に肩を落とし、髪をかきあげた。
「古語はお前の専門だろうに。"リシェ"は古語でなんて言葉だ?」
「リシェ? ………… ──えぇ、『偽り』?」
 是と当麻が頷いた。
 古語とは、魔術の根源である「サラサの理」に使われている文字の事である。貴族名の様に書き方さえ違うものもあれば、ただ意味のみが違うものもある。詠唱の時に紡ぎ出すのは通常語だが……その世界に存在する言葉であれば大抵は何でも良い……、箇所により古語で表現しなければ、通常語では現しにくい言葉が出て来る。文字をなぞる様に言葉もなぞれば魔術は大抵施行出来るが、より高みを求める者にはその魔法自体の言葉を理解する必要がある為に魔術師である彼にとっては深く知らなければならない分野でもあった。
 外見上はまだ成人となる年の半分もいかぬ姿のフィンだが、こう見えても高位魔術師である。その気になれば古語だけで会話を交わす事も可能な程、古語の事は理解していた。
 だがこの時、彼は目の前で眠りに落ちている少年が古語を使う等、思いもしなかったのだ。
 偶然かもしれなかった。けれど彼女にはそれの他に気になる所があった。名を言う前の、ほんの少しの逡巡。その時彼女の眼には、戸惑う聖霊が視えていたのだ。
「本名は、どうも別にある様だね」
 侶道の言葉に、自然と視線が少年に集まる。
 一体どの様な考えで偽りの名を使う事にしたのか、大切な事だったのか、些細な事だったのかは彼しか知る者はいない。
 侶道達に判る事は、それ以外のただひとつの事だけで。
「…また何か、起こりそうな気がするね」
 苦笑いを浮かべて侶道が息を吐くと同時に呟いた。
「別にいつもの事だろ」
「それに少し、いつもより面白そうじゃないですか?」
 相槌を打つ当麻に、声すら面白そうだと言っているフィン。一瞬呆気にとられ、次に侶道はくすくすと笑った。
「…そうだな。そんな感じはする。
 加えてみると、彼は楽士の様だし、もしかしたら彼の世界の歌を聴けるかもね」
「あ、そういやそうだったか。
 ふうん、ま、ひとつくらいは聴かせてもらわねえとな」
『歌』の言葉に反応し、少々機嫌を良くした母の声色に、侶道は微笑んだ。


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