金色のお団子のお下げが風に揺れて行った。そのまま船に乗り込み、一度だけこちらを振り返ってから、その少女は奥へと入って行く。その姿が見えなくなるまで、カーシュはずっと見つめていた。
「寂しいなあ……折角思い出したのに」
同行していたグレンがぽつんと独り言の様に言った。この数日間、グレンは久し振りに再開出来た仲間の様に……いや、恐らくそうなのだろうが……あの少女、キッドとよく行動を共にしていた。騒いで遊んで、時には練習試合の様にお互いの剣の腕を確かめあった。変わらないなと呟くグレン、何時も悪態をついていただけだったキッドは、最後だけ一言、「強くなったな」と、グレンに残した。
「また逢えますよ、絶対に」
同じくキッドの見送りで来ていたリデルが、船を見上げつつグレンに言った。
「……だと、いいのに」
「そうだよ、あいつは戻ってくるさ」
いまいち不安の声を上げるグレンの頭を、カーシュは軽く掌で叩いた。
キッドを乗せた船は波を掻き分けて進んでいく───赤い風は、あっという間に消えて行った。
[……悪いな。頼む、セルジュの事、判ったら……俺が来た時で良い、教えてくれ]
それだけを、彼に残して。
数日たったある日、がこんと変に激しい音が部屋中に響いた。今だ自分に配分された書類の山に囲まれたままのカーシュは、その音を立てた扉の方に顔を振り向かせた。其処に存在するは驚愕の表情を浮かべたグレンの兄、ダリオだ。
「よう、どうした?また何か凶報事でも?」
彼の挨拶を無視しているのか、何も答えずにずかずかと部屋の中へ侵入する。
おかしい。カーシュはささやかに目を細めた。
いつもの彼なら何事が起ろうともそれほどの感情の変化は起らない。大体は穏やかに微笑み、突拍子もない事を口にして相手を驚かす事もしばしばである。その彼が感情を変化させる事があるとすれば、リデルやグレン……己の大事な者達に何か起った時だ。………………………
まさか?
閃いた瞬間、カーシュの肩はダリオの手にしっかりと掴まれていた。
「お前、リデルの事をお慕いしていたというのは本当か?」
………やっと気付いたか、この鈍感男め。
妙に彼の様子がおかしくて、今にも笑い転げそうになる自分を抑え付け、苦笑いを浮かべて肯定を意を与える。途端彼はカーシュを掴んだまま激しく揺さぶった。
「何故言わなかった!そんな事を知っていたらわざわざ真正面から2人で婚約の事等話はしなかったぞ!」
「今更言った所でどうするんだよ?」
彼の揺さぶりを両手で押し止め、カーシュは目眩を起す頭を支えながらダリオに視線を向けた。眉間に深い皺を寄せて、まるで大切な何かを盗んでしまったかの様な罪悪感に苛まれていそうな雰囲気の彼に、にやりと笑って見せる。少し前なら作り笑いだっただろうが、今は本当の笑顔を見せられる。
「お嬢様は最初からお前しか見えてなかったんだよ。それなのに俺が混ざるのはあの方がかわいそうだろう。両思いを崩そうと思う程、俺は性格は悪くねぇさ」
「しかし…」
「無用だな、ダリオ。
暫く前にさっぱりと振られた。
もう俺の中で整理はついている」
言葉を詰まらせて、ダリオはほんの少し黙り込んだ。重い溜め息が吐かれるのを聞いてからカーシュはダリオにそっと訊ねる。
「明日か」
「…ああ」
「いろいろあったな。…最も、お前の事に関しては俺がやらかしてしまったんだが」
「そうしていなければ、お前は死んでいただろう?
お前が止めていなければ、きっと他の仲間も……リデルも恐らく自分の手で殺めていた。お前には辛い思いをさせたが、感謝している」
無言で首を横に振るのを苦笑し、ダリオはカーシュの肩を軽く叩いた。
「あのグランドリオンは何処へ行ったのだろうな」
「さあな。……もしかしたら」
「もしかしたら?」
口を開きかけて、カーシュは再度首を振り言うのをやめた。しっかりと思い出している訳でも無いし確信も無いのを、言うのはためらわれたのだ。
でも先ほど一瞬思い出したのは、マルチェラ達と見た草色の鋭利な刃を持つ、あの少年──セルジュの武器の事。軽く一振りすると空気を斬る様な鋭い音が響き、大抵のモノは容易く切り裂いてしまう程の威力もある。それを持ちながらセルジュが扱う事を難しいと言っていた様な、靄がかった記憶も何処となくあるのだ。名前も多少似ていた気がする。確か、グランドリームとか言っていた筈だ。
「カーシュ」
物思いに耽っていた意識を浮上させて、ぱっと顔を上げた。どうしたと訊ねる親友に何でもないと答え、前髪をかきあげる。今まで書類に没頭していた所為か頭の中から自分が抜け出せていない。油断すると頭の中に入り込んでしまい、外側の様子が見えにくくなる。
「悪い、頭が冴えねえ」
「お前は昔から書類関係が苦手だったからな。
無理するな、明日の為に体調は万全にしておいてくれ」
「…は?」
何も万全にする必要は無いだろう、と思った突如、もしやという言葉が生まれてきた。案の定ダリオはそのまさかという様な笑みでカーシュに言った。
「こうなったら明日は嫌でも浴びる程飲んで貰うぞ」
「げ、本気か。
俺明日抜けられない仕事が入ってるのは知ってるよな」
「ああ、勿論知っているさ」
「…って事は」
「その通り。夜の宴中はイシト君と……グレンも混ぜて、盛大に騒ごうじゃないか?」
頭を抱えてカーシュは唸った。
この野郎……どうしても俺の本音を聞きたいらしいな。
ダリオに捕まったら……おまけにイシトとグレンも混ざると抜けられない事は必至。酷く酔っ払ってしまう事は、自分が何を言ったか覚えていないという、最悪な出来事が起る。そしてそれをダリオは絶好の機会だと判っている。その騒ぎをやる理由が理由なだけに、拒否して欠席にする事も出来ない。
はた、とカーシュは目をしばたかせた。次に苦笑が浮かび、笑いが込み上げてくる。それを不思議そうに見つめるダリオにも気付かず、カーシュは笑いを何とか抑えた。
何を悩むのだか──とっくにリデルにはばれたのだろうに。
「いいぜ、とことん付き合ってもらおうじゃないか」
涙目になりながら顔を上げたカーシュに驚きつつも、いつもの笑顔を浮かべてダリオは言った。
「リデルも追加だ。──飲み明かす事にしよう。きっとリデルもその方が喜ぶ」
「全くだ。あの方は見掛けに寄らず酒豪だからな」
「大佐は驚くだろうな………負けていられないな、リデルには」
軽い笑いが飛び交い、ダリオはふと顔を上げた。扉をノックする音が聞こえたからだ。開かれた其処には、最近ダリオが世話をかけ続けている待女が佇んでいた。
「やはりここでしたかダリオ様。そろそろ最終確認の方お願いしますよ、部屋で皆待っているのですから」
「そうか」
待女に言われて退出しようとする彼の背後から、カーシュは声をかけた。
「頑張れよ。幸せにしてやんねえと殴るからな」
「胆に命じておくよ」
肩をすくませ、そうはっきりと答えてからダリオは戸を締めた。ぱたん、と静かな音が響く。
別に忠告する事でも無かった、忠告する程の相手じゃなかった。……あいつは誰かを不幸せにする事の方が難しいだろう。それなりの知識もあるし、他人に対する考え方も、本当は柔軟なのだ。それに多少の事では屈しないあの性格は、きっと彼女を導き、護っていく事だろう。ただ、言わないと気が済まなかっただけだった。それをしっかりと、親友は受け止めてくれた。それで十分だった。
「本当に、仲が良いんだね」
透明な声が響き渡り、机に身体を戻していたカーシュはその扉の方を再度見た。深海色の髪に隠れる空色の瞳が笑う……その少年は音も無く扉の前に佇んでいた。『実体』として。
「…誰だ、てめぇ」
声を殺し、唸る様に問いかけるカーシュに少年は笑うだけ。
「僕はセルジュだよ。……と言いたい所だけど、もう無理だね。はっきり判っているみたいだ。
……やはり、肉親と『彼女』の次に彼に近い所に居るだけある……」
「おい、人の質問に答えろ」
ひとりよがりな発言を続ける少年を睨みつけていたカーシュに酷いなと一言呟き、手を広げ肩をすくめて少年は苦笑を浮かべた。
「これから一番のヒントを教えようとしているのに」
「……!?」
眉を潜めてカーシュは身体を起こし掛けた。それを手で制して、少年はゆっくりと彼へと歩み寄り出す。
「確かにボクはカーシュ達が探している人じゃないよ。
でもボクは、皆の知らない所で一番近い所に居る。
あの人の事を全部知っている。」
「何だと……?」
目の前まで来た少年はすっとカーシュを見下ろした。
その微笑み方……歩き方、口調までまるであの少年と同じ。この者が少年なのではないかという位似ている……錯覚を受ける。だが心の何処からかそれを否定する声が聞こえるのだ。
『これ』は、あの少年では無い。
「会いたい?この人に。
知りたい?一体誰を忘れているのか。
でもそれはもしかしたら貴方にとって辛い事かもしれないのに?
どうして記憶が無くなっていたと思っている?
どうして封印されていたのだと思っている?」
「知るか」
まだ言い掛けていたのか、開きかけた口をそのままに、少年から笑顔が消えた。腕を組んで少年の瞳を見据える彼が、言葉を紡ぐ。
「苦しい事だろうが、哀しいことだろうが、俺は知らねぇ。
只そいつが……大事だっていう事、莫迦みてぇに愛しい事、護りたいと思う事、……忘れたくないと思う事、それだけだ」
忘れたくなかったから。忘れてしまっていたけど、微かな断片は覚えていたから。それは自分がそうやって記憶を封じられてしまっても、絶対忘れたくないと願っていたのだろうと信じているから。だからその先がどんなのであろうとも…少年と共に居た記憶であるならば、辛いだけではない筈だ。
本当は、キッドの後押し──『思い出せよ』も、その理由のひとつとなっているのだが。言う事でもないだろうとカーシュはそれを敢えて省いた。
その様子を見て少年は無表情だった顔に笑顔を取り戻す。先程とは全く違った、何か企んでいる所を匂わす笑み。カーシュの後ろを通り、窓の向こうに見える二つの月をそっと眺めてから少年は後ろを振り向いてカーシュを見た。全く変わらず、その表情には何かを含ませた笑みが浮かんでいる。
「……ボクが『誰か』は教えないでおくよ、きっと……怖がるだろうから。」
「はぁ?」
くすくすと笑いを堪えるだけで何も言わない少年に、カーシュは眉を潜めるだけ。テーブルに寄りかかり、相なる窓に視線を向けて遠くを見やり……少年はゆっくりとこちらを振り向く。
「風鳴きの岬へ」
「風鳴きの岬?」
「そう、貴方と『あの人』はそこから始まったんだ。 全てを繋ぐ貴方達はね。
例え全ては仕組まれていた事だったとしても、
例え全ては誰かの手の内の出来事だったとしても、
『あの人』の全てが手の内で決められていた事ではない。
…少なくともボクは出会えて良かったと思っているんだ、これでも。
『あの人』がどう思うかは、敢えて知らない様にしているけれど」
にこりと、少年は笑う。
「ボクが言える事はここまでだ。全ては其処で判るだろうから」
「…自分で見つけろって事か」
「ご明察。
さぁ、ヒントは教えておいたよ。
あとはガンバって。
……ああ」
思い出したのか少年がふと苦笑を浮かばせる。毎回はっきりとした動作に、どうも気にかかりカーシュは問いかけた。
「何だ」
「ひとつだけ謝っておくよ。
苦しめてしまって、悪かったと思ってる」
「どういう、意味だ……?」
「……いずれ……判るさ……」
テーブルからその手が離されると、その姿は途端に透明になっていく。窓も空いていないのに風が入って来たかの様に、そのシルエットが風に吹かれる様に、ふわりと跡形も無く消えて行った。
言葉に出す事も無くカーシュはその場に呆然と座っていた。今のは全て幻影だったのだろうか?まだ頭が冴えていなかったのだろうか。あっと言う間の幻影は、もう確認する事も出来ない。
…けれど、見ていたものは全て真実なのだという事は判る。今まで見ていたものは、全て、実際にあったのだ、幻なのではない。前にも、出会っていたのだから。
やがて背持たれに身体を預け、軽く息をつく。頭が混乱したままだが、これだけは判る。
───風鳴きの、岬へ。