廊下側が少々ざわつき始めた。
既に見飽きてしまった書類に向かって一心不乱に筆を進ませていたが、その落ち着きの無さにカーシュは筆を止めて扉の方を見る。タイミングを計る様に扉をノックする音が聞こえ、戸が開く。踵を揃えて拳を胸の前に、騎士団略式敬礼の後グレンは口を開いた。
「侵入者らしき者を発見、追跡しましたが逃しました。
まだ館内に居る可能性が高い故、カーシュ様にも捜索の援助をお願いしたく参りました」
最後に、やっちゃった、と苦い笑みを浮かべたグレンにカーシュもまた苦笑し、椅子から立ち上がった。
「莫迦者。逃がす奴がどこに居るんだよ」
ごつんと頭を拳で軽く殴り、彼は立てかけてあった己の斧を持ち上げて一振り。数時間振りの斧の感触を味わう様に手を開いては握り締めていた。
殴られた頭を片手で抱えつつ、グレンは少しすねた様に言う。
「兄貴と一緒に居て逃すんだぜ?プロだよ、向こうは」
「ダリオも逃がしたのか!?」
「そ、だからカーシュ兄にも助けを求めてるんだよ」
時々起こる侵入騒ぎ、いつもカーシュやグレン達が追掛け回し、最後にダリオが捕えるという寸法で大抵解決していた。ダリオが相手を見逃す事は滅多に無い、どうやって追掛けているかは不明だが必ず最後には侵入者の前を塞ぐ者だ。そのダリオを離すとは……どうやら一筋縄では行かない様だ。
戸を開けるとばたばたと走る音が廊下によく響いていた。それに続いて二人も駆け足に廊下を渡りつつ、カーシュはグレンに問いかける。
「んで、お前はその姿を見たんだよな?」
「ちゃんと見た訳じゃないけどね。
暗闇だったから難しいけど確か赤が印象的な服でさ」
……どくり。
突如、胸が息苦しくなる。理由は判っている、カーシュは口をわざとつぐんだ。
「身のこなしがすっごく軽くて、女だったのかな、華奢な身体だった。
金髪のお下げ、腕や顔に白い模様が描かれていて……後は判らなかったな」
頭の中に焼き付いているその赤は、瞬時に現われた。……間違いは、殆どの確率で無い。
「成程」
呟かれた言葉にグレンは顔を上げた。あ、と思わず言葉を漏らしてしまったのは、彼の炎色の瞳が何か普段とは違う風に揺らめいていたが為に。
「ダリオが逃す訳だよ」
「……知ってるのか?そいつの事」
口端を上げてカーシュはにぃと笑い、走るスピードを早めた。
「あいつ以上じゃないがな!」
玉座が天井近くから降りて来てがこんと鈍い音を立てて地に降りる。早足にカーシュが乗り込むのに、グレンともう一人がついて来た。
「冗談だろう、カーシュ。 まさか侵入者がこの仕掛けに気付いたとでも?」
金の髪にグレンと同じ青緑の色を湛えた双眼を持つ青年が不安混じりの声を上げる。この玉座から上へと移動し、奥の間を抜けるとこの館の主人、そして娘の部屋が存在していた。……つまり、自分の将来の妻となる女性が居るのだ。
「気付いたんじゃない、『知ってた』んだよ。
…そんなに心配する必要ねぇって。
あいつは滅多矢鱈に刃を振り回す奴じゃないんだからよ、ダリオ」
「とは言われても私はあの者を知らないんだ」
今の所は、な。
心の中で呟きつつ、カーシュは青年…ダリオを宥めつつ上へと上がって行った。
本当の所少しだけ心配でもあった。自分が知っているのは記憶の中の時の事だけなのだ、今の彼女は自分が知らない彼女かもしれない、もしかしたら彼女じゃなく、人違いの可能性もある。
それでも半分自分の存在を覚えていてくれたら……という期待があるのだ。
また半分知らないで単にお宝探しの為に入って来たのなら、生きる為には何でもやるだろう性格は知っているからこその心配もあるのだが。
がたん、と玉座の上昇が終わり3人は奥の間へと走る。突き当たりに差し掛かって3人の走りが突然止った。金縛りに逢ったかの様に皆動かなくなり、一点を見続けるだけ。
其処にあった風景は…………リデルの首元に短剣が突き付けられている、場面。
「お嬢様!」
「リデル!」
後ろに居た兄弟が金縛りが解かれたかの様に叫び、前へと走り出そうとしていた。それに気付いたかリデルの後ろに回り込んでいた少女が甲高い声で叫ぶ。
「動くんじゃねぇ!」
短剣が更にリデルの喉元へと近付き、二人は身体を制止した。彼等と反対側……扉の向こうにも同じ様子の大佐が佇んでいる。
……『前』にも、見た事がある様な気がする。
「何のために此処に来た?」
一人落ち着いた声がその空間に通った。空色の瞳を見開いて少女が彼を凝視する。
「何の為に?」
自然と挑戦的な笑みが表情に浮かんでくる、『前』もこんな風だったのだろうかと思える程。
…いいや、きっとお嬢様に短剣突き付けているのに怒ってただろう。
今自分がこんなにも余裕が持てるのは、目の前に居る少女がとても『見知った』者だったから。
「……んな事、お前に教える義理はねぇよ」
少しずつテラスへ続く階段を、少女は微妙な面持ちをしているリデルを盾に後退していった。大佐と合流し、少しずつ少女を追い詰める様に進みながら4人は声を抑えて会話を交す。
「大佐、ご無事で」
「うむ……どうにもタイミングが悪かった様だな。
対峙した直前にリデルが入って来た」
「畜生、よくもお嬢様を……」
「……カーシュ、あれで大丈夫だと言うのか、お前は」
ダリオに問われ、少しだけ首を傾けてから肯定の言葉を紡ぐ。親友の雰囲気が途端に不穏に変り、無理もないかとカーシュは苦い笑みを浮かべ、表情を戻してからくるりと振り返った。
3人に立ち塞がる様に佇み、カーシュはきっぱりと言い放つ。
「これだけは約束して頂きたい。
何があっても手は出さないで欲しい。
絶対に、お嬢様はお助けする」
沈黙が3人の間に訪れる。あまり了承したくないものなのは承知の上、だが……賭けてみたいのだ、先程の少女の反応を見てそうカーシュは思った。
ここで承諾を得てもそれからを考えてはいなかったのだが……
「…良いだろう。リデルを頼む」
「有難うございます」
「カーシュ兄……」
名を呼ばれてカーシュはグレンと顔を合わせ、に、と笑いかける。大丈夫だという含みを込めて、……意味有気な意味を含めて。
空に浮かぶ白の月と赤の月がよく映える夜空だった。いつもは周囲の噴水の中にある蛍光液の灯りでも多少なら見えた筈の星は今日は一段と見かけなくなっている。蛍光液の灯りも負けてしまう程の輝きを持った月を背景に、浮かぶ様に存在する少女。その足元に伸びる黒い影。
何かが重なる……そんな感触をカーシュは受けていた。
かつり、と靴音が鳴る。
「ちょっと、世間話でもしねぇか?」
どう切り出したらいいものか考えたが、何も考えつく事は無くカーシュはそのまま話しかけた。相も変らず相手は警戒を解かないまま後退する。
「…信用出来るか」
「ま、当り前だな」
あっさりと否定を受け入れた態度に呆気に取られ、少女は困惑した表情を隠せなかった。何を言いたいんだよ、と困ったように、可笑しい様にカーシュに問いかける。
「さて、な。それはお前が一番判っているとは思っているんだが」
「隙を作らせてその斧で攻撃しかけようとしてるとしか見えねぇよ」
ああそうか、と一言だけ相槌を打ち───
がらんっ。
いとも容易くカーシュは自分の斧を放り投げた。前後から驚きの声がどことなく聞こえてくるが、それを無視してカーシュは少女に話しかける。一歩ずつ近付きながら、慎重に。
「まだ信用ねぇか? それとも、お前の場合は莫迦かと思っているか」
ぴくりと……些細ながらに少女が自分の言葉に反応した、神頼みでもしたい気分に駆られながらカーシュは出来るだけ言葉を選んでいく。少女に響く言葉を探して探して探し求めて、見つける為に。この機会を逃さんという様に。
「いっつも人を小馬鹿にしている様で、結構自己中心的で、やりたい放題で。
……あいつの事でも同じで。俺に迄やきもち焼いてたな?」
数歩余裕をとった所で歩みを止め、彼は少女を見据えた。そこまで来るともう既に少女の目線は遥か下に位置していた、それは本当に、妙に懐かしい位置。
「お前、本当は小僧の事でここに来たんだろう?
違うか? 小娘……いいや、キッド」
からん…と固いモノが落ち地にぶつかり跳ね返る音が聞こえた。それと同時に少女の身体が動き、カーシュに詰め寄っていた。
「思い出してんのか?」
切羽詰まったかの様な瞳が彼を凝視する。彼の服を強く握り締めて。
「カーシュ、お前は知ってんのか? お前は思い出してんのか!?
あいつの事少しでも、何か…何か!」
「思い出してるのか以前に、それは全てお前がやった事だろう?
……まさかお前」
服を握り締めていた拳が緩められて、少女はふらりと後ろへ後退る。
「ああそうだよ。何ひとっつ判らねぇ。
自分でやった事も自分が決断した事も判ってる。
けど自分が『何を消したか』さっぱり覚えてねえよ!
……でもそれは俺にとっては大切で、大事で、手放しちゃいけなかったもので、今でも追い求めてる……探して…探して……ここまで来て……わかんねぇよ!
カーシュ! 俺は何を消しちまったんだよ!」
記憶の中では何時でも強気で居た、あの少年の前だけでは少しだけ弱気だったという、その少女……キッドが錯乱気味に叫んだ。滅多に見せる事のなかった涙を惜し気も無くぱたぱたと落としていきながら、痛切に自分の気持を暴露していた。
…二人の事を知っているからそのキッドの様子を受け入れられた。
二人の間柄をはっきりと伝えられたのだろう。
「…『誰か』だよ。俺にとっては小僧だが、お前にとっては『誰か』だ。
お前を愛していた、お前が愛してた『誰か』だ」
彼女の問いに答えつつ──忘れたくないと強く願っていた、あの少年の姿を思い出す。
「…誰か… ……誰か……」
復唱しながら視線が定まらない少女をカーシュは見つめていた。周囲は突然の二人の会話に割り込む事が出来ず、じっと二人の様子を遠巻きに見つめているだけ。その周囲から、……近くから小さな声が聞こえる。
気付けば目の前でふらついていたキッドの身体が倒れ掛けていた、その身体を慌てて支え、カーシュはキッドを地に降ろす。
「おい、小娘?……頭痛か?」
頭を抱えたキッドに出来るだけ抑えた声で話しかけるが反応は帰って来ない。……恐らく彼も体験した事のある、言い様の無いあの不快感に襲われているのだろう。
「カーシュ、この方は大丈夫なのですか?」
背後から恐怖した様子も無く、心配そうにリデルが声を掛けてくる。遠くで見ていた3人も何時の間にか集まっていて、キッドの様子をじっと見ていた。不思議そうに見ているのを見ると……やはり何処かで親近感を感じているのだろうと、微かにカーシュは思う。
「……恐らく大丈夫ではないでしょう。
今こいつに起ってるのが頭痛であれば、それは単なる頭痛じゃない筈ですから」
「それは、一体……」
「───── キッド?」
ぽつりと呟かれた言葉は、グレンの言葉。一斉に視線が彼へと集まるが、グレンは真直ぐにキッドを見たまま。キッドも漸く顔を上げ、苦痛の色を浮かべたままグレンを見た。
「…グレン、お前、俺の名を呼んだか?」
「ああ、今思い出した。キッドだよな?
あいつと一緒に居た、──あのキッドだよな?」
…刹那。
──ぃンッ!
糸の様な音がカーシュの頭の中に響き渡り、思わず彼は耳を塞いだ。微かな音の様で騒音なそれは高速でその場を過ぎ去っていく。ほんの少しの間の騒音、瞳を閉じていたらしいカーシュは瞼を開くと皆同じ音を聞いていたのか各々の音の反応を示していた。
中で一人、虚ろに遠くを見やる者が居る。
その者の名を呼んでも反応が全く無い、目の前に手をやっても何も示さない、目の前を見ていない、遠くを見ていない、近くも見ていない。
只、一言だけを。
「……………………………… ──────────セルジュ……」
再びぱたぱたと落ち始めた涙に気付く事もなく、少女は再びその言葉を紡ぐ。
「セルジュ」
「…セルジュ?」
こくり、とキッドが頷く。
「……あいつの名前が、…セルジュ…?」
──最後の望みはあっさりと無くなってしまった。呟こうとも考えようとも思おうとも、カーシュにはその『言葉』が引っかからない。その言葉は、『あの少年』の『名前』であるのに。自分の鍵穴は、『セルジュ』ではなかった様だ。
呟き終えた次に、激しい音を立てて何かが倒れたのはその時、見るとグレンが頭を抱えて倒れ込んでいた。何が起こったのかが判らないという表情でダリオが弟を抱き抱えて声を掛ける。
「グレン、どうしたんだ、グレン?」
「起さない方がいい、きっと先程のこいつと同じく頭が痛いんだろう」
彼の身体を軽く揺さぶりながら問いかけるダリオの姿と、声も出ないのか蹲るグレンの様子を見兼ねてカーシュが横から手を伸ばす。
「…何かを、思い出しかけているというのかね?」
大佐の言葉に一度頷き、カーシュは口を開く。
「思い出せそうで、出せない時に起るんです。
深く考えると更に激しくなる、気を失うほどの痛みが来るので……今はそっとしてやった方が」
「もしかして前にカーシュが倒れた時の、原因?」
リデルの問いかけに肯定の意を唱えてカーシュは言葉を付け加える。
「…原因は判らないのですが」
「全てはお前が思い出してからだ」
会話の中に感情が無い声が響く。感情がないというよりは、生気の失せた、かすれ声。
「お前が思い出してからじゃないと何も始まらない。
無理にキーワードを見つけて思い出そうとしても『あいつ』のかけた封印はそう易々と解かれるものじゃない。
順を追っていくしかない……」
「何なんだ、それは」
「……始まりと、終わり……」
始まりと、終わり……?
何も判らない、何かが反応した訳でもない。謎だらけの少女の言葉。
「…『あいつ』? キッド、お主が封印したのではないのか?」
問われた大佐の言葉に力無くキッドは首を振る。
「俺だよ……封印をかけたのは『俺』だ。でもそれは『俺』であって『俺』じゃないもの……
でも俺に変りはない……俺が封印をかけて……今まで……あいつを忘れて…………」
うなだれて言葉が途切れてしまう。それからその少女に声を掛ける事はためらわれた、どうにも……『忘れていた』だけがキッドの涙を溢れさせている原因の気がしない。膝にぱたぱたと滴を落としていく、見たことも無いキッドの様子にカーシュは顔を歪ませた。
カーシュ、と呼びかけられて顔を上げると、皆が立ち上がりその場から立ち去りかけていた。それを不思議に見つめていると身動きのとれない弟を抱き抱えながら立ち上がる男がそっと彼に話しかけてくる。
「我々は早々に立ち去るよ。
キッドの事はお前に任すしかないからな」
「……? …あ…まさか、お前等」
「そのまさか、だな」
微笑しダリオはあっという間に其処から消えて行った。
一人とり残されたカーシュは視線を宙に泳がせて頬を掻いた。嬉しくない体験だが女性が目の前で泣く事は多い、それでもいつも対応に困るのが彼の癖……。
軽く息を吐き、拒否されるのを覚悟で、カーシュはキッドを引き寄せた。
「…何だよ…」
「いーからお前は勝手に泣いとけ。
俺は見て無いし見てても忘れてやる。
言い触らしてやろうとは思わねえから安心しろ。
だから強がるのは取り合えず……今はやめとけ」
口答えする余裕を持たせず一気にまくしたて、それでなくとも生気が失せているキッドを沈黙させた。いつもと違う彼女の様子と、自分の行動に密かに眉を潜めて毒づく。
あいつにも同じことをしてたという事は、俺はやはりお節介莫迦か。
諦め混じりにため息をつき、カーシュは少女を自分の身体に押し付けた。
「お前だって、悲しい時には泣くんだろ。
『セルジュ』が言ってたんだぜ。
自分は、その時お前の拠り所でありたい、ってな」
お前があいつの拠り所であるようにな。
……口から出任せだった、はじめ半分。半分──久方に破片が舞い降りていた。夜の就寝前の些細な時間、少年──セルジュの本音が聞ける、大事な時。
その時に聞いた彼の『キッド』話、父親に『好きな娘が出来た』と告白するかの様な、彼のたったひとつの夢中になる話。
『…ずっと僕を支えてくれてたから。今度は…僕が彼女を支えたい』
真剣な表情で、横になりながら自分の手元に視線を向けて、半無意識に囁かれた言葉を、彼女は知っているのだろうか。
「セ……ルジュ…セルジュ…っ」
嗚咽を押し殺し、しゃくり上げながら少年の名を呼ぶ少女。その姿は記憶の中の少女と全く同じではなかった、感覚ながらに幼い所を受ける。
…何故だ?
初めの頃よりは大分記憶のパースも埋ってきていた。だけどやはり、『重要な破片』だけは思い出す事が少ない。この問いもその見つかっていない破片のひとつなのだろう。
本当は今からでも質問攻めにしたい気持が胸の中でうごめいていた。少年の事、この忘れた記憶の事、自分の『鍵』の事。
忘れている……何かとても重要な事。
ふと、カーシュは目をしばたかせて頭を振った。今目の前で一人の少女が泣いているというのに、自分はなんて事を考えていたのだろうか。余にも不謹慎な思考に叱咤し、彼は少女を抱く腕にそっと力を込める。
自分は『思い出す』為にこの記憶を追っていた訳じゃない、『忘れたくない』から……追っていたんだ。だから少女を追い詰める様な事だけは、しない様にしなくては。
……そんな弱い存在でも無いとは思うのだが、今の少女はとても儚く脆く感じられたのだ。