俺は……あいつに何かしてやったのだろうか。
 ほつりほつりと、思い出していく度に自分の中の糸のほつれがとれていく感覚、柄にも無く誰かに癒されているという……事実。だが自分はあの少年に何かしてやったのだろうか?今まで出て来た記憶の断片には、そんな様子等見せつけない。
 何もしてやってないのだろうか……自分は、何もしてやれなかったのだろうか。
 自分の部屋に戻り、彼は最近入った新しい長椅子に腰掛けた。腕を組み、足を組み、軽く息を吐いて考え込む様に俯く。小時間黙っていたが気付けばじわりと睡魔が現われていた。耳元で妖精に眠れと囁かれた様な、それとも只漣の音が聞こえただけなのか、其れさえも判別がつかなくなる程に意識は無の海へと潜って行く。




 底にひとつの光が見えた。
 深い深い意識の底……護られる様に光るひとつの光。
 ふ…と、彼は光に手を差し伸べて、触れた瞬間にその光が無を追い払い、空間を作り、光を満たした。
 気付けば其処は『見覚えのある』船の上だった。何処かに停留しているのか、ただ波に揺られ時を待つのみ、その廊下を目の前からあの少年が早足気味に歩いて来る。近付くにつれその少年の瞳が異様な程に濁っている事に気付き、声を掛けようとして……少年はカーシュの身体を擦り抜けた。
 ……自分の身体は無く、意識……視界だけが其処に在るような感覚。
『おい』
 自分の声が後ろから響き、仰天してカーシュは『振り返った』。声は自分にかけられたのではなく少年に向けられたものだったのだが、まさか自分の声を外側から聞く事になるとは思わなかった為に予想しない出来事に驚いてしまった。
 曲がり角の先は階段だったのだろうか、そこで待ち伏せしていた『自分』の存在を発見し、少年は元来た道を走り出そうとした所をカーシュに腕を掴まれ、その手を引き剥がそうと躍起になっていた。乱暴に抵抗を払い除け、カーシュはその少年の肩を掴み引き寄せる。
『顔を上げろ』
『嫌だ』
 少年らしくもない、はっきりとした否定。肩を掴んでいた手を離し、上を向かせようと顔に触れ…
 ぱしんっ!
 手を、思いきり叩かれた。明らかな、そして珍しい少年の『拒絶』。
『……そんなに嫌なのか?』
『……』
『そんなに怖いのか? 俺を……お前の親父さんと間違える事に』
 カーシュの手を払った手が、だらりと垂れ下がる。
『……怖いよ…すごく怖いよ…
 …ううん、違う………すごく、怖かった……』
 その言葉は、既に間違えた事があるのを肯定するもの。先程までの拒絶する勢いは消え、少年は俯いたまま全身の力が抜け切った。辛うじて立っているのがやっとという様子が伺える。
『びっくりした……顔を上げたら、朧気にしか覚えて無い筈の父さんの姿があった。
 一瞬目を反らしたら、そこに居たのはカーシュだったから……怖くなって……』
 掴んでいる腕から少年の震えが伝わってくる。声も段々とか細くなって、涙声へと移り変わっていく。その様子を『自分』は苦い面持ちで見つめている様だ。どことなく客観的に見ているが、どことなく自分の事に思えて、胸の奥がつきりと痛む。
『そうやって見間違えるって事はお前の中に親父さんが残っているからだろう?
 見間違えるなら、それで仕方ねぇんじゃねえか』
『……自分を違う人と見間違われて嬉しい!?』
 漸く顔を上げたかと思うと少年の突き刺さる様な瞳に気圧されてカーシュは口ごもった。怒気をはらんだ彼の口調は続き、益々激しくなっていく。
『カーシュはカーシュだよ!僕の父さんでもない、誰でもないカーシュだよ!
 それを違う人と思われるってどういう事だか判る?自分を否定されているんだよ?
 一度ならいいだろうけど、絶対僕はその内に貴方をカーシュだと思わなくなる。
 父さんだと思う様になる!……泣いて謝られたい?
 そのまま僕は泣きすがってしまってしまうよ? ……それで良い訳ないじゃないか。
 カーシュを殺したくない……だから嫌だって言ったんじゃないか!』
 ぱらぱらと落ちていく滴──涙を拭う事も知らず少年はカーシュを睨みつけていた。少年の言いたい事は判る……否定される事を既に身に受けた事がある為に、その辛さを味わせる事などしたくないのだろう、事は。
 暫くその視線を受けとめてから、カーシュは顔を反らしてため息をつく。視線を戻し少年を真正面から見て、彼は口を開く。
『じゃあ、黙って見過ごせと言うのか?』
『違う、そんなに近付かないで欲しい!』
『近付かないでどうしてこうやって話が出来る?』
『カーシュは構い過ぎなんだよ!』
『……構うなと?』
 首を乱暴に横に振り、自暴自棄気味に言い放つ。
『僕の事なんか……どうでもいいじゃないかっ!』
 かっと、顔中が一気に熱くなった。胸の奥から何か嫌なものが込み上げて来る…頭に血が上り抑えが利かなくなる。ぎり、と歯を食いしばってから啖呵を切る様にカーシュは声を荒げた。
…っ何も判ってねえじゃねぇか!
 周囲の空間にカーシュから発せられた怒鳴り声が響き渡る。反射的に閉じていた夏空色の眼をゆっくりと開き、少年は身体をすくませたまま顔を上げた。彼が見たものは前にも一度だけ見た事のある、本気で怒っている時の揺らめきを放った、紅の瞳。
『何で俺はお前を殴ったと思っているんだ』
『何で、って……』
『そうやって一人でなんでも抱え込もうって所が腹が立つんだよ!』
 拳が飛んで来そうな罵声に再度身体をすくませる。腕を掴む手の力が、痛みを感じる程強められている。
『何でもかんでも飲み込んですました顔で何もなかった様に愛想振り回して、
 仲間の俺達にも何にも言わねえで! 勝手にぶっ倒れて!
 お前は言う必要が無いと思うだろうが俺達はそう思ってないんだ!
 …っ…これでも俺達なりに、心配してるんだよ……
 ……なのに……お前は…………』
 言葉が紡がれていく内に気迫が薄まり、詰まったのか声が跡絶えた途端力が弱まり手首から手が離される。その変化に気付き眼を開けると、同時に少年の身体はカーシュの腕の中に居た。離れる事を許さないと言っている様に、きつく、…それでも優しく感じる包容。
『それは…お前一人だけが抱え込む事なのかよ』
 労る様な声が響く。
『俺にはそうは見えないんだよ。
 お前はまだ17だろう? 俺が17だった頃はまだやりたい放題だった』
『それは…カーシュだからで…』
『俺でもグレンでも他の奴等でも同じだよ。やりたい放題やってたさ。
 お前はお前なりの理由があるんだろうがな、…でも自分の中にそんなもん背負い込んじまったら、言い訳にもならねえよ。理由という名の逃げなんだよ。
 お前さ……あんまり言った事ねえよな? 愚痴とか、弱音とか』
 ふ、とカーシュは浅い息を吐く。
『……悪いと思うが、いろいろ聞いてんだよ、お前の事…回りにさ。
 聞いてて、とてつもなく不満を自分の中に仕舞い込む事に不安を覚えた。
 そうやって自分の中にため込むといつかその塊が一気に吐き出されるんだ。必ずな。
 その時にお前は耐えていられるのか、その時まで何もしなくていいのか、
 …そのままでいいのかって思ったんだよ』
 無茶は多かったが、精神を著しく荒している所は見せなかった無かった少年。柔軟な姿勢を保ちつつ、全てを受け入れようとする姿。記憶の中に居る少年の行動、行為、出来事…強いからだと思っていた……いや、実際強い方ではあるのだと思う。
 だけど彼は……その溜めたものの発散の仕方を『熱』でしか知らない。
『仕舞わなくちゃならない時もあるが、時には外に出してもいいんだぜ?…前にも言ったよな?
 ……今までその相手が居なかったんだろうけどな』
『………』
 ふと通路の向こうから複数の微かな声と足音が近付いてくるのに気付き、カーシュは目の前にあった部屋へと隠れた。ばたんと閉めた扉の向こうから聞き覚えのある声が耳をかすめ……小さくなっていく。その音も消えて行き再び静寂が現われるのを待ってから、彼は自分の腕の中にしまったままの少年の肩を手で覆い、身を離す。
 目が潤み、曖昧な表情を浮かべ見上げていた少年に笑いかけ、ぺしりと頬を軽く叩く。
『吐いちまえよ。この旅の中で積もり積もったお前の疑問、愚痴、何でも吐いちまえ。
 自分を否定されて亡霊と言われて終い込んだ自分の言葉吐いてしまえ。
 ……左肩に残る悔やみも吐けよ。全部受け止めてやる』
 深海色の髪をくしゃくしゃにしながら撫でる。無意識の内に少年の頬に流れた滴は……跡を残して床へと落ちていった。
『……矛盾してるよ』
『してても変な事じゃねぇさ』
『莫迦みたいだよ?』
『愚痴っつうのはそんなもんだろ』
『……子供の言う事だよ?』
 涙の跡をそっと拭い、両手で少年の頬を包む。
『ずっと子供でいられなかったんだろう?
 子供でいられる時期を失っていたんだろう?
 今ぐらい子供で、誰が怒れる?』
 …………少年の顔が沈痛の面持ちに変っていく。眼をきつく閉じるが隙間からは涙が次々と溢れ、く、と歯を食いしばり、俯きがちになり何かに耐えている様に手を握り締める。
 カーシュは静かに彼を呼んだ。…敢えて名前ではなく、自分らしく。
『小僧……俺はお前の親父さんにはなれねぇよ。
 だけどな、お前を認める事は……お前を受け入れる事は出来るんだぜ?
 お前の親父さんがお前にしてやれなかった事は出来るんだぜ?』
 お前が自分の父親を失った事、それが全てお前の所為だったとしても……俺はお前を責める理由も意味も無い。だが少しだけ悔しかった、楽天的に見えるお前が唯一深く執着する傷だったから。
 ……だから、これは俺の只のお節介なんだよ。
『…言っちまえよ、全部』
 すがりつくように、少年はカーシュに抱きついた。
 嗚咽を押し殺して顔を埋める少年に、何も言わずカーシュはきつく抱き締め返す。
『何で……僕だったんだろう……』
 抑えつける様な低い声で、とてもささやかな声で少年は『泣き』始める。
『何もかもが次々と起こって、時々頭がぐらぐらするんだ…っ
 キッドが居たときは平気だったけれど、居なくなってから……ツクヨミも居なくなってから酷くなって、真っ黒になっていく感じで……!
 傷つけたくないのに刃を向けなきゃいけなくて、人を、モンスターを殺さないといけなくて…
 判っているけど、手が赤く染まっていくのが、怖くて……っ!
 だけど何も出来なくて、流されるだけで、いろんな人を巻き込んで……父さんを巻き込んで……っ
 母さん……御免……僕が悲しませたんだ、僕が……僕が……っ
 父さん……父さん…っ ……御免なさい…──っ』
 声を上げて泣き出したその少年を、彼はずっと抱き締めていた。
 ここまで少年が激しく涙を流す事は最初で最後になる事を願って。
 ……護りたいと再度胸に誓って。



 ……そうだ。思い出せなかったのではない。「思い出しても誰にも言わぬ様に」自分が記憶を敢えて表に出さなかったのだ、…そうカーシュは気付いた。これは恐らく他の仲間にはあまり知れていない少年の姿。あまりにも彼の精神の奥に関わるもの、それを他のものに見せる事だけは避けたかった。
 …以前、彼が亜人の姿になっていた記憶を思い出した事があった。
 その頃はカーシュはまだ彼の仲間に入り立てだった頃らしく、少年の事はあまり判っていなかった。少年の肩に負った重荷……必死に背負おうとしているのを見ていて感心していた。
 しかしある些細な事件がきっかけで知った彼の傷。……身体の傷ではなく心に刻んだ傷が、それからというもの目を凝らして見るとうっすらと現われてくる様になった。戦闘中にスワローをきつく握り締める拳、人に見られない様顔を反らす仕草、眠りに就く前にする深呼吸。───全ては時々だ、だけど……その時々は一体何度起きただろうか?
 ……違う記憶。少年が眠りながら泣いていたのに驚いて起した時だった。

『どうした?小僧』
『……ごめん、辛かっただけだよ』

 夢ではなく、現実の事もまた然り。
 旅の間どれだけ痛かったのだろうか、苦しかったのだろうか、辛かったのだろうか。愚痴ひとつこぼさず必死に前を向いていた彼がぽろりと痛みをこぼして、カーシュは気付いた。
 この子もまた人の子なのだと。
 人という生き物はこんなにも考え、悩み、迷い、……傷つくものなのだと。




「カーシュ、どうした?」
 目が醒めて、目の前に安堵の笑みを浮かべたイシトを見た。前屈みになっていた身体を起し手を腰に添える、何時もの砕けた姿勢に戻った彼を見上げつつ、カーシュはぼんやりとしていた。
「何が、どうしたんだ?」
「眠っていた所を済まなかったが、泣いていたものだから」
「俺が?」
 頬を擦ると、確かに涙の跡の滴が手袋についた。じわりと手袋に染み込み、淡く波紋を残す。
 …あいつの涙を拭いてやった時もこんなだったな。
「どうしたんだ?カーシュ」
「……辛かっただけさ」
 今でもまだ残っている想いに。忘れている悔しさに。


 思い出してどうするのだ? ……自分の問いかけに。

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