「暇だ」
呆れ返ったというよりも、彼らしくてかえって安心してしまった。
壁際にぴたりとついたベッドの上、ふんぞり返る様に胡座をかく彼は憔悴しきった様子等ひとかけらも見せない。あからさまに不機嫌面を浮かべて、今にもこの部屋から飛び出しそうだ。
……私服をきっちりと着ている所を見ると、その気はあるらしいが。
全く、これが先日倒れて昏倒した青年の姿か。
其処が彼らしい所なのだと思ってしまえば、それで終わるのだが。グレンは苦笑に近い笑みをこぼした。
「何だ、カーシュ兄元気だな」
「元気も元気、腐り果てそうだ」
「なら何で倒れたりしたのよ?」
外見とは似合わぬ大人びた言葉を、グレンの隣に座っていた少女が紡ぐ。まだ十にもなっていないだろうこの少女は、アカシア竜騎士団四天王にまで登り詰めた力量を持つ。だがその身体、腕に装備した盾、胸鎧…その軽装備はたったそれだけでもあまり似つかわしくないと、カーシュは時々思う。
「あー……いや、ちょっとな」
「何よそれ。答えになってないじゃないの」
「マルチェラ……あんまり突っ込まんでくれ」
マルチェラ、と呼ばれた少女は水色のつり目を更に鋭くさせて睨み出す。その様子を見、判ったと言わんばかりに両手を軽く上げてカーシュはため息をついた。
「病人に脅しかけるなんて、なんて見舞人だ」
「さっきまで元気で腐りそうだの言ってた癖に。
私やダリオ、リデル様本当に心配してたんだからね?
イシトなんか青ざめてたんだから」
「いや……面目無い。判った、言うよ。だから睨むな」
マルチェラが怒り出すとなかなか止らないのはもう経験済な彼は、出来るだけ落ち着かせる様勤めた。本当の所まだ頭がはっきりとしていないのだが、どうやらそうも言ってられない様だ。
昨日の事だ。昨日……今日の事にすれば、一昨日となるか……カーシュが実家で倒れて一時意識不明状態に陥ったという知らせが蛇骨館に舞い込んだ。驚かない者は一人も居なかった。まさかあのカーシュが、とあちこちで話が盛り上がり、根拠の無い噂話も広がっていった。騒然も騒然、あわやパニックにも陥りそうな騒ぎが館内に沸き起こる。
一番重傷だったのは彼の親友イシトで、その情報を聞いた途端表情が固まり、真っ青になり、よろめいて壁にぶち当たるという様。原因をつくってしまったのではないか、と気に病む一方だった。
大佐やダリオの働きにより何とか騒ぎは収まったが、彼の様子を確かめないと、又はその原因を確かめない事に皆やイシトが落ち着かないだろう考えた彼等は、翌日テルミナを巡回予定のマルチェラ、そしてグレンに言伝てを頼みにという名目で見舞いに行かせたのだ。
どんな事になっているのか半分心配、半分興味で彼の家を訪れた彼等は、扉を開けた途端憮然とした表情で座り込んでいる彼を見た。
そして、冒頭に戻る。
頭をかきむしり言いにくそうにカーシュは口を開いた。
「…まぁ、その。何処から言っていいんだか判らないんだが……」
「原因を言えばいいじゃないの」
「それが判らねぇから困ってんだよ」
加えてはっきりしない頭では、どうまとめて良いものか。整理しようにも、整理した傍から見えざる何かによってぶちまけられていく一昨日の出来事。
時々つきりと頭が痛むものだから、尚更厄介だ。
「……もしかしてまた思い出した?」
グレンの言葉に、苦い面持ちで頷く。
「余計なもんまでな……。しっかし、その後がよくわかんねぇ。
…何だったんだ、一体……」
深く息を吐き、ぐしゃぐしゃに髪をかきあげる。
『やっとみつけた』
まだあの少年の声が脳裏に焼き付いている。透き通った、高いとも低いとも言え無い声がその言葉を伝えたのは、まだ忘れられない。
少年の様で、少年でないもの……あれは一体何だったのか。
考えたい所だが……考えたら考えたで頭痛が襲ってくる為に、中断せざるを得ない。この頭痛で再度倒れてしまったら、パニック所の騒ぎじゃ収まらなくなるだろう。
「ねぇ、さっきから思い出した思い出したって。
もしかしてセル兄ちゃんの事?」
二人の会話に?を飛ばしていたマルチェラが、ぽんと手を叩いて閃いたのか言った。今度は?を飛ばしたのは二人。
「セル兄ちゃん?誰の事だよ」
「二人が言ってる人の事だよ」
どうも内容が飲み込めない。ゆっくり、ゆっくりと疑問の岩を砕いて行って……
『……セル兄ちゃん!?』
同時に叫んだカーシュとグレン。目を丸くしながらマルチェラは後ろへと少々後退した。
「セル兄ちゃんって、あの小僧の事か!?」
「マルチェラ、もしかしてあいつの事……何か知ってるか!?」
詰め寄る二人に手を突き出して止れとマルチェラは指示する。
「何言ってるのよ。何か知ってるのは二人の方じゃない。
私は『名前』しか知らないの」
「……名、前?」
そう、とマルチェラは肯定する。
思い出している、と言っても殆どはカーシュとグレンのみだけだ。他は断片の言葉や映像と言った些細なものしか判っていない。カーシュの様に実態の様に現われるのは、稀であり、希有な事だった。グレンの方はというとカーシュ程とは言わないが、それでも館内の者よりは確かなものを思い出しているだけ。
何か思い出したらとにかく噂として流れる館内、マルチェラが始めの記憶以来何かを思い出したという噂は流れていなかった為に、何も見つけていないのだろうと思っていた。
案の定、最も不思議で、最も探し求めていた部分が彼女の中で見つかっていた。
…しかしその名前を耳にしてもピンと来ない。
何時もなら何かが弾けたり、頭痛が現われたりしたのだが……
「…カーシュ兄、何か来た?」
「いや、さっぱりだ。マルチェラ、それ以外は何もないのか?」
「後?……頭を撫でられる事以外、何にも」
ふぅむ。
腕を組みカーシュは壁に寄りかかった。
カーシュとグレンの記憶を併せても出て来なかったものがあった。それが少年の『名』だった、だから名が判れば、もしや全てが思い出せるのやも……と思ったのだが。
もしかしたら、言い方が違うだけでもきっかけにはならねえのか……?
消えたと思っていたはっきりとしない意識が復活してくる。少しずつ苛立ち、頭をかきむしり……
「…うがーっ!もうやめた。おい、二人どっちか付き合え」
「付き合うってカーシュ兄……何を?」
「リハビリ」
おもむろに立ち上がったカーシュはベッドを降り、壁に掛けられていた使い込んだ己の斧を持ち上げる。詰まる所、ストレス発散目的だろう。
「いいよ、私も丁度相手が欲しかった所だったんだ。
グレンに振られたばかりだし、やろう」
「振ったのか?グレン」
「四天王相手にしろって? この下っ端に」
……自覚無しめ。相当の実力を持っている癖に。
二人の思考が一致していた事は、その二人にも、思考の先の青年にも気付く事は無かった。
「しかし、拳相手は苦手だな」
グレンとダリオの旧生家前の広場、軽い準備運動をこなした後肩の凝りをほぐす様に腕を回しながらカーシュは苦笑混じりに言った。
「文句言わないでよ、私はこれが好きなの。これもあるしね」
しゅるりと鋭い音を立たせてマルチェラはグローブの中に潜ませている『糸』を取り出す。彼女の得意とする武器のひとつ、これに引っかかりでもしたら簡単に切り裂かれてしまうだろう、其れほどの威力、耐久力を持つ特殊なものだ。
「おい、それも使う気か?間違っても俺の身体の一部を切り離さないでくれよ」
「大丈夫でしょ、こんなものに引っかかるタチ?」
…………自分の能力を認められているのか、そうじゃないのか。
苦い思いをおいといて、カーシュは斧を前へ突き出した。
マルチェラはグローブの金属部分をかちりと斧の刃へとつける。
竜騎士団の中での、練習試合又は公式試合の敬礼と言うべき動作。グレンは音を立てずに家の柵近くへと後退する。この姿をしたら、無闇に動く事は二人の気を散らせてしまう事になる。
数歩下がり、右肩を少し後ろへ、左腕は盾をつけていた時の癖で身体の前へ、斧を握り締めて構える。マルチェラも同じく数歩下がり、構える。
ぴん、と張り詰めた空気が辺り一面に広がる。
流石に四天王同士……お互い負けじと睨み合いが続く。
四天王が互いに公式試合で一戦交えるのは少なく無い事だが、それでもいつも見る度にグレンは気迫の凄さに感激してしまう。睨みつけひとつだけで敵を怖じ気づけてしまいそうなカーシュと、冷笑で恐怖を味わせられるマルチェラ。例え相手が銃だとしても、互角の戦いが出来るだろう、そんな感じがした。
その場に居るだけで、一際目立つ存在。……カリスマとでも、言っても過言ではないのかもしれない。
目の前の凍結が溶ける。先に動いたのはマルチェラだった。
前屈みに走り出し、彼の懐へ潜り込むと拳を振るう。苦も無くそれをかわすカーシュに、マルチェラは次々と攻撃を加える。右足の蹴りが横腹に入り込もうと振り上げられるが、それも手で難無く防御されてしまう。すかさずカーシュは斧を薙いだ。
後ろへと素早く後退し、彼の攻撃をかわした後その場で深呼吸をひとつする。マルチェラはグリッドを立ち上げてひとつのエレメントを弾く、ぱしんと光は散って彼女の周りに青い光柱を上がらせる。
何のエレメントを発動させたんだ?
青い所から彼女の得意分野ではあるだろうが……警戒しつつ、カーシュは走り込み、前へ構えていた斧を振り払う。
と、その場に彼女の姿は無く……すぐさまカーシュは上を見上げた。
高く舞い上がった彼女の両手には、無数にも見える光輝く線があり、無意識にカーシュは防護の構えを取る。
広げた両手を、一気に振る。手に引っぱられた糸は地を裂き、土煙を出す。両方の糸の真中に居た彼はもろにその攻撃を受けた。
地を引き裂く轟音が過ぎた後の暫くの静寂。グレンは彼の状態を確かめる様に、土煙が舞う空間を凝視する。
そして土煙の中の陰が一瞬動き、
「………あーーー!!!」
顔を上げた途端のカーシュの叫び声。突然緊張感が消え去り、二人は目を丸くする。
「畜生、道理で痛みが多いなと思ったら俺何も防具装備してねぇじゃねぇか!
買ったばっかの俺の服がぼろぼろになっちまった……」
「バッカね。せめて戦闘服にでも着替えておけばよかったのに」
「でもカーシュ兄の戦闘服って、今のとあんまかわんねぇよなぁ」
けらけらと笑うグレンに後で覚えておけ、と言い残し、カーシュはマルチェラに突進し始める。軽い足取りでステップを取り、マルチェラはまだ残る土煙の中から現われるカーシュの手だしを待つ。
カーシュは視界が開けた所で武器を振り薙ぎった。ひゅ、と空を斬る音が目の前で聞こえる。手応えが無い……攻撃が空かされたのが判る。長い藤色の髪をなびかせつつ、身体を屈ませて踏み込む。斧を振り払うと重い感覚が腕に響く、同時に金属同士が重なり合う高い音も。
咄嗟に盾を構えていたマルチェラはそのまま後ろへと吹き飛ばされたが、転がった反動に立ち上がり、構える。
「危ない危ない。ひとつ間違ったら身体真っ二つだね」
「そんなヘマするお前じゃないだろう?
……ま、次はどうなるか判らんがな!」
言葉が終わらない内にグリッドを展開、彼もひとつのエレメントを弾けさせる。光が上へと上っていくと同時に彼の咆哮にも似た雄叫びが響き渡り、マルチェラは隙を突かれたか身体をすくませる。反応するのが一瞬遅れた、と思った時には既に遅く。
気付いた時には目の前に彼の姿があった。くるりと回って勢いを付けた武器を、そのままマルチェラへと振り薙ぐ。旋回する度斧の刃の光が線をつくる勢いで2度、3度と繰り返し、彼女の足元がふらついたのを見、斧を振り上げ……
がつィッ
柄の部分が地と擦れあう音が響く。彼女の首元のすぐ横を斧の取っ手が捕えていた。刃の部分が振り降ろされていたら、その首は既に胴体と引き離されていただろう。ぺたりと地面にへたり込む彼女を見、カーシュはにやりと笑った。
「おーし、まず一勝」
「……不意打ちつくなんて最低」
「んな事言ってたらまともに戦闘なんぞ出来んぞ?
特にダリオは俺の威嚇も通用しねぇからな」
マルチェラから斧を離しながら苦い笑みを浮かべる。この場所で幼い頃から共に訓練してきた親友は、こんな不意打ちも、小細工も通用しないのだが。
「ダリオなんて論外よ。まともに数時間相手してられるのカーシュだけじゃない」
服の汚れを払いつつ立ち上がり、マルチェラはぷくりと頬を膨らませる。駆け寄ってきたグレンとカーシュは、彼女の様子を見ると顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
「確かに」
「兄貴はね。弱点無さそうに見える位無敵だし」
「実際弱点なんて無いんじゃないの?」
『あるよ』
完全に唐突だった。カーシュの後ろ……グレンとマルチェラにしてみれば横……を振り向き見ると、其処にはあの少年が佇んでいる。しかし視線の先は、自分達ではない。彼の横に存在する、幼い少女に視線があった。
「…マルチェラが、二人?」
ぽつりと、グレンが呟く。その少年の隣にはすぐ傍に居る少女とうりふたつな、マルチェラの姿があった。
……いや、少年と共にいる方が、感覚的に幼い様な気も……
『嘘、ダリオに弱点なんて』
少年と共に居るマルチェラが目を丸くしつつ問いかける。それがね、と面白そうに少年が答えるのを、カーシュ達は見つめているだけ。
『一対一じゃ勿論勝ち目は無いし、こちら側が2人か3人だと何とか出来る方法なんだけどね。
あの人、エレメント攻撃をするとその属性の反対属性で能力を落とすのが癖らしくて。
合間を縫って攻撃するとこちら側に殆ど被害無く勝てちゃう、という方法。
でも……それはあの時の話だから、今は通用しないかもね』
『何だ、それじゃ使えないかぁ……
…あ……そのあの時って、この時の?』
そう言い、マルチェラは少年の武器を指した。こくりと頷いて少年は自分の武器を持ち上げる。
その武器を見て人知れず3人は感嘆のため息を漏らした。それは草色の鋭利な光を宿した、炎の様な、風の様な不思議な形をした彼の武器。美しいという単語だけでは表現出来ない程の雰囲気を醸し出す、それは武器を持つ者を虜にする魅力を持っていた。
『グランドリーム……この子達と会った時は、正直びっくりしたけどね』
困ったように言いながら、自分の武器を見る少年。ふとその瞳が曇ったのをマルチェラは見逃さなかったらしい、ぴくりと、身体を震わせて少年をじっと見やる。少年はその視線を気付かず言葉を続けていく。
『いろいろと助けて貰った……グランドリームが無かったら切り抜けられなかった場面沢山あったと思う。
……この子達が居なかったら、一生助けに行けなかったかもしれない……
僕だけだったらキッドを取り戻す事も不可能だったかもしれない。グランドリームだけじゃない、マルチェラ、カーシュ、グレン、大佐もファルガも、ドクやオルハさん……皆の支えが無かったら、僕は此処までこれなかったと思う』
『セル兄ちゃん……』
きゅ、とマルチェラは服の裾を掴む。その仕草に微笑んで少年はしゃがみ込み、マルチェラと向かい合った。そしてそっと腕を回し……抱きしめる。
『有難うマルチェラ。君にも、いろいろと迷惑かけちゃったね』
『…ううん…何も、何もしてないよ、私……
セル兄ちゃんに何もしてない……』
それは違うよ、と呟いて少年は言葉を続ける。
『君はあの時、僕を庇ってくれたじゃないか?
「僕」を好きだって、言ってくれたじゃないか?
……すごく嬉しかったんだよ、あの言葉。
僕を受け入れてくれたあの言葉は、ずっと支えになってた』
そっとマルチェラの頭を撫でる。く、と少女が自分の背に腕を回し、服をきつく握り締めていたからだ。肩を震わせて、顔を少年の胸に埋める。その少女に少年は微笑み、告げる。
『有難う……マルチェラ』
何かを、惜しむ様な光景だった。
ふわりとその二人が風に流されても、カーシュ達は暫くその場で身動きする事も無かった。
今まで見た事も無かった、他の『同じ空間』の者達との会話。その所為か幻想的な存在でしかいなかった少年は、今は隣に居たというかつての思い出として、胸に残っている。
そう…あんな風に少年と自分達は笑っていたのだ。
「セル兄ちゃん……」
頬に滴を流し、マルチェラは小さく名を呼んだ。その言葉に返事は無くただ空に溶けていくだけ……
皆と同じく呆然としていたグレンはその空間から視線を反らし、うつむいた。拳を握り締め、きつく瞳を閉じる。
……その中に、今だ夢の中に居る状態のカーシュは、ただただその風景のあとを、見つめているしかなかった。……もしかしたら何も見ていなかったのかもしれない。
翌日カーシュは館へと戻った。皆が彼の完治に喜び、蛇骨館内は明るい雰囲気に包まれる。その中で一人カーシュは重い気持を抱えて靴音が高々に響く廊下を歩いていた。
「……不機嫌だね」
もうひとつの靴音が響いたかと思うと、隣から声が聞こえてくる。
「お前もな」
「…まあね」
緑灰色の髪をくしゃくしゃにかき回して、グレンは苦い笑みを浮かべる。
「羨ましいよ、マルチェラが」
何がそうなのかは明確に伝える事は無かったが。カーシュには十分伝わった、似たもの同士……あの場面を見て思う事は一緒だった様だ。
「……そうだな」
風景を見る度、その姿を見る度に思う。
大切だと、大事だと思う、思わせるその存在。
だからこそ思い出したいと思っていた。忘れたくないと、思い出の片隅に閉まっておきたくないと、必死に破片をかき集めていた。
かき集めていたら、ふと感じてしまった。
…自分は───
『グレン!』
『…あれ?どうした』
少年の『声』が響く。そしてその次には聞き慣れた声が伝わり、隣に居た青年が唸り声を上げて立ち止まった。
「…げ…っ」
くるりと振り向いたその先には、先日見た状況と同じ……『少年』と『もう一人』が存在していた。少年の方は走ってきたのか息を切らせてもう一人のグレンの所で立ち止まっていた。深呼吸を繰り返し、顔を上げる。勢い良く上げたはいいものの、いざ言うとなると決心が鈍ったのか声がうまく出て来ない様だ。しどろもどろに少年は話始める。
『……あ……その、あの……
………昨日は有難う。ごめん、寝不足にはなってない?』
『別に平気だよ。それこそお前の方は大丈夫なのか?
ちゃんとカーシュ兄とは仲直りしたか?』
『……うん。ちょっと事故って心配かけちゃったけど、大丈夫』
息をつき、グレンはこつりと少年を額を拳で小突いた。
『ちゃんと自分の身体大切にしろよ。じゃないとまたあのカーシュ兄の拳が炸裂するぞ?』
『頬が腫れるだけじゃ治まらないだろうね。歯折れるかも…。
もう御免被りたいから……気を付けてはみるよ』
まだ腫れた痕がほんのりと残って居る頬を手で覆って少年が困った様に笑う。
……俺が殴ったのか?
その部分は自分はまだ思い出してはいない。恐らくこれは『グレン』の記憶、だからどういう経緯で自分があの少年を殴ったのかは、判らない。
「……ここで俺、絶対無理だと思った……」
二人の会話の中、『グレン』がカーシュに言う迄も無く呟く。
「こいつの事だからまたきっと同じこと繰り返す。
だから……だから俺が見てないとって思ったんだ。
カーシュ兄や他の皆が見てない間は、俺が見てないとって」
「…」
『……今日は休めって言われたから、僕部屋に戻るよ。
有難う……また明日から、宜しく』
そう告げ、振り返りその場を去ろうとした少年の背にグレンは叫んだ。
『いつでも来いよ!』
少年が上半身だけ振り返る。グレンが親指を自分に向けて、強気な口調で言い放つ。
『お前は一人じゃないんだからな。……カーシュ兄の所行けなかったら俺ん所来いよ。
可愛い弟護る位、俺にだって出来るんだからな』
『…うん。有難う、グレン』
にこりと微笑んだ後、少年は前を向いて駆け足で廊下の奥へ消えて行った。その姿が見えなくなるまで見送り、姿が無くなった後でぽつり、と一言。
『……護ってやんなきゃな』
煙が風に流される様に、空気へと変換されるようにグレンの姿は消えて行った。後にまたもや残された二人……その片方、グレンがこりこりと頬を掻きつつ、明後日の方向をみつつ。
「御免カーシュ兄」
「何でお前が謝るんだよ」
「だって、また俺が先に見つけてしまったから」
カーシュは肩をすくめて、さも何でもないように返す。
「俺が何もして無いだけなんだろ。
お前やマルチェラが何かしてやれてな」
「また、そういう事言う……」
うんざりとした表情でグレンが呻いた。そうとしか言い様が無いだろう?とさらりと答える藤色の長髪の青年は、腕を組んで佇んだ。目を伏せて、密かに毒づきながら。
へりくだった言い方しか出来ないもんだな、自分も。
……違うだろう?俺が思っているのは……
マルチェラの破片を見てからずっと思っていた。自分はこれまで随分と少年と話していく内に、会っていく内に何かが変って行った。……解き放たれて行った。自分の負い目となっていた重くきつく身体に巻き付く鎖を、その少年が壊していった。……癒されていた。
そこで疑問が浮かんだ。
『…………自分はあの少年に何かしてやれたのだろうか?』