ぼやけた意識が微かながらに香る潮の匂いに気付いていた。いつも感じていた匂いが少しだけなのは、この部屋に香が炊かれていたからだ。少年時代、リデルが彼の母親に世話になっているからと言って贈った、疲れをとる効果があると言っていた香の匂い。それが本当かどうかは知らないが、母親はいたく気に入っていた様で、使い切った後も自分で補充していたのを思い出す。
「……?」
 その匂いがあるということは……カーシュは重く鈍い身体を起こし、辺りを見た。
 見覚えのある部屋、…自分の部屋だった。
 深呼吸をひとつ、カーシュは自分が目眩の様なものを覚えて倒れた事を思い出す。あの時の衝撃は何故起こったか、そう考えた途端に激しい痛みが彼の頭……というよりも脳に近い所……に走った。
 前兆なのだろうか?頭痛が起こる頭でそんな事を思った。何かこの事に関する、とても重要な所に自分は手を出し掛けているのかもしれない。

 『HOME』

 暗号なのだろうか、それともただの言葉なのだろうか、合図なのだろうか。こればかりは、いくら疑問に感じても何も思い出す事は出来ない。
 それに疑問なんてものは前に何度もした、しかし何の反応もなかったのは、それは重要な所に触れていなかったからなのだろうか?
 …疑問といえば、前に…赤いイメージを疑問に思っていたな。
 少年の姿を、笑顔を思い出した時に一緒に浮かび上がった色のイメージ。それは今もその少年と結び付く所が無い。その少年から、その色と重なり合うものがないのだ。
 重なると言えば、そう、この夕焼けの様な色─────
 ……今は、昼をとうに通り越して、夕方と相成っていた様だ……
 先程の痛みとは別物の、言い表せない程の激痛が頭と言わず身体中にどくりと音を立てる様に響いた。頭を抱えてうずくまるも、悲鳴も出せない程の苦痛が彼を襲い、声も無く苦しむ。
 吐き気を催す目眩も始まり、爆発に巻き込まれて飛び散ってしまうかの様な頭痛も酷くなる一方。その中に何か…ひとつのものが酷く突き刺さる。石に剣を突き刺し、割れず手に痺れが来る様な、とても固いものを崩してしまおうという自分の中の痛み。
 だがそれはカーシュに大きな負担を背負わせる。痛みも次第に麻痺し……意識を再び手放し掛けたその時。

『カーシュ! 何やってるんだよっ!』

 ばちん、と、その痛みから解放されて意識が惚けた。今の今まで死ぬ思いで耐えていた痛みが一瞬にして消え去っている。
 顔を上げれば、眉を潜めて珍しく憤った表情の少年が、立ち尽くしていた。
 少年はわざと重い足取りで近付くと、不意に伸ばした両手でカーシュの肩を押してベッドに倒す。
『寝てないと駄目じゃないか。
 自分の身体に負担があった時は文句言わず眠ってろって言ったの、カーシュだろう!
 自分だけは例外なんて言わせないからなっ』
 ………相当怒りが募っているのか、口が止らない様だ。必死に心を落ち着かせようと拳を握り締め、そっぽを向く。
「…"やっぱり、驚いたか?"」
『当り前だろ? 目の前で……あんな……』
 その言葉を全て言い終える前に、少年はさっきとは変って落ち込む様に肩を落とした。
『…………ごめん。
 本当は僕が言える事じゃないよね。
 こうやって……皆に何時も心配かけてるんだ、ってやっと判った』
 肩を落としたまま椅子にすとりと座り込む。顔を俯かせたままの少年を見……この情景は、前に何処かで見たことがあると、現われた記憶を辿った。
 …そうだ。一度だけ、自分は倒れた事があったのだ。
 何の事は無い。その頃は皆が皆忙しく島中を駆けずり回っていた時だ。疲労が溜まって本当の所限界が近付いていたのだが、そうも言ってられなかった状況だったので無理を承知で走り回っていたら……案の定、自分がはじめに倒れてしまった。
 後日談に彼が倒れたのをきっかけに皆休日を取ったのだとか。『彼が倒れたのなら、他の皆も倒れてしまうだろう』と、言い切ってしまったらしい、誰かが。
 ……俺は実験材料か?
 そううんざりしたのを覚えている。
『……気付けなかったのって、悔しい』
 ぽつりと呟かれた言葉に彼は視線を向けた。
『目の前に居たのに、カーシュの事全然気付けなかった』
「……"お前も、無理してるからだろう"」
『してないよ、全然。カーシュみたいに無理なんか……』
「"わかんねぇだけだってんだろ?"」
 腕を伸ばし、少年の額をこつんと叩いた。暗い表情の少年に苦い笑いを浮かべてしまう。
「"無理してる癖によ。 ……会いに行きたいのを我慢してる癖によ"」
 瞬時に少年の頬が赤くなり、次に表情が崩れ、口を閉ざした。
 ずっと、ずっと心配で仕方無かっただろう、それを隠して自分達にあわせて走ってきていた。自分にだけはぽろり、ぽろりと、時には無意識に呟かれていた、少年の『愛しい』者の事。
「"ラディウスの所に置いてから、数回しか会ってないだろう。
 毎日心配で様子見に行きたい癖に、押し殺しやがって。
 そろそろ一休み置くべきだって話してたから、そん時に連れて行こうと思ってたんだが。
 …明日にでも行こう。あの小娘の所に。
 会いたいのだろう?あいつに"」
 沈黙のまま、恐らく感情を抑えていた所為なのだろうが、カーシュの言葉を聞いていた。ほんの数秒の間を置き、少年はこくり、と正直に頷く。

『………会いたい……すごく、会いたい。
 ……キッドに……………』







 ばきん…っ

 今までの硝子を割った様な音ではなく、もっと固いものを割った音が頭の中に響く。
 そして記憶が蘇って来たもの、それは今までの少年ではなく……真っ赤な印象が強い少女の事。
 少年の想い人であり、『何か』の中心人物。
 大陸でラジカルドリーマーズと名乗る盗賊。
 全ての元凶、全てのきっかけ。
 ………自分達の記憶を封印した張本人。
 名を、キッドと言った。




「……あンの小娘……っ」
 思い出した。少女の事に関する記憶……所々、まだ少年にかかわってしまう部分等は、思い出して居ない様だが、その少女の事だけは完全に思い出した。
 最初から最後まで自分達を引っ掻き回して最後に全てを消してさよならしたとしかカーシュには思えなかった。彼女がどう考えて自分達にこんな事をしたのかなんて皆目検討も付かないが、引っ張り舞わされた挙げ句こんな結末になるだろうと滓にも思わなかっただろう少年の事を思うと、腹立たしくなってくる。
 この島に来る様だったら、一発でもブン殴って怒鳴り散らして……

「カーシュ」

 少年の声が、『音』として伝わってきた事に、はじめの一瞬は気付かなかった。
 思い耽っていた意識を目の前に向けて少年を見る。
 静かに笑った少年が、となりに居る。

「やっと見つけた」
「何をだ……?」

 自分の口から紡がれたものは、『今』の自分のもの。

「貴方を。そして……やっと思い出させられた、鍵の在りかを」
「鍵の…在りか?」

 微笑みを賛えた姿のまま、風に流れて少年は消えて行った。



 後には訳も判らず沈黙するしかない、青年だけが香の匂いを感じていた。

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