「……本当になんだな」
無意識につぶやかれた言葉に、カーシュは苦い表情をこぼした。隣で目を丸くしているのはイシト、何故にそんな顔をしているのかというと……
目の前で、深海色の髪をした少年を見たからだ。今は既に風に溶けてしまい姿は無かった。
「おら、どうだ。これでお前も声だけじゃなくなったろう」
半ばやけになりつつカーシュは歩き始めた。
あの日以来──『幻』を見て以来、カーシュの周囲に時々少年が現われる様になった。時に一人空を見つめる様な姿で、時に…誰かと歩いている様な場面で、笑ったり、泣いたり、哀しそうだったり、嬉しそうだったり。少年の表情や行動はころころと変った。
…時々とは言っても、彼にとっては一日に一度は必ず現われ、見つけてしまう。半ば彼の出現に慣れてしまっているのでもう其程驚く事も無かったのだが……何処からかその話が漏れたらしい。さほど時を待たず、それは忽ち蛇骨館中に知れ渡っていた。
「いい経験をくれた。感謝するよ」
「感謝するなら回りの視線をどうにかしてくれ」
ぐるりと一周するだけで、必ず1人は誰かと目があってしまう。それどころか顔を伏せていても判ってしまう程、自分に視線が集まっていた。今はそれがかなりのストレスと化している。苛立ちの様な、困った様な口調にイシトは微笑い、ぽん、とカーシュの肩を叩く。
「?」
眉に皺を寄せ、カーシュは訝しげに彼を見る。イシトはにっこりとしたまま彼の手にひとつの紙切れを手渡し……
「御使いを頼む」
「……はぁ!?」
「テルミナの君の家にね。私の携帯用の武器等の補強に持って行って欲しいんだ」
他にもある、と言いながら今まで何処に持っていたのか大袋を後ろから出してどさりと彼に渡す。
「ちょっと待て、俺はここで……」
「大佐に承諾は貰っている。
……少しは休んでおいた方が良い。
式前日にでも君が倒れたら、それどころでは無くなるだろう?」
「遠出をするのが休む事なのか?」
「最近遠出していない君の運動不足解消に」
「なんだ、そりゃ……」
頭痛のする様な頭を抱えてカーシュは呟く。もしかしたら本当に頭痛がしているのかもしれない……最近の慌ただしさやら何やらで、そんな事にも気付かずに、気付けずに館内を歩き回っていたのかもしれない。
「多少の気分転換にはなるだろう?
半日足らずの感傷旅行とでも言ってもいいかもしれないが」
「……は……?
お、おいイシト、御前何処で聞いた!?」
『感傷旅行』という言葉にびくりと反応し、詰め寄るカーシュに気付いて無かったのかとイシトは少々後退った。
「幻の方も大きかったが、それと同時に君とリデルさんの様子が変ったって噂があったんだ。
はっきりした事では無かったが……大体は皆気付いている。
気付いていないのは、リデルさんの婚約者位ではないだろうか」
…はー……
重いため息を吐いて、カーシュはうつむいた。
自分でも思ってみれば前よりもリデルと話をするのに苦労や緊張は無くなった。昔の様に些細な事も話せる様になって……それが周りから変に見えるなんて、気付く筈もない。
取り合えず今の所は……あの鈍感男がこの噂を耳に入れて無い事だけが、唯一の救いか。今詰め寄られたとしても、この気分じゃどう答えていいか判らない。
そういえばと、カーシュは何気無く思う。
最近、ため息をつく回数が少なくなった。
……少なくなった? 自分は一体何時、数える程ため息をついていたんだろうか?
何だろう……靄が胸に生まれる。自分の知らない記憶、自分の知らない自分、自分の知らない癖、「知らない」という何がどろどろに溶けた沼から這い上がろうとして、足場が無くぬぶぬぶと音を立てて沈んでいく様で。拒否したくなる様な、でも否定してはいけないと判っていて、その反発心が一気に弾けそうだ。
何だろう。
あの少年以外にも、自分が忘れている事が…ある?
「カーシュ!」
顔を上げると、切羽詰まった面持ちのイシトが目の前に居た。…気付けば彼に両肩をしっかりと掴まれている。
「イシト……?」
くらくらと目眩を起こす頭を振って、目を凝らして親友を見る。
「大丈夫か?突然、ふらふらするものだから驚いたよ」
「ちょっと、な……」
深呼吸して彼は自分の身体を支えていてくれた手から離れる。しっかりと自分の足で立てると確認すると、カーシュは自分の手の中に持っている荷物を思い出し苦笑した。
「んじゃ、倒れる前に荷物だけでも置きに行くか」
「…平気なのか?」
「このカーシュ様を誰だと思ってるんだ?」
にやりと笑い、荷物を背負って彼は歩き出した。気を付けてという後ろからの声に振り向かないまま手を振り、蛇骨館を出て行く。
遠出といっても半日と掛からない道のりだった。以前はモンスターが暴れて出て来る事がしばしばあったが、最近となっては大人しく道を行くのを見掛けるだけで、襲ってくる気配は一切見せない。そんなモンスターにけしかけても労力の無駄だと思っている彼は、そのまま素通りする事にしている。前々から相手にするのが面倒だった事もあったのでするすると道を通り抜けられるのは気持的に爽快なものだった。
[…本当に外出てなかったもんだからな]
変な理由で自分の家へと赴くのは多少の行きづらさを感じたが、ほんの少しでも一息つけられるのは、正直な所、有難いのかもしれない。
蛇骨祭が終ったばかりのテルミナは少々慌ただしかった。この島を統治する大佐の娘、リデルの結婚式がこの町で行われるものだから、騒がしくならない筈も無い。
[ひっそりとやりたいっつーダリオの願いも叶わんな、これは]
苦笑する大佐と親友、そして嬉しそうに微笑み眺める愛しい人の表情が思いつく。ダリオもずっとこの町で暮らして来たし、町の人々に助けられたこともあったから知り合いも多い。悪い気はしないだろう思い、カーシュはイシトに渡された袋を背負い直し、懐かしの我が家への道を歩く。
……柔らかな光に君は包まれ……
後ろから『歌』が聞こえてくるのにカーシュは歩みを止めて振り返った。
何時の間に居たのやら深海色の髪の少年が自分の後をついてきていたらしい、歌を中断し、顔をあげてにこりと微笑む。いつもの少年に肩をすくませるだけで、カーシュは再度歩き始めた。少年もその後をついてきている様だ。
……暖かい眠りに幸あれと祈り……
続けられる『歌』。何と無くそれは音となっている様で、空に響いている気配がする。
……抱き締めて歌う……
「……"縁起でもねぇ歌を歌ってるな"」
『あれ、判った?』
悪戯な笑い声がカーシュの意識に伝わってくる。自然と出て来ていた自分の言葉にその歌らしきものは鎮魂歌に似ているなと気付いた。歩調を変えて少年が隣へと並ぶ。
『何処からか僕の村に伝わってきた鎮魂歌のひとつ。僕が一番好きな歌』
「"鎮魂歌に好きも嫌いもあるのか?"」
さあ?首を傾げて少年は不思議そうに呟く。
『判らないし理由も無い。けど何となく心に響くんだ……
海の底に漂って、ゆらゆらときらめく太陽のあとを見ている気分。
または真っ青な空に浮かぶ雲の様な、そこに吹く柔らかな風の中に包まれている気分』
まるで……と言いかけて、少年は其処で口を閉ざしてしまった。少しだけ考え込んでから首をふるふると振り、何でもないと微笑む。
「"…自己完結するなよ"」
しょうもないと苦笑してからカーシュは目の前の扉を開けた。この常夏の島よりも熱い空気が流れてきて、いつも通りだなとカーシュは何と無く安堵の息をつく。
「ようおふくろ。久し振り」
「おや、カーシュじゃないかい。
大佐のお怒りでもくらって自宅謹慎かい?」
「残念、我が親友の頼まれモノ」
「…カーシュ」
軽く会話を交し荷物をどさりとカウンターの上に乗せたと同時に、聞き慣れた名が聞き慣れない声で呼ばれた。
名を呼ばれた事に、声を聞いた事に、自分を呼んだ事に驚きを隠せず、虚を突かれた様な面持ちのままカーシュは顔を上げた。傷で片目が開く事の無くなった、自分の父親ザッパ。彼とはここ最近まともに話をした記憶が全く無い。彼がこの家に帰る時父親は仕事の真っ最中だという事もあるが……それでなくとも、幼い頃等は専ら隣のダリオ達と駆け回っていたが為に父親となにかをした、という思い出は本当に少なかったのだ。
……自分の父親だという事は、尊敬は一度も忘れたことは無いのだけれども。
ただ話す事も無く父親はこんな性格だと判りきっていたので、特に何も言わなかったが……自分が父親に対して良い息子ではないだろう、事は思っていた。
そんな自分に構いたくないのだろうか、とさえも考えていたが、きりが無いので仕方無いと諦めていた矢先だ。
「ちょっと来い」
そして再度の驚愕。…向こうから話しを振って来たのは、一体何年振りだろう?
ぎこちなく歩み寄り、何だよとカーシュは父親に尋ねた。すっと自分の後ろを指して、仕事中は無口気味の父親が言った、その言葉。
「……その少年はどうしたんだ」
「は……?」
くるりと後ろを振り向いてみると、少し離れた……丁度仕事場とカウンターの境目の所に少年がたたずんでいた。
「あいつ……まだ居たのか……」
「お前の所では頻繁に出て来るのか」
「じゃあ、親父の所にも?」
「ああ、仕事の邪魔はしないが、気付けば其処に居る。
今回はお前と一緒に入ってきたのでな」
タイミング良く、会話が切れたと同時に少年がにこりと元気の良い微笑みを浮かべた。突っ立つ姿勢を元に戻して近寄って来る。
『御免、ザッパ。ちょっと聞きたい事があって』
「"聞きたい事……?"」
『うん、カーシュの事』
ぎょ、とその場に居る全員が少年の言葉に動きを止めた。
『どう思ってる?』
またこの少年のお節介が始まった、カーシュはそう思った。……やはりこの記憶も、何処かに隠れていた自分の出来事の様だ。
…しかし、本人を目の前にしてこんな会話をする様な人物なのだろうか?
「"……私の息子だ"」
その言葉をきっかけにという事でもないが、最近多い思考の停止がカーシュを襲った。
もしかしたら耳を疑っているのかもしれない。自分の耳を、父親の言葉を。
「"強制をしたつもりは無いが、私と同じ道を歩み四天王まで登り詰めた。
ダリオ君程にはいかないが、それでも竜騎士団内の噂はいいと評判だ。
無事に育ってくれた、私達の大事な息子だ。
……誇りに思うよ……"」
その『言葉』を紡ぐ父親の表情が和らいだのに気付いてしまった。
停止していた思考が、次第に動きはじめ……最後にはカーシュの顔は真っ赤に染まった。いくら何でも……それは褒めすぎだろう、ぽつりと誰にも聞かれぬ様呟き、顔を手で隠した。
『…良かった。カーシュとザッパが話している所、HOMEとのザッパでしか見た事なかったから、ちょっと心配になっただけなんだ。ごめんね、有難うザッパ』
くるりとUターンして軽い足取りで少年はその家を去っていく。軽く挨拶を置いて扉がばたりと閉まった後、残るのは一家、とザッパの弟子1人だけ。がしがしと頭をかきむしってカーシュは必死に冷静を保とうとしている。
「……一応言っておくが、嘘ではないからな」
「やめてくれ……恥ずかしくて俺がくたばっちまう」
今にも頭が噴火してしまいそうだ……耐えられず目元を覆って顔を背ける。
嬉しくて仕方ない……自分の気持、それが自分の中で暴れているのが判る。擦れ違っていた気持が今少年を通して重なる事が出来た。思いを知る事が出来た。……それは、カーシュの心の中にあったもうひとつの鎖が壊れる事を意味した。
彼が現われる度に、自分は心が軽くなっていく、少しずつ…自由になっていく。
「……俺、外で聞いていたんだ」
思い出す記憶の断片。
「前夜に愚痴っちまったんだ……親父の事。
そうしたら次の日あいつに呼ばれて外で待って居たらこの会話を聞いた。
『良かったね』って笑顔で言いやがった。最後にごめんねって謝ったが。
……正直、嬉しかったのは否まねぇよ」
「私の言葉がどうやら、少なかった様だな」
よしてくれ、とカーシュは首を振る。
「いぃんだよ、親父はそうだから親父なんだ。
んな事判ってんだから態度変えなくったって良いんだよ。
おふくろも居るんだ、頼むからそのままで居てくれ……」
たった一言、その一言だけ聞けたのだから。
はぁ、とため息をついてカーシュは話題をすり替えた。
「にしても、俺の回りだけじゃなかったんだな。あいつが出て来るの」
「お前の?」
「ああ、姿はな。
軽く思い出す事は皆ある、大佐もお嬢様もグレンもダリオも。
でも……あんな風に現われるのは俺の回りだけだ。
なんだ、親父ん所も出るんじゃねぇか」
本当の所、少しだけ落胆してしまった。やはり心の何処かで、自分だけという優越感を悦と感じていた様だ。
「姿だけだがな」
その言葉に、カーシュは視線を向けた。
「ただじっとみているだけだった。
他は何もせず、動く事もせず静かにその場に居るだけだ。
話している所を見たのは今回が初めてだ」
……ほっと息をついてしまった自分、心の中で叱咤して、それでも沸き起こる『自分だけ』という優越感を、疑問に替えようと頭をかきむしる。……が、やはり最後に行き着くのはこれだけ。
「…俺、だけなんだな。
こうやってあの小僧が笑ったり、話しかけたり……」
「お前は鍵かもしれんな」
鍵?と彼はザッパに問い返した。
「私達が忘れている何かを……もしかしたら、大きなものを思い出す鍵になるかもしれん」
「んな……大袈裟な」
「しかしだ、カーシュよ。
お前は気にならなかったのか?」
何に気になったのか判らず、カーシュは首を振ってザッパの言葉を待った。
「……『HOME』と、少年は言ったな」
がつんっ。
父親の声を認識した途端に、頭を棍棒で殴られた様な衝撃を受けた。思わずふらついて重くなった頭を抱えつつカーシュは眉を潜めた。
「カーシュ?」
「いや、なんでもねぇ……」
だけど頭は殴った音を反響させている。鳴りやまない鐘の音に苛立ちを感じて、カーシュは頭を振った。それが逆の結果を招いてしまった。
振った時の小さな衝撃で、カーシュは目の前が真っ黒になっていた。