ぱたん…
扉を閉めるとカーシュは音も無く敬礼する。声が部屋に通ると姿勢を正し、口を開く。
「お呼びで、お嬢様」
「ええ……先日は何も言わず帰してしまい、すいませんでした」
軽く否定の言葉を答えてからその女性を見た。桔梗色の長く整った髪を持ち、蛇の飾りをつけた女性は、カーシュと同じ、しかし淡い赤い瞳を細ませて緩やかに微笑む。
今だにその微笑みは彼にとって、最上のもの……上付く心を抑え付ける様にカーシュは外からは判らぬ様密かに歯を食いしばった。
「カーシュ……貴男と初めて出会ったのは、何時の頃だったでしょうか?」
机に向かいペンを走らせていたらしい、持っていた筆をことりと机に降ろし、女性は彼に向かい言った。
「…リデルお嬢様と、ですか?
……幼い頃の話なので、よくは覚えては……」
「やっぱりね。カーシュはあまり過去を振り返らないから」
「………」
突然の口調の変化にどきりとする。目の前の女性…リデルとは本当に幼い頃からの知り合い同士だが、蛇骨館内ではお互い敬語で話し合うのが癖になっていた。グレンも、ダリオも例外ではなく……それが通常ともなっていたのに、今になってカーシュは気付く。
「私はよく振り返るの、いろんな事を……さっきも少しだけ物思いに耽って。
グレンと川に落ちてしまった事、ダリオと小さな擦れ違いで喧嘩した事、
カーシュに祭で買って貰った小さな髪飾り……まだあれ持っているのよ」
「あ、あれは……」
隠せず顔を赤くする彼にリデルは口元を押さえて小さく笑う。
「昔はよく笑っていたわ……今となっては出来ない事を沢山して、いろんな事を経験して、不思議だらけの毎日だった……そう、思い耽ってしまうの」
かたん、と椅子を押してリデルは立ち上がる。後ろを向いてしまった彼女の心情を、カーシュは掴む事が出来なかった。ここで思い出話をする為だけに呼んだとは、彼女の雰囲気からして到底思えない。もっと深い、慎重に為らざるを得ない様な事を、言うか言わぬかを悩んでいる様にも見える。
「……式が近いからですよ。
きっとダリオも同じく昔を思い耽っているんじゃないでしょうか」
「そうね……そうかもしれないわね。
でも、理由はもうひとつあるの……」
肩を狭めてしまった彼女に向けた紅玉の瞳が、わずかに細められる。
「お嬢様……?」
「…………」
その沈黙は何を意味するのか、まだカーシュには判らない。こちらを振り向かない為にリデルがどんな面持ちでいるのかも。
……何を告白しようとしているのかも。
「……あの人の妻となる前に。
まだ『私』でいられる間に。
言おうと決心しておりました。
カーシュ、私、ずっと貴男を欺いておりました……」
突然に告げられた言葉は、直にはカーシュの理解へとは進まなかった。それを承知しているのかも知らず彼女の言葉は続けられる。
「こればかりは私もいつからかは覚えておりません。
しかし鈍感では無かった様です。少しずつ、気付いてました……
でも……その頃には、既にダリオへの想いが募り始めていたのです」
そこまできて漸く、カーシュは告げられている言葉の意味に気付き始める。同時に心の中が真っ白になり……意識が遠くなっていくのを感じた。揺れそうな身体を、必死に立たせている。
「…気付いていたの、ずっと。貴男の想いに」
──────────雷の直撃を受けた気分だ、何もかもが弾けた様な、身体中の神経が途切れた様な、言い表せぬ感覚。緊張で留まらせていた身体が、扉にぶつかりぎしりと戸の軋む音を響かせる。
彼女の視線は常に親友へと向けられていた、だから…自分の心等気付かれていないのだろうと、ずっと思っていた。だからこそ出来た事もあった、『任務』という仮の名目で傍に居た事も助けに行った事もあった。
……まさか、知られていたとは。
声も出ない腕も動かせない、表情等真っ青になっているだろうことは理解してても、リデルがうっすらとこちらに振り向いているのを判っていてても動く事が出来なかった。
「御免なさい…ずっと自分の事ばかりで、貴男の事など考えなかった。
本当はダリオと二人で婚約を告げた時に振ったつもりでいたの。
でも……貴男は変らなかった……
何時までも私の傍に居てくれた、護ってくれた……」
がくり、と膝を曲げてリデルはその場にくずおれてしまう、その場面を見てカーシュは正気に戻り、慌てて傍に駆け寄った。
ぱたぱたと床に落ちる滴を苦い思いで見つめつつ、カーシュはリデルの目の前に膝を折る。
刹那、理解出来たのは竜胆の淡い匂いだけ。
それはいつも、リデルがつけている香水の匂いの筈だ、擦れ違い様に良く香る……
その匂いはとても強く、たおやかに感じられた。首元につけているのかと、ふと思い…自分は彼女にしがみつかれているのに気付く。
「でもそれじゃ駄目よ、それは貴男の為にはならないの。
私は貴男の想いに答えられないのよ、答える事が出来ないのよ。
自分で自分を縛らないで、心を傷つけたままにしないで。
…傷つけてしまったのは私だけど…自由になって……
御免なさい……カーシュ……」
泣き崩れてしまった彼女を、カーシュは抱く事も出来ず……そのまま黙っていた。声も無く息を吐くと目を閉じ、リデルの気が済むまで、と心の中で呟きその場にその姿勢で留まった。
背に回された腕が果てしなく愛おしかったが、次第に強く抱きしめられていくのを感じて、其処までは想われなくとも……只大切な者として思われているのだと、そう気付いてしまった為に、
…かしゃんと、金剛石の様で大理石の様でもある鎖がひび割れ、砕け散って落ちて行った。
「おー、い……何やってるの?カーシュ兄」
始めに声をかけた時に振り向いた彼の表情に驚き、いくらか声を詰まらせてしまった。声を掛けた本人、グレンはまずったなと思いつつも静かに横につく。
屋上のテラスで一人黄昏ている雰囲気だったので、からかい半分で声をかけた所だったのだが。
本当に、黄昏てしまっていた時の反応等、考えていなかった。
「…ね、まさか…」
「ああ、振られた。思いっきし真正面で」
「……真面目?」
「真面目だ」
あちゃぁ、と顔を手で覆ってグレンは天を仰いだ。此処まで彼が腑抜けた様子で居る原因等ひとつしか無いのは判っていたが、少々、そうじゃない事を願っていたのかもしれない。
「……これで、良かったのかもしれないな」
「…へ?」
「お前には腑抜けた様にしか見えないだろうが、俺としては……かなりすっきりしてる。
なんかこう、掴どころが無くてただ浮いてる感じではっきりしないんだが……」
髪をぐしゃぐしゃにかき回し、カーシュは一言ずつ話した。纏まってはいないようで、実は自分の中ではひとつになっている気がする。
「……カーシュ兄のふっきれるきっかけって、案外些細なところにあるんだなぁ……」
「あ?」
「いや、気にしないで。
……でもお嬢様、今頃になってどうしてカーシュ兄振ったんだろうか?」
苦しい言い逃れにも感じたが、突っ込む所でもないだろう思い……それ以前にグレンの言葉に別の事が思い浮かんだ為に……カーシュは夕陽で朱色に染まった海を眺めながら口を開く。
「言葉を思い出したらしい」
「言葉?」
「俺達の思い出せない"小僧"の言葉だ」
「…! お嬢様も、思い出したんだ」
『答えてあげて欲しい、カーシュの想いに。
それが、彼にとって辛い答えでも、答えてあげて欲しいんだ。
貴女は恐れてる、今の関係を壊すことに、……昔からの友人を無くしてしまう事に。
でもね…カーシュはそんなに弱くないと僕は思っている。
ふっきれる強さ、持っていると思う。
振って貴女の目の前から消える事なんて無いと思うよ。
ぎぐしゃぐした関係にもならないと思うよ。
……そんなやわだったら、カーシュは此処に居ない。貴女の傍にいれない。
だけどね、今のままだと…自由になれないんだ。自分ではしがらみから逃れる事が出来ない。
貴女にとっても辛い事だと思うけど、答えて、あげて欲しいんだ……』
彼女の口から現われた言葉は、イシトから聞いた時と同様、不思議な思いが込み上げてくる。
『恐らくこのままだと私がぎこちなくなっていくのを察してくれたのだと思ってます。
貴男の事も思ってね……だから、この言葉に従ってみたのです。
決心を、したのです』
あの後で落ち着いた彼女は微笑みながら言った。その言葉自体は些細なものでも、その少年が言った言葉だと思うと、不思議と勇気が生まれた、と。
不思議と心に染み込まれる、『彼』の言葉。どうしてそこまで揺れ動く事が出来るのだろうか。この不思議な思いは、何故なのだろうか。
とん、と背に何かがぶつかる気配がする。
「?」
隣を見ると、其処にグレンは居たので彼ではない。ならば後ろに居るのは誰だ?マルチェラだろうか?しかしマルチェラならば自分の背に届く身長ではない為、その可能性も薄い。
訝しげに見ようとし、グレンが目を丸くしながら自分を見ていたのに気付く。
「…グレン?」
『ごめん、カーシュ』
その言葉に、身体が硬直した。耳から聞こえてくるものではない…音としてではなく頭に響く、『言葉』が聞こえてくるのだ。
『余計な事した……でも、何時までも叶うことの無いしがらみに取りついているのは……見てるのは辛いから……』
何処かで聞いたことのある言葉だった、懐かしい様で、まだ遠い先の言葉……自分はこの言葉を聞いて、何か答えた気がする。
「"……何を言ったかは知らないが"」
自然と、口からこぼれる言葉。
「"気にするな、お前が俺の為にやってくれた事なんだろう?
…いいんだよ、罪悪感なんか、覚える必要等無い"」
そうっと、後ろを振り向く。同時に背にぶつかっていた何かが離れて行き……
見えたのはとてもはっきりとした少年の姿。赤いバンダナを頭に被り、そこからはみ出していた深海色の髪の間から、その髪よりも少し明るい…夏空色の瞳が自分に向けられていた。ほっとした様な、苦笑した様な表情でその少年は微笑み、ふ…と、風に流される様に消えていく。
夢の様な出来事は消え、静寂が其処に落ちた。思いもしなかった目の前の事に呆然と佇む。
「……やっぱり」
グレンが隣で、独り言の様に呟く。
「カーシュ兄が一番、望む形に思い出しているじゃないか」