朧気な記憶に問う
この面影は
この愛しさは
この懐かしさは
この哀しさは
この想いを向けている者は
誰だ……?
[忘れたくない]
「………?」
振り向いた先には何時も誰も居ないのだが、何故自分が振り向くのか判らず視線は無人の空間に釘付けになる。
感覚が無くなっていく程見続けていると次第に其処には『誰か』いた、という記憶が自分の意識の中に生まれて来て。
其処を見つめると、ぼうっと惚けている少年が視線に気付き、笑いかけてくれた筈………………
藤色の長髪を持つ青年は紅い瞳を細め、……拳を握り締めてから踵を返した。ここの所知り合いもよく起こるこの無意識の追掛けに、そろそろ苛立ちが湧き始めている。
[誰をだ?]
靴音が響く廊下を慌ただしく歩いていく。
[何故にだ?]
幾ら歩いていても考えていても答えは見い出す事は出来ない。自分の中にある『何か』を破片のみ見つけただけで、あとは何も判らない。
[……どうして俺は大事な筈の『何か』を忘れているんだ?
俺だけじゃない、グレンも、ダリオも、リデルお嬢様も、蛇骨大佐も、あの大陸人のイシトでさえもだ。
……何故ひとつだけ、皆思い出せない?]
封印されたかの様にそれだけが皆思い出せない。本来ならば思い出せないならそれでもよかったのに。
だが心の中で叫んでいる……
『忘れたくない』と。
『……何を忘れているんだろうと思う? カーシュ兄』
暫く前に緑灰色の髪の青年が口ずさんだ言葉。
『………………「誰か」を忘れているんだよ』
刹那、隠されていたパズルのピースが現われてそれは型にはまり、ひとつの形と成した。
とても尊くとても愛しく護ってやりたかった、その瞳の光とその笑顔とその性格に微かに反発しつつも、それだからこその魅力に惹き付けられた、その心を失わないで欲しいと思った、大切な存在。
手探りでやっと見つけた記憶の破片、それはとてつもなく自分達には大切なものであった。面影も形すらも判らない、ただその『存在』だけが妙に自分達を惹き付けて忘れさせない。何を忘れているのかも判らなかったその時に青い瞳は紅い瞳を見つめて言い放った。頬に傷をつけた青年が悔しそうに、言ったのだ。
「……俺、親友の存在忘れている」
「…何?お前また…」
後ろから追掛けて、隣にやっとの事で並んだ青年が開口ひとつめにそう呟いた。整った顔立ちの青年が眉を潜め、目立つ紅い瞳を細める。
「今日久し振りにテルミナへ行ったんだ。其処でいろいろ回ってたらぽろ…っとね。
なんか、あそこで笑いながら歩いていた気がする。気がするだけなんだけど、それが妙に記憶と一致してさ」
緑灰の髪をかきむしってすっきりしない様な表情のまま青年は話していた。
「…すごく、他愛の無い会話で、対等に話せて、笑えて。
……何で俺、今まで忘れていたんだろう」
責める様な青年の独り言…だが、皆そう思っている……やりきれない気持ちが胸の中に広がっているのだ。その記憶の破片は自分達にとってとても暖かく……大切なモノ。それを一体どうして知人に限らず全員が忘れてしまいきっていたのか、皆が謎に思い不思議に思い、解明出来ずに居る。
その中でただ一人、彼だけが着々と破片を拾い集め出していた。
「グレン……お前は思い出せるだけまだ良い。俺なんかさっぱりだ」
前髪をぐしゃりとかきあげて青年は荒っぽい口調で言葉を吐き出す。藤色の長髪の青年は他の者達と同じく始めの破片のみで何も判っていないのだ。
「カーシュ兄は最近蛇骨館周辺に入り浸たっているからだろ。
俺だってテルミナに行ってやっとまた見つかったっていうのに」
「莫迦野郎、俺もお前も仕事だからだろ」
「それはそうなんだけど。……でもカーシュ兄変だよ、妙に他の所に行きたがらない」
「…………それは、別の理由だ」
彼…カーシュの言葉にグレンと呼ばれた青年は困り果てた表情を浮かべて見た。
「……ごめん。そういや、あと一ヵ月もないんだっけ」
言いにくそうにグレンは呟いた、暫く忘れていたが近々大きな挙式があるのだ。テルミナの北にある、武器屋の隣に建てられた小さな小屋で。
ダリオとリデルの、結婚式が。
ぽすりとグレンの頭を軽く叩き、仕方無さそうに彼は口を開く。
「気にすんな、只俺はその時まで護ってやりたいだけだからな。
不思議なのはお前の方だよ、何時の間に心変わりしたんだか」
「うわ、嫌な言い方。
…気になった娘はいるけど……お嬢様の方は、諦める決心がついただけ」
「…それでいいんだよ」
こつりと額を小突き、そのままグレンよりも前へと進む。
「執念深いのは嫌われるからなぁ」
軽く右手を上げて階段をかつりと音を立てて降りていく。その藤色の長髪の姿が見えなくなるまでグレンは立ち止まってその方を見つめていた。…見えなくなって、一言。
「カーシュ兄だろ、それは……」
この話の事になると一切の感情を打ち消して他人を宥める事ばかり、前も後も変らないカーシュの行動。そうやって自分の心の奥の感情を押し込めている、……昔の自分と全く同じだった、『兄』。
『……どうしようもなくカーシュらしいんだけどね、其処が』
振り向いた所には何もなく……無空間が存在するだけ。
「カーシュ」
「イシト?」
巡回中カーシュは金髪碧眼の青年、今では親友のイシトに呼び止められた。
現在パレポリから去る事情により多少の軍が来日している。あまり喜ばれる事では無かったが、今回の責任者がイシトだったお陰か何のもめ事も無い日々が流れている。イシト自身も龍騎士団と分け隔てなく接していて、不思議と和むのも早い。もっと不思議だった事が、島なまりの言葉とは少し違った口調で言葉が紡がれるのに少々敏感な筈のカーシュは今回何の違和感も持たなかった。逆に意気投合してしまい、仲の良さは噂になる程だ。
「リデルさんがお探ししていた。話をしておきたい事があるらしい」
「そうか……済まない」
同じく巡回していた他の兵に巡回を続けろと下命してからカーシュはイシトの隣に並び、館へと進み出した。イシトも変らぬ早さで歩みつつ、少しだけ彼の方へと視線を向ける。
「なんだ」
「いや、……不機嫌だな、と」
ぐ、とカーシュは呻き声を上げて肩を狭めた。
「……悪かったな、判りやすくて」
「謝る事でもないんだが……何か言われたか?」
歩くテンポは変らないまま、館の玄関へとたどり着く。門番の兵が重い鉄扉を押し開けて、二人は靴音の響く廊下へと入って行く。
「…………
お前は……思い出したか?」
「…? ああ、記憶の破片の事か。 今の所は、あまり。だが……」
「だが?」
奥の階段へと続く扉の前、カーシュが立ち止まりイシトを見た。肩をすくめてイシトは小さく笑う。
「時々言葉が聞こえる。」
「言葉?」
「そう、例えば…こんな事を言っていた。」
『社会の中での失敗って許されない事だけど、絶対にしてはいけないというものでもないと思うんだ。
社会だったとしても個人だったとしても失敗をしなきゃ、挫折やその他の心が落ちる事、実感出来ないからね。僕もいろいろ失敗ばかりやってるけど、悔やむ事今でもあるけど、絶対的な間違いではないと思ってる。
失敗する分、少しずつだけど、強くなっていく気がするんだ。』
不思議な言葉だ、当り前の事を言っていたのだが、カーシュは自然と思ってしまった。
「確実に、これは私へと向けられた言葉だったよ……
私が生きる社会は、……全ての社会に対しても同じだが……失敗する事は大きな損害を齎す。故に、失敗は許されない事だ。
……しかしこの場合、彼は『社会』の事を言っているのではなく『私個人』の事を言っているのだと思う。
人間というものはどんな事にしてもマイナスもプラスにしてしまう性質を持っている。その事を言っている言葉だよ……少しだけでも私の緊張を解こうとでも、したのだろうか」
悟りを開いた様な言葉だなと可笑しそうに笑うイシトを横目に、カーシュは扉をゆっくりと押し開けた。金属同士が擦れ違う音が低音で響き渡り、途中でその音が無くなる。
「俺は何も思い出せない」
「君が思い出していないだけだよ」
「じゃなかったら、俺はそいつと関係が薄いだけだ」
「嘘だな」
歩き出そうとした彼の後ろから一言呟かれる。目を見開いて後ろを振り向くと、イシトは腕を組んで苦いものを口元に浮かべていた。
「ならばそんな苛立っていないだろう?…普通は羨ましがるだろう?
なのにお前は今、私の話を聞いて確実に苛立ちを覚えた。自分だけ、全く思い出す事が無い事に。
少しでも思い出している私に……いや、皆にだな。」
「……」
「……カーシュ、イメージは無いか? その忘れているものに何か」
問いかけに一瞬呆気にとられ間が空いたが、口元を押さえカーシュは押し黙る。唐突に言われても…と思ったのだが自然と思い浮かんだものがひとつ。
「…青、だ。」
「青」
「……海と空、その色……」
ぼかした程度の色の感覚だけれど、それは間違い無くエルニド諸島の空と海に繋がる色。何処からその『存在』に繋がるのかは判らないが、思い出すと同時に色のイメージが広がっていく。
「私には色のイメージ等ない」
顔を上げ、カーシュはイシトを見た。紺の軍服を来た青年は苦笑しながら肩をすくめ、とん、とカーシュの肩を叩く。
「姿も形も色もない。私には『声』だけだ…」
感覚的なものだけ、視覚的なものなど、ない。
親友の優しさが胸に染みた……自分だけが、と思っていたのが恥ずかしいと同時に、判らせてくれた彼に感謝と謝罪の気持ちが溢れた。同時に、照れ臭い感情も生まれてしまいカーシュは顔が赤くなるのを紛らわす様に髪をかきあげ、…出来るだけ声を抑えて言った。
「……どんな声だ」
イシト自身謝罪も感謝も要らなかった、それにその言葉が照れ隠しだという事も判っていたために言葉を変え、答えた。
「透き通っていた。少年の様だったな……とてもあの言葉を紡げる声とは思えなかった。
優しくて暖かいような、いつも笑っている様にも思える声だった」
「…ああ、そうだな。そういえば、いつも笑っていたな……」
……?
「…… カーシュ?」
ぱきり、と何かが弾けた。
落ちてくるひとつの破片。
忘れていたひとつの意識。
空色の瞳を細めて笑う少年の映像…………
「……イシト、感謝する」
「…?」
「思い出した、今……ひとつだけ」
手袋を履いた手を見つめて、きつく握り締める。何かを、かみしめる様に。
「笑顔を、思い出した………」
赤いバンダナをぐしゃぐしゃにしながら深海色の髪をかきまわした記憶が浮かんだ。抗議の声を出していたか迄は思い出せなかったが、笑っていたのだけは……思い出せた。
その少年が笑っている所を見て、とても大切で、愛おしく、その笑顔を護らなければと思わされたのを、後々苦笑していた様な気がする。
…そんな、破片が舞い降りた。
同時にもうひとつのイメージが思い浮かんだ。
赤い イメージ……?
姿は赤のイメージにすると言えば、頭に被ったバンダナだけだ。
他に一体何が?何があるのだろうか……?
お前は一体、だれなんだろうか……