「つまりは……あの時の出来事はこういう事なのかね。
ANOTHERのセルジュ…つまりこの世にはいない筈のセルジュがお主を引きずり込もうとして、それを見たキッドが助けようとしたら光が現れ、もう一人のセルジュが現れたと。」
頭を抱えたくなるような事が起こったらしいのに、大佐は渋い顔で受け入れる。あまり信じたくはない内容だが、他に何かがあるのかと問われれば、さあ?と肩を竦めるしかない。
翌日の昼に近い時刻、村のセルジュの部屋で、3人はぼそぼそと言葉をかわしあっていた。昨日はあれからこっそりと村へ戻り、裏側から彼の部屋へと忍び込んで、マージのみに事を説明しそれからずっと閉じこもっていた。キッドと蛇骨大佐は特に問題はない、体力の消耗と、キッドの方に精神的な疲れがあるだけで他には心配する事もなかったが、セルジュがそうもいかなかった。
体中に、びっしりと手の痕が残っていた。かなりきつく押さえ込まれていたらしく、何処から見てもはっきりと見えてしまうのだ、これを村の人が見たら、失神しかねない者もいるだろう。故に隠れて村に入る必要があった。
精神的にも肉体的にも一番消耗した筈のセルジュは、昨晩あまり眠れなかったらしい、具合のよくない顔色のままベッドの上で壁に寄り掛かり、昨日の出来事をキッドと共に説明していた。
彼の隣に座るキッドもまた具合の良くない顔色をしていた。彼女の方は、どうやら悪夢にうなされたらしい。「手が」としか言わなかったが、セルジュの身体の痕の事を考えると…彼女が何を見何にうなされたのか──想像を絶しそうだ。
自分でも今の姿は見たくないらしく、薄い生地の長袖とズボンを着込んだセルジュが、肯定の意を唱える。
「そうとしか、言い様がもうないんだ。何でANOTHERの僕が居たのか、もう一人の僕が突然現れられたのか、よく判らないけど、でも目の前で見たのは確か。」
「ずっと下の方でセルジュが……あー、捕まってるのを見てさ。とにかく助けないとって思って急いだら、背後の方で何か光ってさ。そしたら、隣にお前が居て、でも下の方でもお前が居て。
…わっけわかんなかったけど…あいつ、こっち向いて笑ったんだよ。なんか、助けられるって自然に思ってさ。…そうなった訳だけど」
「記憶の方はどうなったのかね」
本来の問題の事について問いかけると、キッドが瞬きをし、徐にセルジュの方を見る。
…忘れていたらしい。苦笑で、二人を視線を受け止めたセルジュは、頷いた。
「大丈夫、全部戻ってるよ」
ほっと、安堵の息が漏れ──
「………原因は判ったのか?」
「定かじゃないけど」
言葉なく続きを待つ二人、交互に見、多分ね、と口頭につける。
「記憶が、重なって反発を起こしたんだと思う。」
「反発?」
そう、とセルジュが答える。
「前に海に落ちた時、あの時に何かが起こって──他の僕の記憶が混ざっちゃったんじゃないだろうかって思ってる。それで記憶があったりなかったり…したんじゃないかな、あちこちに移ってしまって。
確証はないよ、決定付けるものもないし。でもあの時もう一人の僕と接触して、すぐに記憶が戻って来たのが判った。入って来るものと、出て行くものがあったけど、出て行くものは向こうの記憶だったんだろうね」
「じゃあ、記憶が抜け落ちてく現象は?」
「幼い頃の僕の仕業…かな。あの様子だと、待ってた感じだったから。」
はぁ、と気の抜けた相槌が打たれる。無理はないと思う、言っている自分でさえ嘘のような出来事だと思っているのだから。けれど自分の中に何処かそれをすんなりと受け入れる所があるらしく、今の所、それで落ち着いている。
そっと、左手で右腕に触れる。
あの海の中でこの腕に回された幼い手、あれから随分と自分は成長したのだなと、月日が経ったのだなと今更ながら実感する。
彼が何処の自分なのかは判らないが……自分が行くANOTHERの自分でもない事は確実だ……、それでもこの長い年月をずっと深く暗い所で過ごして来たのだろう、最後には己が己であるのかすら判らなくなってしまう程、酷く冷たい所で、ずっと…ずっと。
自分も彼と同じ道を歩んでいたら、恐らく同じ事になるだろうと思う。
「独りは…怖いね」
「?」
「皆を思い出せて、本当に良かった」
不思議そうに見つめる二人に、セルジュは穏やかな笑顔を返した。
その後暫く他愛のない会話を続けていると、階下からマージの声が聞こえてくる。その場で受け答えると、母が部屋に顔を出す。
「何かあった?」
「あの人が来たわよ、通して大丈夫?」
「! うん」
何処か気を引き締めた感のある返答に、キッドはほんの少しだけ顔をしかめた。"あの人"で通じる程親しい仲なのだろうに、それ以前に"あの人"だけで通じる者とは一体誰なのか。
問題の人物は、マージが姿を隠した後すぐに現れた。部屋の入り口に一歩足を踏み入れただけで立ち止まり、じっとセルジュを見…炎玉の紅い目にほのかな安堵の色を浮かばせる。藤色の横髪をかきあげつつ後頭部を摩り、何故か憮然とした低い声が響いた。
「思ったよりも、…元気そうだな」
「…よりによっててめぇかよ」
苦虫を潰してしまった様に顔をしかめて、キッドは嫌そうに呻く。
「他の仲間に半ば強制的に来させられたんだ、文句言うな」
大佐に一礼し、ずかずかと中に入り込んで来ては、大袈裟な身振りでセルジュの隣に座り込む。それから黙り込んだ彼に、三人ともが不思議そうに顔を覗くと紅い目でそれに答えた。
……不機嫌な様だ。
「……カーシュ?」
不安そうに、問いかけるセルジュ。ひとつの間を置き、ふ、と深い溜息が彼…カーシュから漏れた。そして、口を開く。
「大佐、御無礼、お許しいただけるでしょうか」
いつもよりも少し、堅い口調。セルジュとキッドは判らないままだったが、蛇骨大佐は気付いたらしい、何かを得た面持ちを浮かべる。
「病み上がり状態だから手加減をな。…許す」
突如カーシュがセルジュの襟首を掴み、投げる様な仕種でベッドから引きずり降ろす。床に落ちかけの所に両手を首に回し、右肩を反らせ、左脚を自分の足で固定させる。
「わ、わ、わ。カーシュ、待った、カーシュ!」
「うっせぇ、俺様は今怒ってんだ、黙って固められろ!」
「んな無茶なって…っいたたた──っ」
… … ……ええと。
目の前で起こっている出来事に対応できず、キッドは暫く呆然と眺めていた。二人の様は確か何処かで見たことがある、そう、大陸の一部で盛んに行われている競技の固め技とか言うやつだ。確か、蛇捻りという名前だったか。
「てんめぇぇ〜〜、一番に俺を忘れやがってッ。恩を仇で返すような事してくれたな!別に恩を売った覚えはないが!」
「言ってる事無茶苦茶だよっ、
それに好きで忘れた訳じゃ無い…ったーーッ、ギブ、ギブアップ!」
「じゃーかぁしーぃっ」
次々と固め技が展開されるのを呆然と眺めていて、ふと横を向いた。其処に居たのはのんびりと椅子に座って飲物を飲む大佐と、これまたのんびりと飲料水を引っ張って来たテーブルに置くマージ。どうにもこうにも、目の前の事に全く動じていない。
「…放っといていいんですか?」
「あら、元気が良くて良いじゃない?男の子はこれくらいはしないと」
「ふむ、そんな所だな」
「あんたまで…」
「あれくらいは私もやったものだよ。特にカーシュはザッパ譲りだしな」
本当に動じてないのに、呆然としていた自分が莫迦らしくなってくる。勝手にやってろよ、と他人のふりを決め込もうとマージから受け取った飲物を一口飲み込み、ふと動きをとめる。
「おい、カーシュ」
「何だ小娘、今さら止めろと言われても聞かねぇぞ」
んなことじゃねぇよと突慳貪に返されたので、セルジュを逃がさぬよう技はかけたまま、顔をキッドへと向ける。口の端が、釣り上がるのが見える。
……悪戯な笑み。
「いいこと教えてやろうか」
「…キッド?」
「何だよ」
「そいつ、脇腹が弱い」
辛うじて顔を上げて向けた視線の先、自分を押さえ付ける人物の表情が、みるみる内に含みのある笑顔へと変貌して行くのを、身体の芯が凍り付く思いで見るしかなかった。
でだ、とカーシュがのんびりとしていた空気の中切り出した。
随分とすっきりした表情で、先程の憮然とした所は既になくいつもの彼となっていた。壁によりかかりつつ床にどかりと座り、片膝に笑い疲れてぜいぜいと肩で息をするセルジュを置いて、二人に…というよりはキッドに…声を掛ける。
「俺は数日前、大佐に行くなと言われて行かなかった。昨日は仲間に見舞いに行けと総攻めを食らって来た。…という事で、どうやら他の仲間よりどういう事があったのか知らねぇんだ。
話してくれんだろ?今さら話せないってのはなしだぜ、どうなったか事細かく聞いて教えろと言われたんでな。あいつらに半殺しにされるのはご免だ」
それに、と彼はセルジュのだらりと力のない腕を持ち上げて、服が垂れ下がり露になった部分を指差す。
「これの事も非常に気になるんだが。」
カーシュを抜かした三人が同時に顔を見合わせ、どうしよう、と言わんばかりの雰囲気を浮かばせた。様子を見、カーシュは怪しむように三人を見、最後に大佐を見る。
「まさか、大佐迄話せないとか言いますか」
「というよりは、全て詳しくは知らぬのだ、私も。何となく理解はしているが」
結果的に全てを知るのはキッドとセルジュの二人だけとなる。
二人で、顔を見合わせる。
「……全部は」
「言いたくねぇよなあ……」
遠くを見るような虚ろ気な眼で明後日の方向を見、苦いとも引きつりとも言い難い笑みを浮かべた二人に、カーシュは不可解な表情をするしかなかった。
「僕が記憶をなくして海で溺れそうになって、思い出したってだけじゃ、ダメ?」
「ダメ」
即答だった。