かすかに灯っていた村の光も全て消え、空に浮かぶ赤き月と白き月、周囲に散らばるささやかな星の光が地を照らすのみとなった時刻、静寂と海の小波と、香る潮の匂いが其処にあった。
ざらざらと音を立て、波が棧橋の柱にあたりぱしゃりと散る。そんな音を背後で聞きながら、ぼんやりと空を見上げる。昼間のような青の輝きも朱の広がりもない、漆黒の空、そのなかに散らばる灯籠の様な淡い光。
金の、輝きがふわりとなびく。
「……ほんとに足音を立てないね」
まあな、と彼女が笑う。風に揺れる長い髪をかきあげて、上から覗き込んだままの姿勢で膝をつく。
「また子セルジュに引っ張られねぇだろうな」
子セルジュ、という名に笑いつつ、手を持ち上げて流れる金の輝きに触れる、糸の様に細くしなやかな柔らかさを、指の先で感じる。
「多分、もういないよ。海を見ても触っても何も感じないし、…また流れてくる事はあるかもしれないけど、今は居ない」
「多分てのがあんまり信用なんねぇけど。
これ以上ややこしくなってほしくねぇから、そう思っとく」
ふ、と息をつき、彼女は隣へずれて足を伸ばす。下ろした髪を邪魔そうに後ろに流しながら、黒く光る海を眺めている、少しだけ、戸惑いの色を宿して。
ざらざらと海が音を立てて揺れる。
「何で、あんな事になっちまったんだろう。」
彼女が、静かに口を開く。
「あいつさ、ANOTHERのお前じゃ、なかったよな……境遇は同じな筈なのに、あっちは海に捕われてて、こっちはもう何処にも居ない。
…何が、違ったんだろうな」
ANOTHERの彼が、あの「セルジュ」であれば、きっと彼は初めて時空移転した時に海に引き込まれていただろう。彼女と会うまでもなく、命を落としていたのかも知れない。
さやさやと風が流れ、金の糸が流れて行く様を見る。彼女は相変わらず、海を見つめたままだ。
「一時の思いに負けたんじゃないかな」
「一時」
「昔…溺れた時に、冷たくて、苦しくて、どうしてなんだろうって、その思いに負けたんだと思う。
僕もそう思ったし、凄く怖かった。けれどその後に見た海が凄く綺麗だったんだ、海上から降りてくる光が海の中を差して、青い空間が一面にあった。それが妙に暖かくて…
……綺麗だった。ANOTHERの僕は、それがあったから海に捕われなかったんだと、思いたい」
ほんの少しの差ではあるが、それが後々に大きな分かれ道となった。ここに自分がいる事で、それを実感しているが故に素直に受け止められた。
それから彼は、深呼吸をひとつ。
「…ごめん」
ぽつりと、呟いた。眼を見開いて、彼女が彼へ視線を向ける。
「負けそうになった」
「セルジュ?」
そっと、彼は眼を閉じる。
「海の中で、一度だけ。暖かかくて、気持よくて、記憶が戻らないならそのまま沈んでしまいたいと、………思ったんだ。」
それはほんの一瞬の、弱音。幼い頃の自分は、それを、そこに生じる隙をずっと待っていたのではないだろうかと、思う。確実に不意をつける、その時を、ずっと隠れて待っていたのではと。時折感じた視線が、あの子のものであるのなら。
今となっては後悔しかない。例えそれに負けるつもりはなかったにしても、たった一度でも、目の前の彼女から離れようと思ったのに違いなかったのだから。
莫迦な考え過ぎて、自嘲も浮かばない。
「…ごめん」
今さら謝ろうとも意味がないのは判っているが、言わずにはいられなかった。どう返答が返って来ようとも受け止める覚悟を持って話してみた。沈黙が落ちようとも軽蔑されようとも構わなかった。それ程迄に今回は、莫迦な弱音を心の内にとどめておく事が出来なかった。
だがそれはごく静かに、差程時を待たず、対する言葉は返って来る。
「お前はここにいるだろ」
眼を開けて彼女を見ようとする前に、首元に何かを感じた。見れば、襟元を緩め、何かを探っているらしい、そのままにしていると何かを指に引っ掛けて、服の中から取り出した。
それは、彼が幼い頃から肌身離さず身に付けている木彫のペンダント。
「負けそうになるのは、誰だってある事だ。俺だって何度かあるし、他のやつらもあるだろうさ。
そんぐらいの弱さや逃げはあったっていい、でも最後には負けんな。諦めるな。
…此所にいる事を、諦めないでくれ」
木の飾りの部分を軽く指で摩り、そっと、身体をかがめて口付ける。
顔を上げて、彼女は笑う。
「守って、くれたじゃねぇか」
「…え」
「お前にしか効かないお守り、なんだろ。守ってくれたじゃないか。
お前は、お前だよ、セルジュ。お前が負けなかったら俺は良い。
此所に居てくれたら、…それでいい」
手を、伸ばす。
掌にその身体の暖かさが伝わってくる。腕を回して、身にその暖かさを感じた。
髪を梳く様に彼女の手が、細くしなやかな彼女の腕が回ってくる。
……暖かい。
「…よかった」
声が、震えてしまいそうだった。
「失わないで、良かった…」
ゆるゆると、静かに時は過ぎて行く。
広がりし海は、光を称えたまま、其処に弛たうのみ。
幾ばくかの歪みを、抱えたまま。