日を追うごとに少しずつ、彼の記憶は海に溺れて行く様に……しかし急速に消えて行った。
思い出そうと必死に自分の中にある記憶を遡って行っても、そこから溶かされてしまったかの様に、途切れてしまっているという。
この状況に一番ショックを受けていたのは当の本人、セルジュで、はじめの内は何とかこの記憶消失の流れを止めようと躍起になっていたみたいだが、次第に自分の部屋で惚ける様になった。
それも無理もないとキッドは思う。今度は人の記憶に限らず、その時あった事、その背景など、全て流れて行ってしまうらしいのだ。つまり──彼の生きて来た軌跡が消えて行く、全て消えれば、彼は赤子以前の状態になるのだ。
だが、彼はそんな事を気にしている訳では無い。彼が最も心を痛めているのは、自分と出会った者達、大事な人達を忘れて行くという事実。最後には、最愛の人を……キッドを忘れてしまうのではないかという恐怖に襲われているのではないだろうか。
ではないか、という疑問ではないのかもしれない。忘れてしまうのだろう、この言葉が彼の中にあるのかもしれない。苦渋も哀しみもしない、手をきつく握りしめて…それでも表情には何も現れない様子に彼女はいつもまともに見ていられなかった。
多数の仲間や知り合った人達を忘れて行く中、今の所キッドは彼の中に留まっていた。真っ白になりつつある自分、それでもまだ生きようと目を開いているのは、恐らくその存在の為だけなのだろう。
それを失えば、彼は死んだも同然のものとなってしまう。
……「死なせ」はしない。
己の葛藤と哀しみと、記憶を失って行く消失感と、いろんな痛みに耐えながらも、それでも自分の前では笑ってくれる彼を、なくしたくないと思った。抱き締めた時に背に回してくるその腕がいつもと違っているのは怯えているからだと判ったから、それは自分を頼っているのかもしれないと思ったから。その為には何でもすると決めた。
───最後の、賭だ。
「海へ行こう」
少しだけ身体を離して、セルジュに向かってキッドが言った。
「海で溺れた時、お前の中で何かが起こったんだ。
前の様にまた記憶が失って行くだけなのかもしれない。もしかしたらそのスピードを速めるだけなのかもしれない。
でももう、それしか無い気がするんだ。
海へ行こう。そこで、何かが起こる筈だ───」