気晴しにという事で、二人はその後すぐに外へ出た。部屋の中に居ても思いが巡るだけで何もやってこないだろうと、半ば強引にキッドが外へと連れ出したのだ。昼近いのに暫く外に出ていなかった所為か、出て行くと陽射しが眩しく視界を少々遮らせた。
二人を見送る様に、家の扉前まで一緒だった母親にセルジュが短く言う。
「今日は帰って来るから。夕飯前位に。」
「別に記憶が戻ったらそのまま行っても構わないのよ?」
「そういう訳にも行かないだろう、マージさん。」
幾ら何でも母親からこいつを独り占めには出来ないと、苦笑混じりにキッドはマージに言った。彼女はセルジュの母親…マージの前になると別人と思える程に大人しくなる。大分前からキッドはマージとは対面しているが、初めから二人の態度は変わらない。キッドは妙に大人しくなり、マージはキッドを娘の様に接する。
「あら、私はかれこれセルジュを17年間独り占めしてきたのよ。
もうそろそろ貴女に譲っても良い頃よ。」
「えっ、お、俺は…」
「母さん……」
言葉が続かない二人ににっこりと微笑み、マージは二人の背中を押してやった。
夕方にと告げてから家を出、村の中を歩く二人、キッドが頬を摩りつつ、苦い思いを秘めた様な口調で言う。
「お前のお母さんには…やっぱ適わねえんだよな…」
「母は強し、って言葉は僕の母さんにあるようなものだからね。」
「本当にな……。
姉ちゃんも、そういや妙に勝てなかったんだよな。」
「…、ルッカさん?」
「そ。姉ちゃんの部屋ってさ、なんかへんてこなものばっかあるんだ。だからよく忍び込んでそれがどんなものなのかといじくったんだけど、必ずといって良い程見つかっちまって。そこから喧嘩になるんだけど、絶対負けるんだよな」
「………それは全体的にキッドの方に勝目がないんじゃない?」
「そうかぁ?危ないから入るなって言うけど、鍵かけない姉ちゃんも姉ちゃんだぜ?
あの人研究やり始めると他の事に頭回らなくなるから、よくドア開けたままで物取りに行ったりとか……」
棧橋の辺りまで来て、ふとキッドが足を止めた。どうしたのだろうと振り向いてみると、むず痒そうな面持ちで、首の後ろを摩っている。
「悪い。面白い話じゃねぇよな」
その言葉に、首を横に振る。そして、笑いながら言う。
「ううん、そんなことないよ」
「無理してんじゃねぇだろうな。こんな人の昔話なんて聞いて、楽しい事なんてあるかよ」
「じゃあ、僕の昔話も楽しくない?」
「………」
う、と彼女は言葉に詰まる。正直に言えば、楽しくないとは思わないし、つまらないとも言い難い。楽しいとも言い難いものではあるが、相手を知る上での重要な話でもあるものなのだ、聞きたくないと言えば嘘になる。
口の端を上げてセルジュが笑う。握り拳のキッドの両手を持ち上げ、手を開き、包むように握りしめる。
「…嬉しいんだ」
「は、…?」
「穏やかになった。」
「………」
答える言葉が見つからない。棒立ちになる彼女の手を包んだまま、セルジュは視線をそこに落とす。
「前に話を聞いた時、キッドのお姉さんの話はしたらいけないんだろうな、って思った。張り詰めてて、お姉さんの話だったのに、ヤマネコへの憎しみでいっぱいで。
溶けない思いが、キッドの中にあるのを感じたんだ。
でも今はそれがない。張り詰めた思いも、憎しみもなくて、ただただ、お姉さんに対する思いがある。」
言葉がない。唖然として、キッドはセルジュを見た。セルジュもまた視線を上げてキッドを見返す。
「…キッド、お姉さんの話してたとき、笑ってたんだよ、判ってた?」
────一瞬の間、次に、自分に何を言われたのか理解した彼女は、徐々に顔を赤くしていった。慌ててセルジュから身を離し、彼に背を向けて歩いていく。
「む、村ん中歩いてたって仕方ねえだろっ。外に行こうぜ外に!」
返答を待たず、キッドはどんどん歩みを進めて行く。彼女の後ろ姿に微笑み、次に、少しだけ苦い笑みを浮かべる。彼女の手を握りしめた掌を見、軽く握りしめた。
…なんだろう。
引っ掛かるものが、自分の中に在った。自分に対する記憶がない故に、それが何物なのかは判らないけれど。でもきっと、と。誰にも聞こえない程の、ささやかな声で。
「僕も何時かは、この思いをどうにかしなきゃならないんだね」
セルジュが先へ進むキッドに追い付いた頃、村の入り口から一人の老人がしっかりとした歩みで近づいてくるのに気付き、二人は視線を向けた。黒い軍服が似合う初老がこちらに気付き、カーシュやリデル……リデルはこの人譲りなのだが……と同じ赤い瞳が細まれて、セルジュも同じく微笑む。
「蛇骨大佐か」
特に感情を込めず、棒読みでキッドが呟く。
「珍しいね、あの人が此処に来るなんて」
「行って来いよ。」
「…へ」
「ばか、大佐はお前の様子見に来たんだろ。 ほら、いってこい」
一瞬躊躇するも、キッドに背中を叩かれてセルジュは駆け出した。一緒に行ったとしても向うは構いはしないのだろうが……正直、大佐とはあまり付き合いがないのでどう顔をあわせれば良いのかが判らないのだ。どうせ一緒に村の外へ行く事になるとは思うが。
ふ、と彼女は息をつく。
動揺なんて、見せる訳には行かない。親しい者でなければ尚更なのだ。
落としていた視線を上げると、セルジュは大佐と対面していた。
入り口を入ってすぐのところで立ち止まり、一歩手前の場所でセルジュは大佐を見上げた。漆黒の中に所々不思議な模様の入った軍服を身に纏い、鋭く、紅い眼光で己の護る島を眺める。いかに年をとった者と言えど、気を緩めれば一撃でしとめられてしまう程の力も技量も持ち、知識も能力もある。それが自信となっているのか、身体全身から溢れんばかりの威圧感が放たれている。これが上に立つ者の存在感というものなのだろう、とセルジュが思った程だ。
初め出会った時はその威厳の強さから近寄り難いもの……というよりも、自分が近寄っていい存在ではない雰囲気……があったが、ある時を境に、その境界線はさっぱりとなくなってしまっていた。今は頼りになる仲間の一人、……自分を想ってくれる一人でもある。
久し振り、と笑ってセルジュが話し掛ける。
「大佐、どうしたの?」
「お前の様子を見に来たのだよ。今回は私の番だったのでな」
「番?」
「先日はマルチェラが来ただろう?
大勢で行っても邪魔だろうからと、リデルが提案したのだ。
何時の間にか私も一緒にされていたみたいでな」
彼一一大佐の言う通り、数日前はひょっこりとマルチェラが顔を出した。起きて平気なのか、傷はもう大丈夫なのか、しきりに安否を確かめながら笑ったり照れたりする少女を、可愛いなと思いつつ話していたのを覚えている。
「大丈夫、って言ったのにな。」
「お主のその言葉は信用出来ぬからな」
いつも言われる言葉に、セルジュは苦笑を隠しきれなかった。そんな少年の頭をバンダナ越しに撫でて、傷だらけの、厳格のある表情がふわりと和らぐ。
「久し振りだな、こうやってゆっくりと話が出来るのは」
「うん……大佐はいつも忙しいから」
「そうだな…、会議以外まともに顔を合わせて会話を交す事も侭ならなかったからな。
……久し振りに挨拶はしてくれぬのかな?」
目を丸くさせて、セルジュがその言葉の意味を考えていると、軽く大佐が手を広げた。あ、と声を漏らし、そしてセルジュは困った様な、嬉しい様な笑顔を見せた後、ぎゅ、と大佐に抱きつく。その少年を大佐は受け止めた。
「…お前らしい記憶の失い方をしたな。」
「そうかな?あんまり自覚ないけど───」
照れた様な笑い声に、大佐はセルジュに問いかける。
「はは、ご免。ちょっと久し振りすぎて、照れると言うか、恥ずかしいと言うか…」
「嫌かね?」
ううん、と慌てて彼は首を横に振った。
「嫌じゃない、逆に嬉しいとも思う。
…ちょっとこういう事を受けるには大きすぎたかなとか思うだけで。
…んと、その。慣れてない、かな。」
キッドも居るんだ、とセルジュがその後直に後ろを振り返ってしまった為に気付かなかったが……ほんの一瞬だけ、大佐は苦い笑みを浮かべていた。今時は両親、片親が居ない子等溢れ返ってはいるが、この少年の様に真直ぐな性格に成長する者は少ない。
その心を失わせたくないと思わせる、この少年はあまりにも不思議だった。
「…引き寄せる何かがあるのだろうな」
「え?」
「いや、何でもない」
「……?ん…ね、海に行かない?」
二人を目の前にセルジュが微笑んで言った。
「海なんて、何処かしこでもあるじゃねぇか」
キッドは頭上に疑問マークを散らせながら手を広げる。今目の前にも海が見えるというのにという声無き声に、セルジュは軽く首を振る。
「オパーサの方だよ。……あそこ行ったって、直にもう片方のエルニドに飛んでいくだけだろ?
僕が見つかった所だったし、もう一度其処に行ったら何か見つかるかなって。」
確かにと納得し、キッドと大佐二人同時に頷くのを見て、早速と彼は踵を返してオパーサへと歩き始めた。少々早足の所を見ると、今の状況に焦りを感じているのだろうか。彼の背を見、顔を見合わせて、二人はそっと息を吐く。
どうやったって、自分より他人、なのだ。彼は。
気付かなかった。
小波を見ると、目眩を起こす自分に。
真昼の陽が煌々と空で輝き続けるその浜辺に、彼は朦朧と立ちすくんだ。
「来る度に思うが……ここは他とは違う何かを匂わせているな」
気付いていないのか、大佐は海を眺めながら誰とも無しに呟く。それに答えるのはキッド。
「ANOTHERとHOMEをつなぎ合わせる歪んだ空間だしな、そう思ったって、不思議じゃないさ。沼だって同じ様なもんだろ」
天使も迷う場所、二つの世界の接点。ここなら、何があったっておかしくは、ない。そう思うと、セルジュがここで発見されたのも疑問を抱かなくなる。……共に彼が記憶を失ったのも。少々捻って考えてみると全ての答えがここにあるのではないだろうかとも思えてくる。強ち此処に来たのは間違いではなさそうだった。
かといって、ここに来てこれから何をせねばならないのかまでは判らず、なにとなく海を眺めていた。ひいてはよせて、よせてはひいてを繰り返す、今は静かな母なる海。この海に飲み込まれるように、包み込まれる様に、彼…セルジュは一度、この海に溺れて死にかけた。何とか無事ではあったものの、どうして無事であったのかが謎なのだという、キッドが知るセルジュの過去の一欠片。前にほんの触りだけ彼から聞いていたし、今回の事で何かに役立つのではとアルニ村の人からも彼には秘密だと言われてその話と他にも様々な事を聞いた。
この場所の不思議は砂浜だけではないのだろう、とキッドの脳裏にふとよぎる。遥か遠く迄広大な範囲で弛たう海があるからこそ、この砂浜もあるような。そんな気がする。
ぬしゃりと音がたったので何気なく二人はその方を振り向いてみる、……海に魅了されて気付かなかった、隣に居た筈の彼の姿が其処に無く、離れた所で海の向こう側へ向かう様に真直ぐに歩いていた。
「セルジュ?」
呼んでも返事が帰って来ない、其れどころか、海に足半分が浸かっても尚歩いて行こうとしている。彼の表情は見える事が無いが、様子がおかしいのは明白だった。後を追い掛けたキッドが急いで後ろから彼の腕を掴んで引くが、それに気付く気配も見せない。
「おい、おい、セルジュ。 何やってんだよ、聞こえてねぇのかよ、セルジュ!」
絡み付くキッドの腕を払う事無く、しかしその腕の制止に従う事も無く、彼女共々引きずる様に前へと進む。
後退させようと胴にも片手を回しつつ、辛うじて見えた彼の表情は……限り無く「無」を表していた。何故か、キッドはそれにぞっと背筋を凍らせる。
隙を縫われてその腕がキッドの手からすり抜けようとした時。
ぱん、と音が響いた。
何時から来ていたのか、大佐がセルジュの前へと移動していた、振り上げたその手は…セルジュの頬を叩いていたのだ。其処で漸く彼の歩みが止まる。覗き見るとその瞳には、いつもの光が戻っていた。
「…あれ」
瞬きして、彼は足下を見つめた。足下と言っても、既に下半身は海に埋もれてしまっている。見えるのは水に揺れて歪んでいる自分の足と、砂と、魚達に、二人の足。顔を上げると、二人が凝視する様に自分を見つめている。
「お前がここまで来たのだぞ」
「僕、が?」
「本当に、覚えて無いのか…?」
こくり、と頷いて、彼は頭を抱えようと片腕を上げた。
ぱしゅる、と音と立てて水が落ちていくのを無意識に見つめて────
どくん。
鼓動の音が高鳴る。
「…違う」
ささやかな呟きだった。初めの言葉だけ、二人は聞き逃していた。
「海は、蒼くて… 空は、遠く……
遠くて、ふかく、暖かく、やさしくて、厳しい。容赦無い。
矛盾してて……だから…包まれて…。
…ぁ、あ、あ、違う。 ……違う……っ」
自分の動悸が何故だかとても激しくなって、気を取られて呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。海の青さが自分の中へと入り込み、その色だけで満たされて行く幻覚を覚え、頭を抱え、落ち着こうとしたのだが。
目眩がする、立っている力が急速に失われていく。
……血が、海に吸われていく様だ。
足の力が抜けて上半身が半分海に潜り込んだ所で、彼の意識は、途絶えた。
夕焼け空は嫌いだ。
そう、呟いてしまいそうになる時が時々あるにも関わらず、通常は好きだと思う。
妙に矛盾していて、自分でも何故だろうと首を傾げているのだが、答えは一考にあらわれる事も無い。
さらり。
自分の髪を流した人がいる。
その手の固さ、それでいても、何処か柔らかいと感じさせる質感を持たせる人なんて、自分が知っている人物の中では一人しか居ない。
とても、とても愛しい……
「…起きたか」
優しく囁かれて、彼は口の端をほんの少し上げた。薄く開いた瞳はまだ視界をぼやかせていたが、目の前に金の糸の様な長い髪を下ろした少女がいるのは判った。目の前がはっきりしてくると、ふっと軽い息をついて、腕を組む彼女、キッドの姿が見える。
「ったく、お前は気絶ばっかだよな。それを目の当たりにする俺達の事も少しは考えてやって欲しいもんだよ。」
「ご免……」
とは言っても、意識を失ってしまう事は彼の意志では無い事はキッドも十分承知している。軽く肩をすくめて、彼女はセルジュに笑いかけた。彼もつられて笑い返し、何気無く窓を見ると空が何時の間にか赤みを増していた。外へ出た時は昼前だった筈だから、ゆうに5〜6時間は意識を飛ばしていた事になる。
そういえば、もう一人の連れの姿が見えない。
「キッド、大佐は?」
「暫く前に戻ったぜ。心配そうだったが、急な用事で戻らなきゃ行けなくなったらしい。」
「そっ、か……悪い事しちゃったな」
「気にすんな、どーせ次も誰か来るんだ、その時元気だったらあいつも安心するだろうさ。
ああ、そういや、十中八九はカーシュが来るとか言ってたぜ。」
「へぇ、カー…… …」
彼女にとってはあまり好ましく無い青年の名を、途中まで言ったがそれからが続かないのに、さり気なく彼女は彼を見た。横向きでベッドに横たわっていたセルジュの表情が、酷く真っ青になっていたのに、目を見開く。どうにも声さえも出て来そうにない様子に、恐る恐る声をかける。
「…… …どうした」
次第に、かたかたと身体が震えてくるのを、キッドは見つめているしかなかった。
カーシュと呼ぼうとして、行動が止まったのは判るが、その原因が見つからない。彼が一体何かをしただろうか?
セルジュ、と呼ぶが彼はかたかたと肩を震わせて、口元を覆うだけ。信じられない、とでも言うような表情の顔は、血の気が引いた様に更に青くなるばかり。見ていられなくて、彼女は上から被さる様に身体を近付けた。腕で身体を支えて、真上から彼を見やる、深海色の髪にそっと口付けて、小さな声も聞き逃さぬ様、距離はそのままで、掠れる程に抑えた声で、問う。
「…どうしたんだよ」
「…ぃ…」
言葉にならない声がセルジュから漏れてくる。それが次第に、一言二言となり、キッドは言葉を頭の中でつなぎ合わせて行く。
そうして、まさか、と思っていた事実に突き当たる。
「まさか、だろ。何で、そんな事なかったのに…今頃」
震えたまま首をささやかに横に振るセルジュを、痛む思いを抱えながらキッドは見つめた。
元々は、今までの状況がおかしかったのだ。それが普通になったと言えば外側では聞こえは良いが、内側では深刻な状況を示している。何故に彼だけ、という事も思わせるが、もしかしたら話して行けばそれ以外の事もそうなっているかもしれない。
自分より他人、そんなものが強く根付いている彼には、あってはならない事だった。
「…大…事な、人だった、筈…… それだけ、判る、判る、の、に…」
漸くまともに並べられた言葉が、声となって流れてくる。
悲痛の思いを絡めたその声が。
「…………… 判らない ……。 誰、なのか、わから、ない……」