声が聞こえる。
ふと目が覚めて、彼はまず空を仰いだ。遠い向うで清々しい茜色の空が広がっているのを見て、今は秋なのだなと何気無く思う。周囲には自分を囲む様に人が集っていたのだが、彼ははじめその者達は視界に入っていなかった。
ほろほろと意識がはっきりしてくると、人の気配を周りに感じ、次に自分の身体が動きづらい事に気付いた。横腹がじぐじぐと熱を発していて、身体中が鉛となってしまったように重い。何やら肌寒いと思ったら、自分が上から下まで水浸しになっていた事に気付く。力なくだれた自分の身体を抱え、切羽詰まった面持ちの青年を、少年はそろりと見た。藤色の髪が顔にかかって、少しくすぐったいと思いつつ、その紅玉の瞳の様子からして、自分はただ事ではない事を起したのだろうと判る。
「おい、小僧。 生きてんのか、おい?」
こくり、と少年は頷いた。それを見てほっとしたのか、青年は少年の身体を前へ起した。彼の腕に横たわっていた身体を砂の上に乗せて、少年はぼんやりした頭を抱えて考えこむ。その様子を、回りから見つめていた他の者達が我慢出来ず、少年に声をかけ始めた。
「セルジュ、大丈夫なのか?」
「びっくりしたよー……攻撃受けたと思ったら、足踏み外してるんだもんな」
「………」
「小僧…?どうしたんだ」
「……皆驚かないで、聞いて」
目を瞬きしつつ、その場に居た者達全員が、少年を見つめる。
「……僕、誰?」
[ 失った時のコト ]
出来事は戦闘中の事、その時居たのは緑灰髪で青藍に松葉を混ぜ合わせたかのような瞳を持つグレンと、金の糸と称しても間違いない見事な髪を団子状に結んだ髪と、冷えた空色の瞳を持つキッドだった。長い間ずっと探し続けている星の塔への道のり、その日も探していた最中だったのだが、途中叢から出て来たモンスターと鉢合わせする形になり、成行き的に戦闘へと突入した。溢れて来るモンスターの群れに始めは難無く立ち向かっていたのだ。自分達の経験も相当のものだったが、それが、一瞬の油断を作ってしまったのかもしれない。
二人の目の前で、横腹に深手を負うセルジュ。そこから飛び退いて、エレメントを発動しようとした瞬間だったのだ。
彼の足は、空を踏んだ。
戦いで忘れていたのか──其処は、崖の近くだったのだ。崖の向こう側は真っ青な弛たう海───
声も無く、セルジュは海へと落ちて行ってしまった。
目の当たりにした二人はそれから高速でモンスターを蹴散らし、急いで仲間の元へと戻り、今まで彼の捜索を続けていた。やっとの事で砂浜に打ち上げられていた彼の姿を見つけて、安否を確かめてみた所、開口一番、衝撃的な事を告げられてしまった。
とかく変に彼は記憶を失っていた。
どう失ったかというと……自分の事だけを忘れてしまったのだ。仲間の事、今まで起ってきた事は判ると言うが、それが自分の事に関与し始めると、白い靄となって消えて行ってしまう。
自分の母親を『母さん』と呼んで、とても不思議な気持だと彼は言う。
「母さんなのは判る。育ててくれた母さん、いつも見てくれた母さん。
……でも、『誰』を見ていたんだろう?と思ってしまう。
僕なんだろうけど、何だか全然……思い出せないや」
その彼の様子に仲間が頭を抱えてしまったのは言う迄も無いだろう。彼等の周囲で起っている出来事の中心に居る人物が自分の事を忘れてしまっては、事の始まりの原因が判らないのだから。今何が起っているかは判るから大丈夫だと言う少年に、仲間はとにかく駄目だと一点張りを繰り返した。記憶喪失になってまで強制的にやらせる程彼等も鬼ではない、逆にセルジュには甘い方なのだから、無理もない。記憶を思い出す事だけを考えろと告げられたセルジュは、途方に暮れてしまった。
「自分、自分、自分………」
自分って、何だろう。
部屋のベッドに転がりながら、ぼんやりと思う。両手を天井に向けて突き出して、手袋を外したその手を見る。ほんの少しかさかさになっているその指は、水仕事を少なからず毎日やっている為だろう事は判る。でも本当にそれは『自分の手』なのだろうか、そんな思いがよぎる。
セルジュは仲間達に自分の事を一通り聞いていた。強くて、優しくて、無鉄砲で、泣き虫だったりもして、いろんな自分を仲間達から聞いていた。その間ずっと自分の中の矛盾を感じずにいられず、会話のひとつに、その原因を知る。
他の仲間の誰よりも、恐らく……一番自分を知っている人物、カーシュから。
「そうだな……、お前の事……、ああ、あれかな。
これは本当はグレンから聞けばいいんだろうが、あいつ話したがらなさそうだし。
……今のお前の身体は、お前のものじゃない」
その一言だけで、そうか、とセルジュは納得する。それから続くカーシュの言葉に、自分のこの違和感はそこから来たのだのだと頷けてしまうのだ。思ってしまえば、後の仲間の言葉は全て理解出来る。
誰が何と言ったとしても…自分はこの身体が『もともとは自分のものではない』事を、忘れられないのだ…多分。自分という形を成していても、自分が『違う』と思ってしまえば、それは『自分』ではなくなってしまう程、『これ』は脆い器なのだろう。
だから今も疑問に思ってしまうのだ──この手は、自分の手なのだろうか、と。
それにしても大変な事だらけだな、とセルジュは再び思う。
自分の回りで起っているだけなのに、こんなにも沢山の人を巻添えにして、おまけにその張本人が記憶喪失、今ごろ、皆どうやったら自分の記憶が戻ってくるのか模索しているんだろうと思うと、申し訳無い気持になる。彼等を思い出せば出てくるのに、『どうやって一緒に居たのか』思い出せない自分に、ささやかに怒りを感じてしまう。
何とかして、思い出さないと──
でも、どうやって思い出せばいいのやら。それから、程なく現われた睡魔にセルジュは意識を奪われた。とろとろと目の前が蕩けて来て、瞼が重くなる。靴も脱いでないなと思いつつも、金縛りの様に身体が動かない。優しい囁きが耳元で聞こえ…セルジュはそのまま瞳を閉じた。
セルジュ
自分の名であるべき言葉が聞こえてきた。
セルジュ
何故だかとても懐かしい、暖かい様な、甘酸っぱい様な、不思議な気分になる名前。
セルジュ!
……違う、名前ではない、声だ。 誰が、呼んでいるんだ……?
「こらセルジュ、起きろってんだろッ!」
ごけっ。
傷のあった横腹に蹴りが命中してセルジュは一瞬身体中に響いた痛みに声が出なかった。腹を抱えて身体をうずくませていると流石にやりすぎたと思ったのか、蹴りの本人が慌てて蹴った所を摩る。屈み込んだときに首元を飾るペンダントが、からりと乾いた音を立てて鳴った。
「悪い悪い、つい癖で傷のある所にあたっちまったな」
「キッド……」
まあ、これで目が醒めただろ?と凍った空の様な瞳がひやりと笑い、セルジュに笑いかけた。頬や腕に描かれた白い模様が異様に目立っていた所為か、今日は何故かいつも束ねている筈の金の糸の様な長い髪を降ろしていた事に、暫くセルジュは気付かなかった。
「キッド、どうしたの、その髪」
「ああ、いや……実は、昨日な。」
「うん」
「……お前に貰った髪紐誤って焦がしちまって……」
「僕に。……あげたのは、覚えてるけど」
「やっぱ、そうだろうな。ま、いいけどよ。
──んでさ、その、替えが無かったもんだから、まだ、残りないかなって」
頬を掻き、視線を泳がせながらキッドはセルジュに訊ねた。一瞬の間を置き───キッドの台詞を理解した彼は、溢れんばかりの笑顔を浮かべて、彼女に答えた。
「……あるよ」
ベッドから起き上がってセルジュは自分の棚に手をのばした。小さい引出しの中から出てきたのは長く編まれた深紅の織布。手作りな所為か所々ほつれがあるので、それがなさそうな場所を選んで切った。端がばらけぬ様に多少手を加えてから、手渡そうとした所をキッドに声を掛けられる。
「ん?」
「あ、いやその……」
「…? つけてほしいの?」
「ばッ、おま、いや……お前、さ。 前に、これに『何か』描いてただろ」
「あれ、気付いてた?」
しまった、と苦笑しながらセルジュは織布の端を摘んでキッドに表裏を見せる。
「あれは僕流のお守りだったんだ、今は何も描いてないよ」
「いや。……描いて欲しいんだ」
──流石にその言葉を聞くだろうと思わなかったのか、セルジュはぽかりと石をぶつけられた様な顔をした。彼女はおまじないや占い…その類を信じない方だ、だから気付かれればがっつり小突かれるだろうと思っていたのだが。瞬きを数回、セルジュは口を開く。
「…訳を聞いていい?」
「べ、別に。俺はまじないとか信じねえ質だけどよ、その……まあ、お前のだったら、そう思ってもいいかなと」
「……効かなかったのに」
「いいじゃねぇかよ。気休めだよ、気休め。」
むきになる少女にくすくすと笑い、セルジュは他の引出しから今度はナイフを取り出す。
「前から気になってはいたんだが、描いてたものってお前の家の家紋か?」
「そう、キッドは前に他で見た事がある筈だよね」
「…ああ、まあ」
それが何処でか、までは口にしなかった。口にしたくなかったとも言える。
この形を見た事があるのは、風鳴きの岬にある岩…墓石を見た事があるからだろう。ANOTHERでの「セルジュ」の為につくられた墓に、その紋章があったのを覚えている。
[平気そうに、言いやがって]
初めて出会ったあの日の、村で一晩過ごした深夜にふと目が醒め、眼を開けた時に見た光景を今でも覚えている。窓辺の荷物箱に片膝を抱えて座り、俯いていた彼の様子を。
話を聞いた時には普通の様子だったのだが、やはり無理をしていたのだな、とぼんやり思ったのを記憶している。誰だって自分の墓なんてものは見たくなんてない。加え彼はあの時HOMEからANOTHERへと飛んで来た直後で、自分がどのような立場にあるのかなんて、判っていなかった。島も村もほんの差があるだけで、全く同じで見分けがつきにくかったとも聞いた。だから突然、見知るものに拒絶されたと感じてもおかしくはない。
そんな時にあの墓を見たのだ、どれほどの衝撃だったか等、言葉にはできないだろう。
思い耽る彼女に気付かず、セルジュは織布をテーブルに置いてから、ナイフで小指の先を切る。溢れた血で、にじませるように織布に押し付けた。今の状態では本当に描いているのか、よく判らない。
「証に加護を」
「何だそりゃ」
「母さんと父さんの昔の口癖」
ぴくり、とキッドの眉が動くのが見えて、セルジュは敢えて笑いかけた。何気ないように視線を反らして、目についた指に溜まる血を、じっと見入る。
そして思い浮かんだ言葉を、彼は飲み込んだ。
──これは、もう父さんと母さんの血じゃないのだろうか?──
──じゃあこれは、いったいなんなのだろうか?──
自分の血であることにはかわりはないのだけれど。
何故だか、疑問ばかりが浮かんで来る。
どうしてだろうか?
「…そろそろかな」
織布の様子を見ようと、反対の手の血を適当に拭おうとし、
かぶり。と、効果音がはっきりと聞こえた。
「………… ……………………き、キッド?」
小指を付け根までしっかりと食べられてしまい、セルジュはどう反応すれば良いのか迷った挙句何も出来ずにそれをじっと見つめた。ぎらり、と冷えた空色がこちらを睨む。
「お前は肝心な事をド忘れしている」
「…へ?」
小指がやっと解放されたと思ったら、今度は彼女の両手にがっちりと掴まれる。
「お前がどんな事考え込んでんのかなんて、俺は判らない。
だけどな、そうやって目の前でされたら苛ついて腹立つし、見えないところでされても腹が立つ。
お前の目の前にいる人間は誰だ? お前と一緒にいる天下のキッド様だろう?
悩むよりは俺に吐き出しちまえ。そうすりゃ幾らか楽になるし、俺もすっきりする。
俺だって、何か言えるかも知れないだろ。…判ったか」
離れさせない視線を受け止めて、セルジュはキッドを見つめ返した。
それはとても、とても真直ぐな──思い。
「…うん」
よし、と少しだけ満足気な面持ちを浮かべてキッドはベッドに移動してどかりと座る。指に軽い応急処置を施してから、櫛を取り出し、セルジュは膝立ちでキッドの後ろに座る。髪留めの金具を受け取って足元に置いてから、そっとセルジュはキッドの髪に櫛を通す。さらりとした感触の金の髪、糸の様に細く、柔らかくて、セルジュは彼女の髪に触れているのは好きだった。
「ん、口の中が錆くせぇや」
「ああ、もう。もしかして血飲んだの?」
ちょっとな、と彼女は自分の手についていた血も舐めて取った。苦い表情で、セルジュがそれを見る。自分の血を飲むなんてあまり嬉しい事ではないのだが、彼女に何を言っても無駄なのは判っている。それから言葉は続けず、手を動かした。
「お前、思い出せる?こうやって前にもやってくれた時の事」
「そんなの、いっぱいありすぎて」
「いや、髪紐くれた日さ」
「あげた日──?」
あげた日……はキッドと別れる前の時だった筈だ。言い知れぬ不安を感じていたあの時期、気安め程度に髪紐を作ったあの日、渡した夜は、早鐘の様に鳴る鼓動が収まらなかった日。
落ちていく … ……
どくり、と心臓が跳ねた様な驚きが身体中に響いた。次に訪れたのは言葉に出来ない感情……近く言うなら快楽と言うべきか、睡魔に負けた時のあのほんの少しの間のまどろみの様な、囁きかける様な感情。
怖い … 怖くない …… …ああ… …… 優しい……………………
「……ジュ…、おい、セルジュ?」
真っ白になっていた視界は、声が自分の中に入り込むと同時に鮮やかになった。横向きで倒れていたらしく、目の前は白い模様が描かれたキッドの細い腕しか見えない。視線を上げて行くと、真上に彼女の困惑した表情が見える。
「御免、大丈夫」
笑いかけると、幾らかほっとしたのかキッドが息を吐いた。彼女の手がセルジュの髪を掻き上げて、溢れ出ていた汗を拭う。
「驚いたぜ。手の動きが止ったなと思ったら、横倒れするんだもんな。
……何か、思い出したか」
「…判らないや」
でも。セルジュは言葉を続ける。
「僕はここにいるね──」