がくりと、足元の地が削れた。
「……!」
「キッド!」
赤いバンダナを頭に巻き付けた、深海色の髪の少年が延ばした腕を掴み身体を戻そうとするが、がくんと再度足元が揺れる。少年の足元も完全に地から離れ、二人は身体を空に浮かした。
『………!!』
そのまま二人の身体は重力に引かれ、遥か下の森へと落ちて行った……
[強き想い]
耳元で囁くは川の流れる歌声、ささやかで柔らかい歌声にふと目を覚まし……
「……っ!」
「キッド、動かないで」
身体中に痛みが響き渡り、金の糸の様な髪を頭上で束ねた少女は身体を縮めた。名を呼ばれたのに気付き目を開くと、ぱしゅん…とエレメントの発動する音が聞こえ、光が自分の中へと吸い込まれていくのが判る。同時に身体が少しだけ軽くなるのが判り、少女……キッドは顔を上げた。
「…セルジュ?」
名を呼ばれ、少年は微笑んだ。そっと出された手に抵抗もせず、キッドは延ばされた手を頬に寄せる。
「無事みたいで良かった……酷く痛む所とか無い?」
「俺よりお前の方が無事じゃないんじゃないか?」
頬を撫でる手は手袋をしていた筈だ、それなのにその手には数ヵ所も傷が作られ、血が浮き出た状態で固まっている。すぐ隣に涌き出ている水で手を洗ったのか汚れは一切ついていない。
膝枕されていた自分の身体を起こし、キッドは手を出した。
「?」
「ほら、タブレットかポーションでも何でもあるだろ。お前の傷も治さないと」
「……無いんだ」
「……は?」
顔をしかめて疑問を含んだ声を上げる。セルジュは苦笑しつつ、首を横に振った。
「持ってたもの全部使ったし、他のは落したかして……無いんだ」
「まさか……嘘だろ? じゃあ消費以外の他の治癒エレメントは…」
またもや首を横に振るセルジュ。その動作がどうもゆったりとしていて、キッドは不可解な不安に包まれていた。気付いて自分のグリッドを開いて見るが、半分以上はこぼれ落ちてしまったのかそこからエレメントの姿はなくなっていた。彼女はあまり治癒エレメントを装備しない、その性格が仇となったのか、唯一つけていたその治癒エレメントも同じくそこから消えていた。
「なんてこった……」
まだ疼く身体に頭を抱えた。よく見ると自分もセルジュも身体中が傷だらけで、服も何もかもが所々に引き千切られ、そこから見える肌が引き裂かれ血がにじみ出ている。どうしてそんな傷を負っているのか?
まて、待つんだ……
自分の身に何が起こっていたのか、そういえば思い出していない……深呼吸をひとつ、キッドは頭の中を整理してみる事にした。
自分達は溺れ谷を歩いていた、それは間違い無い…セルジュが背持たれている土肌は溺れ谷特色の色と感触を持っている。歩いていた時に自分が……そうだ、地盤がゆるんでいたのか自分の足元が崩れた。セルジュが助けようとするも、それは逆に彼を引き寄せる結果となって……落ちた?
空を見上げるが、薄暗い森の中……上が何処まであるのか等既に判らなくなっていた。しかし予想される高さから行って、本当なら無事にいられる程度のものでは無い筈。
「不思議?僕等が生きてるのって」
上を見上げていたキッドに声をかけ、セルジュは口の端を上げた。つぅ、と彼の頬に滴が伝っていくのを、キッドは何気なく見つめている。
「ちょっと荒療治だったけどトルネードを使ったんだ。
今にも気絶しそうで大変だったけど、無事だったし」
微笑んだままの彼に深い違和感を感じている……彼の言葉も何処かまとまりがなく、時々つく息にその思いが増していく。薄暗くて顔色がよく見えない所為か彼の考えが読めない……キッドは顔を近付けようと身体を前へ……その時にびくりと、苦痛の表情をセルジュは浮かべた。
…何?
痛むのだろうか?何処が?今身体を前へ出そうとした時に触れた所など無い。触れるというよりも、ぶつかった所は…………………。
…ゆっくりと、顔を下へ向け、彼の足元へと視線を移動させた。
「………お前……っ」
呆然と、するしかなかった。
先程キッドが身体を前へと出した時にぶつかった彼の左足の脛の外側には、ざっくりと切り裂かれた大きな傷跡があった。辛うじて血は止まっているが、少しでも力を入れれば乾いた傷が今にも開きそうだ。可笑しな事にその痛々しい傷は何も手当されておらず、自然に任せて傷口が乾いているだけという状態だった。目を覚ました時にセルジュは治癒のエレメントを使っていた。なら、そのエレメントで少しでも回復を…………?
「……莫っ迦野郎……っ」
「……」
「……莫迦野郎っ!俺の傷治す前に自分の傷治せよ!
何だよっこの傷……っ ………っ!」
見ているだけでも億劫になりそうな傷口を隠そうと彼女は着ていた上着を脱ぎかけるが、その行動をセルジュが止めた。
「何だよ!」
「もうすぐ完全に陽が暮れる……寒くなるよ、脱いだら寒さに耐えられなくなる」
「んな事言ってる場合か!? てめぇの身体の事判ってるのか?こんな傷だらけで、治しもしないでそのままにしやがって、……俺なんかに……っ」
自分の身体は今も傷の痛みに泣き叫んでいるのは事実…だが彼の身体の方がその叫びは大きく、悲痛なものだろう。なのにセルジュはキッドの傷を治し、その場で微笑んでいる…自分はそのままで。
「…キッドも、危ない状況だったんだよ。だから使ったんだ」
虚言なのか、其れとも彼自身は本当にそう思っていたのか。キッドの事ならば自分の身等惜しまないと、話は耳にしているし理解もしていた。キッドは歯を食いしばり拳を握り締め、俯く…まさかここまでだとは……予想もしなかったのだ。
ふらりとキッドは俯いたまま立ち上がり、くるりとセルジュに背を向けた。
「キッド?」
「……そこら辺、回って来る。心配すんなよ、俺は夜目は良いんだ……帰って来るから」
有無を出させる前に彼女は走り出し林の中へと姿が消えていく、その後ろ姿に辛うじて手を延ばすも、既に遠くなってしまったその腕を掴む事は出来なかった。代わりに来たのは身体中の叫び声、眉に皺を寄せてセルジュは自分の身体を抱き締め、背を丸めた。
本来なら常に泣き言を吐きたくなる程の激痛が身体中を駆け巡っていた、だがその痛みよりも彼は彼女の傷の方が一刻も争う傷に見えた…だから全て使ったのだ。森の中を走れる程の体力が回復したのだ、後は寒さだけを乗り越えればきっと仲間が異変に気付いて捜してくれる筈……そう思いが浮かび、ふ…と苦い笑みが口元に象られる。
「僕の我侭で龍の子置いて来たんだもんな……その報いかな」
ずきりと痛むその身体に言葉を詰まらせて、低く呻く。傷場所を手で覆い抑えて少しでもその叫び声が収まるのをセルジュは待ち続けていた。頬から流れ落ちる脂汗が顎に伝い、ぱたりと腕に落ちた………
ばさばさと草が重なり踏まれ、倒れていく音が煩かった。時々引っ掛ける葉の先が刃となりて草原の中に割り込み進むキッドの身体を些細ながらも傷つけていく。そんな事も気に止める余裕が無い程、彼女は何かに没頭していた。草を掻き分け闇雲に歩き続けている訳では無い、何処か上へ行ける様な道がないかと辺りを散策し、その他に彼女は何かの『反応』を待ち続けている……つまり、エレメントの反応を。
エレメントは元々地中深くに眠っているのだが、ある日気紛れに地へと顔を出す事もある。その時に人の持つグリッドとエレメントが反応し、人間にエレメントの存在を教えてくれる事が稀にあるのだ。全てがそうという訳ではないが今はその反応が唯一の頼りだった。
辺りはもう漆黒の色に塗変えられて道の区別も付かない、小さな光も見えず人気も無い、焦りばかりが彼女の中に膨らんでいく。
自分が彼の下を離れてどれくらいになるのかも判らない、自分が何処を歩いているのかも判らなかった。只管にエレメントを捜し求め歩んでいるというのに都合の良い様に見つかってはくれなかった。迷う事無く前へ前へと突き進み、
ざぁ…っ
突如突風が現われ、キッドは顔を腕で庇いその風が過ぎ通るまで身体を屈めた。何処から来たのか突風は辺りの木々や草花を大きくなびかせて生きているかの様に彼女に襲って来る。
「……!」
ぱしりぱしりと木の枝や枯れ葉が腕にかかる。まるで、それ以上進むなと警告するかの様に。
突風はまた突如勢いを無くし…通りすぎて行ったのか辺りは再び静寂が訪れた。顔を隠したままの姿から、腕や足が動かない。
「……う……」
それは、とても。
「……しょう…っ」
自分に向けられた言葉の様に。
「………畜生ぉぉぉぉーっ!」
ばしゅぅんっ
グリッドが現われ、赤い光が弾け光と共に流れて行く。キッドの目の前に現われた炎の塊は頭上高く舞い上がり、ぱぅ…と遠い音と立てて四散する…その時だけ光が広がり……消えていく。その下にはキッドが座り込んだ状態で俯いているのが見えていた。
「…俺は何も……っ何もしてねぇよ……っ」
只彼が自分の事を護っている、身が引き裂かれようとも護っている、自分の身勝手から始まった筈なのに記憶が途切れるその少し前からの彼のあの笑顔が脳裏に焼き付いている、あの唇から発せられた言葉が忘れられない。しかしそれはどれも、一方的なもの。
…自分だって、護ってやりたいのに。彼の数奇な運命の悪戯から重く乗せられた枷を少しでも軽くしてやりたいのに、自分は何も出来ずに…… ……してやりたいのに……
ひゅぃぃ……
「……!」
聞き覚えのある音に彼女は顔を上げた。目元の滴を拭き取り膝を地から離して立ち上がり、その音が何処からするのか目を閉じて神経を全体へと張り渡らせる。一歩ずつ、ゆっくりと踏み出し、行き着いたその場所は黄に光る、エレメント。
「……カプセル……」
漸く見つけたエレメントを手に取り、く、と握り締める…目の奥が熱くなるのを感じながらそれを振り切る様に首を振り、グリッドにエレメントをつけて落さぬ様しっかりと終い込む。
次に、ゆっくりとキッドは空色の瞳を前へ向けた。
広がるは深樹海の闇……これ以上歩き続けるのは無謀だ……どうにかして彼の下へとたどり着かなければいけない。自分がこうしている事でセルジュの負担にもなりかねないという事に気付き、キッドは戻らなければという意志を持った。だが、道は無い……どうやってこの闇の海から抜け出そうか。
……?
ふと、耳に聞こえた遠音。聞き覚えのある糸の様な微かな音にキッドは全神経を向けた。音を立てぬ様慎重に土を踏みしめ、音を逃がさない。見えにくい視界の中手探りで木の幹を捜し、ぶつかるのは避けつつ不安定な足元の確保を取り、意識は常に近付きつつある音に。その音と共に奏で始めるものがあった……川の流れの音だ。奥に川の輝きが飛び込み、キッドはそれに沿って音の方へと進んでいく。規模から言って恐らく前にも見た事のある川だろう……ならば、ここから北上すれば……
視界が、開けた。
聞こえるのは呟く小さき歌声、見えるのは紅のエレメントから発動された火、それが消える迄見えていたあまりにも無残な傷跡を身体に残す……彼の姿。
「お帰り」
火の光から暗闇に変ったその瞬間の差の為に目が慣れず、セルジュの姿はよく見えなかった。だが…笑っているのだけは想像がついた。痛みの辛さを隠したその笑顔は、リアルに思い浮かべる事が出来てキッドはどうしようもない哀しみを自分の中で感じた。口からこぼれる言葉は、無意識に泣き声となっていく……
「……何でだよ……」
「…え」
「俺は…何も出来ない……」
何時も自分の為に生きてきていた、自分さえ生き残ればどうでも良かった、だから…人の為にどうすれば良いのか、何をすればいいのか等判らなかった。判らないけれど何かしてやりたかったのに何も出来ない、悔しさが溢れて来る。自分の為に何かをしてくれている彼が必要で大事で離れたくないから何かしてやりたいのに、この手では…何も。
「キッド」
名を呼ばれ、彼女は知らぬ内に俯いていた顔を上げた。暗闇に慣れてきた瞳が、セルジュが両手を差し伸べている事をぼやけて伝える。
「…おいで」
低い声が静寂の空間に広がり、余韻をふわりと残していく。
とぼとぼしい歩調で歩み寄り彼の横で膝を付いたキッドは、柔らかい微笑みを称えたままの彼の瞳を見つめた。延ばされていた手の間に身体を入れ込み、抱き締められ引き寄せられるままにその身を預ける。
強く、身体を抱きとめられた。
宥められる様に背を軽く摩られ、片方で髪を束ねている赤い髪紐がひとつひとつ解かれていく。その手が涙で濡れた頬に移り、涙を拭う様に撫でる指に彼女はすりよった。軽く顎を持たれて自分と彼の視線がぶつかり、淡く微笑む彼にキッドは目を細め……そして瞳を閉じた。
誰も居ない、二人だけの空間……二人のみの時間が、緩やかに…しかし風の様に過ぎて行った。