この島の空は四季が変わっても其れほど変化は無いのだが、何となく思える程度に、今が春だという事を告げてくれる。それは今も広がる青空と、島中に吹く風がほのかに命の息吹を教えてくれるような気がするからだ。あれから何度この季節を過ぎただろうか。これから先も続くこの日常は平和で、暇で、暖かくて、……とても優しい。
セルジュがクロノクロスを放った「日」から数年の月日が流れる様に過ぎていた。その間の年月はセルジュを『平穏』という日常にずっと浸らせてはくれなかった様だが、それはそれで彼なりに、楽しいから良いのだと話してくれる。……今は本当に幸せそうなのだが。
幾度と知れず訪れたこの岬を、カーシュはキッドと共に足を運んでいた。諸事情でずっと遠出出来なかったキッドにとって、ここに来る事は気晴しにもなる様だ。崖の先まで歩いて行きくっと背伸びするキッドを見つつ、その前に今も残る石をちらりと見た。
「随分と……長かった様で、短かったよな」
まぁな、とキッドが相槌を打つ。
「俺等記憶がある分、1年そこら余分に生きてるもんな」
「あん時は走り回ったよなぁ。
もう、身体中ガタが来て駄目だな、俺もそろそろ引退時か」
腕を組み、ため息をつくカーシュに寄り、キッドは肘で彼をつついた。
「何を言う、四天王リーダー。
まだまだお前が働かないと、補佐兼次期リーダー候補のグレンが泣くぜ?」
まさか、キッドの額をこつりと叩き、ふと現われた風に髪を流されつつ肩をすくめた。今もまだ幼い頃の面影はあるものの、面持ちは一人前らしくなり、剣の腕や礼儀、全ての事で兄に負けず劣らずこなせる様になった彼を思い浮かべる。時々もう交代しないかと冗談半分で声をかけるが、彼は首を横に振ってそれを受け取らない。自分は表立って出て来るべき者じゃないと言うのだ。
今は確か、セルジュと共に村に居る筈だった。
「あいつはもう俺がいなくたってやっていけるさ。
ダリオだってあいつの強さその他諸々認めたからな」
「へ〜、とうとうあの大佐様が」
何かに反応したのか、声色を変えてキッドは答える。
「……嫌味入ってるだろ」
「ふふん」
腕を組み、胸を反らして鼻で笑う。……彼女は蛇骨館に潜り込んだあの日、こっぴどくダリオに追い掛けまわされた。死ぬ様な思いをして彼をまいたのだと、後に彼女の口から出て来て、キッドにここまで言わすとは…グレンと二人でやはりこの男は最強だと、再確認しあった。
「盗賊としてのプライドがずたずただ」とか言いながら、ダリオを苦笑いさせていたのを思い出す。今だに根に持っている様だ……
初めて逢った時から差ほど変わらないキッドの様子に安堵の息をついてしまうとは……年なのだろうかと心の隅でカーシュは思う。
「相変わらずだよな」
「まあね。時々口調がこうなる以外は、普通になってるよ」
「俺の前になると戻るもんな、お前。
しかし、普通の生活に慣れるのかと怪しんでいたが、まさか溶け込めるとは」
「なんだよそれ。俺に普通の生活が似合わねぇってのか?」
彼女よりも遥かに背が高いカーシュを睨む為に、キッドはくっと顔を上げた。凍った空の様な色のつり目を真っ向から受け止めつつ、カーシュはさらりと言ってのける。
「似合わないというよりも、考えられん」
……すぅ、とキッドの様子が変わった。目の色も雰囲気程度に青く変わり、微笑み方も柔らかい様な、刺々しいものに変わる。
「……………言ったわね」
「其処で口調を治すな、怖いぞ」
「最近、憤りを感じると口調がこうなるの……ふふ」
組んでいた腕を腰に当てて、下から睨み上げて近寄ってくるキッドに底知れないものを感じて、カーシュは寄ってくる歩数と同じく後退りした。
「待て、俺が悪かった。
だからその後ろに隠しているものは取り出すなよ」
にぃーっこり笑って、
「…ちぇ、判ってたか」
腰からするりと取り出したのは、キッド愛用のナイフ達。元の居場所に収められて、ほっとカーシュは息をついた。昔も今も、ナイフを連射するキッドの得意技はたまったものではない。
「……」
「でもま、俺も正直馴染めるとは思って無かったよ。
今もまだ時々外に出るけど、気分転換って感じだし。
こんなにもっと此処に居たいと思うとは思わなかったし。
それに、ずっと普通じゃない生活してたからな」
「憧れってのも、あったのかもな」
「さてねー……」
……あいつが居るから、というのもあったが。
キッドには、そういう自分の身の危険が迫る様な事は連続して口にしない事にしようと密かながらに、セルジュの元へよく遊びに行く者達の鉄則があった。
彼女がセルジュの元に落ち着いてからというもの、突っ込みたいというか、からかいたくなる様な場面が誘う様に現れた。普段人をからかうのが好きではないという人物でさえついやってしまう程、甘い果実の様なものなのだ。だからといってそれをつつき過ぎると、キッドが逆上する…大変な事が起きたのもしばしばだ。
それを宥めるのがセルジュの役目。その後に苦笑いをしながら、「あまり苛めないでね」と、一応しっかりと釘を刺される。最後にいつも、一言だけ呟く。
『…悪い傾向じゃないとは思うのだけど』
「……怖いな」
キッドが囁く様に、空を見て言った。
「自分がか」
「判らねぇ。でも──なんかさ、思うんだ。
あー……今幸せだって。前だったら恥ずかしくって莫迦らしいと思ったけど。
今、本当に思える、それが妙に嬉しくて……怖い」
日常幸せな事や楽しい事ばかりではないけれど、大変な事も怒る事も泣く事もあるけれど。でも今まで独りで歩んできたあの時よりは、誰かが傍に居る今の方が、ずっとずっと……安心できる。
だから──怖い。こうやって浸っていられる自分が。
何時の間にか打って変わってしまった事に。
「セルジュが居るお陰かね」
「………」
悪戯心がつい口に出て、キッドに蹴りを入れられてしまった。
軽くそれを笑い飛ばして、カーシュは元来た道を振り返って下ろうとした丁度その時、遠くから疾走してくる一人の青年を見つける。赤いバンダナを相変わらず頭に巻いて、覆いきれなかった深海色の髪は少し伸びていて、それでも変わらない、夏空色の瞳。
「おっと、来たな、お前のダンナが」
「何か、嬉しい事があったみたいね」
最近はいつもあの調子だが、今日は特別に何か良い事があったらしい雰囲気を持ったまま走りよってくる。その彼を見て顔を見合わせて、二人は笑い合った。
そして、セルジュの元へと歩き出す。
「キッド、カーシュ!
立った、立ったんだよ、今グレンとレナと一緒に見てたんだけど──
早く、行こう!」
広く、果てしなく、壮大なこの空。
天井越しの空を見てあの時、『忘れたくない』と強く思った。
暖かい、なんて暖かい、この光を────
2001,1,18