テルミナよりも北部の浜にボートを止め、彼等は漸く蛇骨館へと脚を運んでいた。人気の全く無い古い館を横目にカーシュはセルジュを連れて竜小屋へと行き、小屋の管理をしている老人に一言声をかけ、一番古株だと思われる巨大な竜を一匹連れ出した。
「乗れ」
「へ? …………えぇぇっ!?乗れって、この竜、に?」
「当り前だろうが。ごちゃごちゃ言わず乗れ!」
自分は慣れた仕草で乗り、怖る怖る差し出されたセルジュの手を引き上げてセルジュの身体は宙に浮いた。慌てて竜の背にしがみつくのは良いが、パニックになっていて反対向きに乗っていたのに気付いたのは、カーシュが手綱を引っ張り竜を走らせた直後だった。
「ま、待ってカーシュっわっ!」
「喋るな!慣れないと舌を噛むぞ!」
「そんな事言ったって……!」
妙にがたがたと揺れる竜の走りに身体が飛ばされそうになり、セルジュは必死にしがみついていた。手綱で竜を操りつつ後ろに手を延ばし、カーシュはセルジュを掴み自分の背に押し付けた。
「あぁ!? お前何で反対向きに乗ってんだ?」
「知らないよ!」
「ったく……そのままで良いから俺の腹でも服でも掴んでろ」
言われた通りにセルジュは腕を後ろに回し、カーシュの服を掴んで自分の身体を支えた。多少強引な姿勢の為にまだ不安定で、必死に足場を作って安定を計ろうとする。
「無理に身体をつけようとするな、逆に動きに合わせるんだ。」
「どうやって?」
「身体を自分で揺らすんだよ。無理にやるな、力むのも駄目だ、自然にで良いんだ」
眉を潜めながらも、理解出来た限りの事をセルジュは実行した。肩の力を落して動きに合わせる……妙な動きに慣れないが……自然と、自分の足場が出来た事に気付いた。
カーシュも考慮してか走る速度を落していく、強い足踏みから軽い足踏みに変った時にはセルジュも竜の上で無事に乗れる様になっていた。竜の単調な足取りが続き、広がる草原を駆けていく。
無意識に、セルジュは空を見上げた。
空に浮かぶ銀と紅の月が薄く姿を現わしている、エルニドの秋の深い青の空が一面に広がっていて、思わずセルジュは感嘆の声を上げた。この出来事が起こってからというもの、忙しく進んでいた為にろくに空等見ていなかった。
[……キッドはいつも空をみていたな……]
金のなびき、赤い閃光の少女を思い出して軽く息をつく。彼女の姿を見なくなってから大分経つ、無事だという事は確認しているが、何処に健在なのかは、今だに謎のまま……
最後に見たのは、燃えたぎる憎悪で濁った空色の瞳の彼女の姿。
[……いけない、また暗くなってる]
ぷるぷると首を振り、彼はカーシュの背に身を預けた。昨日の泣き過ぎに涙腺が弱くなったのか簡単に涙がにじみ、瞳を閉じて目元を擦る。
「…悪かったと思ってる」
突然に切り出された会話に言葉を返せず、セルジュは黙した。
「あの時妙にいらついてた、つい八つ当たりしちまった……悪い」
「…カーシュが謝る事じゃないよ。 僕だって悪かったんだから…」
遠い空を見つめながらセルジュは答えた。
あの後よくよく考えてみると確かに頼らない部分もあった、自分の事は自分でやらなければという思いが強く、それを今までしていたから違和感等何も無かった。昨夜…グレンと話す内に、小さな違いを見つけたのだ。
「……母子家庭だったんだよな」
「? そうだけど…?」
「……あー!ったく、悪かったよ、俺は無神経だよ!」
「な、何怒ってるんだよ……」
竜を止め、カーシュはある方向へと振り向かせた。セルジュに見ろと一言告げて、視線だけを彼に向ける。
「…………凄い………」
見渡すは、誰かの手によって計算づくされたかの様な見事な絶景……。
「俺とダリオがまだ見習いだった時に見つけた場所だ。いろいろ俺も悩む時がある、そんな時に来るんだ……この景色見てると気分がすかっとして、今まで考えて悩んでいた事なんか小せぇと思っちまうんだ」
「うん…そうだね、すごい…圧倒される様な…」
広がる青と緑の景色は反発する事なく落ち着き、吹き抜けていく風は木々の木の葉を揺らして、しゃらしゃらとした、心を和ませてくれる優しい音を奏でる。
草原からは緑の細波が流れているのだろうかと思わせる草花の流れる音と共に、陽を反射してちかちかと視界を眩しくさせる光が、何処となく心地よい。
空に浮かぶ白い雲も加え、その場だけの孤立した…幻想的な風景をつくり出しているのにセルジュは目を細めた。この島に産まれて十何年と経ったが、今になってもこの島を知り尽くす事は出来ていない。現にこんなに心を安らかにしてくれる場所があるなんて思いもしなかった。この常夏の島にしては涼しい風が通り過ぎ、思わず寝転んで眠りたくなる様な暖かさを持つ空間……
「…元気は出た様だな」
独り言の様に呟かれた言葉に、遠くへと飛んでいた意識を戻してセルジュは彼を見た。
……自分の為にわざわざ此処に?
「カー…」
声をかけつつ身体を前に向けようとして、…セルジュは足を竜の背に思いきり引っかけた。驚いた竜は途端暴れ出し始め、支えも何もしていなかった少年の身体は背から吹き飛ばされて、地へと落された。
どさり、と草が重なる音がする。
「小僧!」
暴れる竜をセルジュから遠ざけ、抑えながらカーシュは声を荒げた。長く延びた草の中から彼の動く気配が無い……頭でも打ったのかもしれないという不安が彼に襲いかかる。何とか静めさせて竜から飛び降り、カーシュはセルジュの元へと駆け寄った。
「小僧、おい大丈夫か!」
「……大丈夫、何とか間に合った……」
間に合ったというのは受け身の態勢を取れた、という意味のようだ。その言葉を理解し、安堵のため息を付きつつカーシュは膝をついた。
「何で起きねぇんだよ。気絶してるかと思ったぞ」
「うん、わざと起きなかった」
「…あぁ!?」
上半身を起きあがらせ、にこりと微笑む。…次に、セルジュはカーシュに抱きついていた。
その行動に、カーシュは一瞬凍り付く。
「………おい、何やってるんだ」
「甘え」
「は」
「……嬉しかっただけだよ」
くすくすと笑い、セルジュはカーシュから離れて頭だけを彼の胸元へこつりとつけた。
「僕、母さんしか居なかったから……そうやって叱ってくれるのも心配してくれるのもされた事なかったから、嬉しかっただけなんだ。
……有難う、カーシュ」
「小僧…」
俯かせたままの彼の頭を、彼は片腕に包み込んだ。微かに聞こえる笑い声が涙声を混ぜている事に気付いているからの行為。駄目だね、とセルジュは囁いた。
「僕ってまだ子供だ……ごめん」
「まだ子供で充分だ。お前にはまだまだ叩き込まねぇと直らない性格が残ってるからな」
くっくっと堪える笑いと、ぱたぱたと草に落ちていく滴の音を聞き、カーシュはセルジュの髪をバンダナごとくしゃりと撫でた。
「…有難う…」
呟く少年を抱き締めつつ、カーシュは視線を遠くへと飛ばした。
……今抱きかかえている自分の腕の温もりを、どう感じているのかが予想できるが故に……
[沢山出来たのね、良かったわ。
きっとあの子にとって大切な経験をさせてくれるわね]
前に出会ったときの、セルジュの母親の微笑みと言葉が思い出される。セルジュと同じく強く暖かく、落ち着いた雰囲気で周囲の視線を引き寄せる存在。その女性が少しだけ寂しそうに呟いていたあの言葉は、その時には不思議な言葉としか受け取れなかったが……
[…俺はまだ結婚も何もしてねぇぞ? ……ま、いいか……]
結局は気にならない訳でも無い、そんな存在になったとしても、悪い気はしない。
なら、なってやろうじゃないか?
「…そんなに嬉しいのならこれからも容赦無く怒るぞ? 覚悟しておけよ」
涙を拭い、セルジュは顔を上げて清々しい程の笑顔で答えた。
「…勿論!」