がた…ん
吹き飛ばされた方向に椅子があった所為で大きな音を立てて倒れ込んでいた。椅子を巻添えにし背に打ちつけてそのまま床へ転がる。頬を殴られたショックと床に落ちた時の衝撃で頭が真っ白になり、手をついて起き上がる頃には背と頬の痛みがじわりと自分の身体を襲ってきていた。どっと来る、心労感。
「……ふざけるんじゃねぇぞ」
怒りを隠さずにその血の様な真っ赤に光る瞳は、突き刺さる様にセルジュへと向けられていた……
[痛みの音]
事のはじまりは『セルジュが倒れた』と騒いだ後の事だった。
無理をしすぎて突然に倒れる事が少なくない彼は、今度も同じく突然に倒れて今の今まで天下無敵号で休養をとらせていたのだ。熱が下がり意識が戻るや否や彼は起き上がり、既に外へ行く準備もしているという始末。仕方無く、大佐を筆頭に船に中心となる仲間が集い軽い会議を始めたのがつい先程。その話し合いも終り早速自分に課せられた役目を遂行せんと動き始めようとした時だ。
カーシュは、仲間の目の前でセルジュを殴り飛ばしていた。
「…カーシュ兄!?」
突然の出来事に些かたじろぎつつ、グレンが二人の間に入った。当の二人と言えば互いを見やるのみで、回りの気配には気付いていない様だった。
「小僧、いい加減にしておけ」
「……」
声を聞いているのかいないのか、セルジュの表情の変化は無い。殴られた頬を手で覆い、何も考えずに彼の方を見ているだけの様に見える。
「てめぇのお陰でどれだけ脚が止まると思ってるんだ?
そうやっててめぇだけの都合で振り回される俺達の事も考えとけよ」
「カーシュ兄、何を言ってるんだよ」
グレンが止める間も無く、カーシュは深海色の髪をわしづかみセルジュを立ち上がらせた。痛みに小さく悲鳴を上げるのを聞き、慌ててグレンが止めようと手を出すがそれはカーシュのもう片方の手によって払い除けられる。
「一体何度目だ?俺が見ているだけで何度目だ?
そうやって一人ばたばたと倒れて日が経っていくだけだぞ。お前はそれで良いのか?」
「いつ…っ カーシュ、痛…」
更に髪を引っ張られセルジュの表情が歪む。
「自分自身の管理も出来なくて何やってんだよ、そうやって独りで何やってんだよ!」
「べ、別に僕は……」
ぱしんっ!
髪を急に離されたと思った途端、反対側の頬に平手が打たれた。高い音を立てて頬を鳴らし、周囲は一気に静まった。
その静けさの中、低くカーシュの声が響く。
「……てめぇは自分の仲間さえも頼らねぇんだな。 ……信用してねぇって事だ……」
「………そんな、訳じゃ………」
その言い訳も空しく、カーシュは大佐に礼をして一人部屋を後にした。ばたむ、と扉の閉まる音を聞き、息のつまる様な沈黙が落ちる。
誰もかれもが気まずそうに声を出せずにその場に立ち尽くすのみ……。
「…セルジュ、大丈夫か?」
扉を見つつ、振り向いて声をかけたのはグレン。口の中が切れていたのか、唇に血を流しているのさえ判らないまま俯いていたセルジュは顔を上げ、微笑する。ふ…、と誰かのため息が聞こえた。
「なんだい……ご機嫌斜めだったな、あいつ」
次に口を開いたのはファルガ。取り出した煙草に火をつけ、扉とセルジュの間を視線が行き来している。
「いろいろと忙しかったからな、気苦労が絶えなかったのだろう……疲れが溜まっているのが一番の原因だろうな。
我らもそうだ、無理かもしれぬが、今日はもう休む事にしよう。
セルジュ、構わぬか?」
大佐の言葉に小さく頷いて、ごめんとつぶやいた。仲間達は肩をすくめつつ、皆が首を横に振り部屋を退室していく。ファルガが去り際にとんとセルジュの肩を叩く。
「ファルガ」
「あまり気にするな、出来ないかもしれないが今日はもう休んでおけ…。 変に思い詰めるなよ」
有難うと告げると、苦笑を浮かべつつファルガはセルジュの頭をくしゃりとかき回し、口元の血を親指で拭ってから自分もまた部屋を出て行った。触れられた口元に手をやると、微かに残っていた血が指についているのが見えて、自分が口を切っていた事にセルジュは漸く気付いた。斧を片手で持ち上げる程の腕力を身に付けている彼の拳を受けた割には軽い傷だが……、ふ、と視線が俯き気味になるのを見、グレンは静かに口を開いた。
「セルジュ……」
「ごめん、ひとりにさせてほしいんだ……」
最後まで残っていたが観念して様子を見つつ、言われた通りに部屋を退室した。ゆっくりと閉められた後のその部屋には、ため息をつき一人俯く少年の姿だけがあった。
ばたんっ!
突然開けられた扉に飛び起きてセルジュはその方を見た。そこには数枚のタオルを持ったグレンが居、扉を閉めた後にこちらに近寄ってきたのでセルジュは慌てて顔を拭った。
「無理して拭くなよ、頬痛いんだろ?」
座っていたセルジュの横に椅子を近付けて座り、片手に持つ小さいボウルに入れていた氷をタオルにはさんでセルジュの頬にぴたりとつけた。濡れていたのか、そのタオルは微かにひやりとしていて少々痛みが走る。
「…グレン…」
「あーあ……カーシュ兄も思いっきりやってるなあ……暫くおさまらないぞ」
苦笑しながらタオルをそっと離し、様子を見る。
「有難う、大丈夫だから」
「……大丈夫な訳無いだろう?」
ぴん、と額を指で突つかれる。まだ赤く腫れて潤む目を丸くし口を開きかけて……ん、と口ごもり……セルジュは大人しくタオルに頬を寄せた。
「ねぇ、グレン」
「何だ?」
「僕、信用してないのかな……」
彼にしてみればそんなつもり等無かった、逆に頼り過ぎていると思ってもいるのだ。訳も判らないまま進んでいた自分の背をいつも仲間は後押ししてくれていた。だから、進まねばと思っていたのだが……。
「…俺はカーシュ兄がそれを言いたかった訳じゃないと思うけどね」
答えとも言えない発言にセルジュは視線を向けて問いかける。頬に寄せたタオルの間に挟めている氷が溶け出したのか、次第にタオルが冷たく、気持ち良くなってきているのに目を細めた。
「俺の知っている限りは……きっとそうやってセルジュが一人で倒れる事に、その事で自分に対して苛立ちが隠せないんだと思う。」
「カーシュが、自分自身に?」
そう、と相槌を打ちグレンはタオルをセルジュの頬から離し、タオルに含まれた水滴をボウルの中で絞る。新たに氷を挟み、今度は反対側の頬へつけた。
「カーシュ兄、あれでも気に入った人……年下だと特に過保護になる所があるんだよ。
妙に熱血漢ある所為かな、だから……そうやってセルジュが一人で走ってく所が悔しいんだろう。
『何もやってやれてない』とか思ってるんじゃないかな」
「そんな! ……だって、今まで敵だった筈なのに、今は仲間で、いろいろ助けられてるのに……大佐も、マルチェラもゾアも、街の事が心配な筈なのに僕を手伝ってくれて……」
時々テルミナへ寄ると、その惨状に彼等は顔を歪める……本当なら今頃は街を取り戻そうと決起している筈ではないのか、自分がその足止めをしているのではないか、……最近はそんな暗面の思考がよくよぎる。
「ほっとけないんだよ、皆」
「…何を?」
「お前を」
「…僕?」
「そ!」
氷が溶けたタオルを開き、顔一杯に被せてグレンはセルジュの顔を撫で回した。よし、と一人納得して離したそこには驚きと恥ずかしさが混じった彼の表情が見えて、グレンは微笑んだ。
「正直、一人先頭突っ走ってるのが危なっかしくてついてきているのもあると思うぜ?
少しは頼れ……って言ったって、お前自身判ってないから言っても意味ないよなあ」
笑いつつ絞ったタオルを畳んでいたが、とん…とセルジュの頭がグレンの肩に乗せられて彼は不思議そうにセルジュの方を向いた。
下を向いている為に表情等は見えない、判ったのは、はぁ…と溜まった様な息を吐く行為。
「…いいのかな」
「何が?」
「……頼っても。」
「………、構わないさ」
腕をセルジュの背に回してあやす様に同じテンポで背を叩く。もう片方の腕は首に回し、だるい様にのしかかる頭を撫でてやる。
「…ごめん…甘えて…」
「謝るな。 ……良いんだよ。甘えたって、これからだってそうだ。
こんな時は甘えたって良いんだよ……」
肩を縮め、震え出す彼の身体をグレンは少しだけ強く抱き締めてやった。時々かい間見るこの少年の弱い所に、いつも思い出す事がある。
……この少年は、自分よりも年下なのだという事を。
早朝、一人扉の前に立つ者が一人居た。腕を組み仁王立ちで赤い瞳は扉を睨み続けている。表情は苦みを持った真剣さを秘めており、眉にしわをよせつつ何かを考えている様だ。はあ、と息を吐き、ノブに手を近付け……
「…カーシュ兄何やってんの?」
この時ばかりは彼も驚きを隠せず一歩後ろへと下がり声が聞こえた方を振り向いた。そこでは呆れた表情で、扉とにらめっこを続けていたカーシュを見るグレンの姿があった。
「グレンか…」
「セルジュならその部屋には居ないよ」
「…何?」
「俺ん所でまだ寝てる。昨日セルジュ大変だったんだからな!
カーシュ兄に何があったかは知らないけど」
わざと怒った様に見せ、グレンはカーシュの反応をみながら言うと……困った表情でカーシュは視線を上へとそらした。
「……やっぱ、落ち込んでるか?」
「…………へ?」
頭をがしがしとかき回しながら舌打ちをするカーシュに、とぼけた様な声でグレンは返してしまう。
「……悪かったと思ってるんだよ! 妙に昨日はいらいらしていたからな、…八つ当たりしちまった。
ザマぁねえよ、全く……」
自分に対して本気で情けなく思っているらしい…軽くため息をついて彼は頭を抱えた。
「…カーシュ兄」
「あんだよ」
「……いや、何でもないや。こういう事は本人から聞いた方が良いし」
「あぁ?」
頑張って、と一言告げるのみでグレンはその場からのろのろと立ち去っていく。残されたカーシュは彼が何を言いたかったのか、今だに判らない様子だった。呆然とその場に立ち尽くし、言い切れぬ不快感が心の中に充満する。
そんな風に途中で言うのをやめられてしまっては、気持ちが悪い。
「………」
仕方が無い、と首を振りカーシュはグレンの泊まっていた部屋へと歩き始めた。
幾つかの扉を過ぎて、右の寝室部屋へと続く廊下を歩き続ける……途中窓から朝日が入り込み、薄暗い廊下を淡く、強く照らしていく。騎士独特のきびきびとした歩みを止めずにカーシュは窓の向こう側を見る。外は爽やかな朝の風が吹いているだろうが、自分の心は爽やか所か荒れる黒き雲に包まれた気分だ。何故こんな気分に陥っているのか、原因は何なのかが判っているからこそにもっと気分が落ち込んで行く。
[……何やってんだかな、俺は]
ぴたり、とその歩みが止まり、カーシュは目の前を見張った。長い廊下の向こう側には見慣れた深海色の髪の少年が一人、俯き加減にこちらへ来るのを見つけた。慣れていない所為か、彼に声をかける為だけに手に汗がにじみ、力が入る。
……だが相手側はこちらの存在に気付いていない様だ。寝ぼけているのか顔を片手で覆ったままふらふらとした歩みで進み、徐々に距離が縮まっていく。
「……」
どう声をかけていいのか判らず、1mも無くなり……
どふっ
「………あれ…カーシュ?」
「…………」
そのまま、セルジュはカーシュとぶつかった。もろに顔が彼の胸板に直撃したのか顔を抑えつつ上へ視線を上げ……腫れぼったく赤くなった目が少しずつ見開かれるのをカーシュは何も言わず見ていた。
「…あ…その……ごめんっ」
くるりと反対方向へ振り向き逃げる様に立ち去ろうとし、ぐん、と腕が何かに引っ張られてセルジュは反動で後ろに倒れそうになるのを辛うじて止め、自分の腕を見た。
「…カーシュ?」
「……ちょっと来い」
「え、来いって、何処……カーシュ?」
カーシュが掴んだ腕を引っ張られてセルジュは強制的に彼の後を付いて行く事になった。
「ね、何処に行くの?カーシュ!」
「良いから付いて来いっ!」
もつれつつ彼の後を追掛け、辿り着いた所はコルチャのバンカーボートをつなげている場所。放り投げる様にセルジュを船に乗せて自分も乗る。縄を取り外しオールで船とボートを離し、無闇に漕ぎ始めた。しかし彼はボートの操作術を持っている訳では無いのでなかなか前へとボートは進まない。
軽いため息をついて、セルジュは手を出した。
「何だ」
「僕がやる。このままだと何処に行ってるのか判らなくなるから……だから何処に行くか教えて。」
余計なお世話だ、とも言いたいが……このエルニド諸島の中だけでも海は広い、迷ってしまっては時間の無駄。つくづく自分の情けなさにため息をつき、カーシュはオールをセルジュに渡しその場に座り込んだ。代わりにセルジュが立ち上がり、帆を広げ縄で操作しつつオールで補正し軌道を確保する。
「何処に行くの?」
「……蛇骨館だ」
無愛想に答えたカーシュに、この先の不安を感じながらも、セルジュはボートの行き先を蛇骨館へと向けた。ありったけの知識を思い出しながら風を読み、縄を操りながら帆を動かし、オールで海を押す。いつもとは違い目がだるいのを堪えつつ、セルジュは注意を怠らぬ様船を漕いだ。
[……泣き過ぎたな……グレンに悪い事した……]
何度止めようとしても溢れて流れる涙、漏れてくる嗚咽、一気に表へと出て来た負の感情、昨夜……訳も言わず泣いていた自分をずっとグレンが受け止めていてくれた。他人に『甘える』という行為をした事があまりないセルジュにとって、その記憶は少し、恥ずかしいものがある。
ぷるぷると首を振り、取り合えず今は前へ向こうと顔を上げた。
…船は風に乗り、滑る様に海の上を進んで行った。
……その二人の様子を、天下無敵号の手すりにもたれて見送っていた者が一人。
「……カーシュ兄も何をするんだか」