揺れる、揺れる。
波に揺れて、遠ざかる。
思わず手をのばそうとする、けれど、その動作は途中で自分でやめた。
ゆら、ゆら、ゆら。
少しずつ、段々と遠ざかって行く。
自分から、遠ざかって行く。
だから、決めた。
「 」
からりとした暑さは何時もの事だった。だが、自分の身体はその暑さに負けたのか、汗で気持ち悪い状態になっていた。
身体を起こし、掌で顔の汗を拭う。そのまま額へ滑らせ、ぺたりとくっついて離れない前髪をかきあげた。陽に照らされしらしらと輝く金の髪は、日陰ではほんのりと百緑色が滲み出る不思議な色をしていた。
イヤな夢、だったのかな。
イヤ、というよりは、無性に哀しみが溢れて来た夢だった気がする。ほら、今でも…
「…スオーシャン?」
名を呼ばれ、顔を上げてみるとそこにあったのは自分の父の姿。海の底の、透明のなかに潜む蒼色の髪と、この地の夏の空の色をそのまま移したような瞳を持った父の姿を見ると、夢の中で溢れた哀しみがまた生まれ始めた。
それに気付いたのか、そうじゃないのか、怪訝な顔付きで父親が寄ってくる。ベッドの端に座り込み、そっと手を上げる。頬に触れた時、その手の感触とは違う何かがあるのに気付き、眼を瞬かせた。すると同じ違和感がある所に、何かが伝い落ちて行った。
ぱたりと父親の手に落ちる、雫。
涙、?
ぱたり、ぱたり、ぱたり。
止まらなくなる。
嗚呼、何故だろう。
すごくかなしい。
二人が降りて来ないのに痺れを切らした母親が息子の部屋へ入ると、妙な光景が広がっていた。いや、本当ならば妙でもないかもしれない。ただ、自分の夫が宥めている子は、あまり負の感情を露にする事がなくて。
だから、夫に抱き締められ、宥められながら、声を押し殺して泣いている所は何処となく妙だったのだ。
[ 風と時の流れ ]
「珍しいもんだな」
まじまじと上から下までじっくりと観察されて、少々居心地が悪くなる。父親譲りの夏の空色の瞳で恨めしそうに見ると、その者はふと大人びた笑みを浮かべ、少年の頭をぽふと撫でた。
スオーシャンより二つ上の青年は顔を上げ、自分と同じ真紅の瞳を持つ女性に同意を求めた。
「そう思わないか?アクセーシュ」
「否定はしないでおこう」
素っ気無く彼女が答えた言葉は、それでも是と答えていたもので。彼は砂浜に投げ出していた足を腕で抱えて、顔を見られないように縮こまった。 …顔が真っ赤だった。
足元で小波が静かな流れで行き来をくり返していた。青の様で、碧に輝く海の向こうに見えるは、水を司る龍が住処とする島だった。村から歩いて数時間程の距離にある此所は、両親達にとっては深い思い出のある浜だという、オパーサの浜。
朝から大っぴらに泣いて、一日では消えない程眼を赤く腫らしてしまった。おまけに何故だか両親を見ると、自分の意志もなく涙が零れて止まらない。混乱している所為かもしれないと思い、一人になれるここで心を落ち着けようと来て見たのだが。
ぼんやりと海を見つめていたら、思い掛けない人物が後ろから声を掛けて来た。
「それにしても、ふたりともどうしてこんな所に来てるのさ。仕事はいいの?」
「俺はあそこの組織に属してないからな。何処に何時行こうと俺の自由」
「私は視察兼ねてお前を様子を見に来た。パティア達が様子を知りたがっていたからな」
「……どうしてもう噂が届いてるんだろう」
「"導"しかないだろうな」
導…元々の名は"道標の光"、更に一部の者達にしてみれば、前は"運命の書"と言われていた、輝く黄……金、とは言い難い色なのだ……の色をした四角錐の物体の事だ。エルニドにしか存在せず、各所に散らばっている。一体どんな物質で出来ているか、どんな構造をしているのかはいまだ謎のままだが、数十年前に他の導に声が届く事が発見されて以来、他愛のないことから重要な事迄、離れた場所同士での情報交換として広く使われる様になった。
自分の居る村には、彼等の住まいである蛇骨館の住人と親しい人が居る。……「破錠した拡声機」と徒名がつけられる程、非常にお喋りな人が。
パティアにもばれたのか……
幼い頃から自分と兄弟同然に育ったメルティクス家の兄妹、その妹の方のパティアは、どうしてなのか何かと自分の事を気にする。原因は、一応、あるにはあるけれど。彼女がそれで自分に対して過剰に心配するようになるとは思いもよらなかったのだ。
「ゼーク?それにセーシュまで」
声が届き、三人が振り返ると見なれた姿の二人が浜へ向かってくる所だった。一人はスオーシャンと双子の片割れであるシーア、もう一人は、パティアの兄であり、隣のシーアの恋人であるデリスだった。
バケットを片手に抱えたシーアは兄の他に居たユーグ家の二人に形の良い眉を潜める。
「二人でスオをからかいに来たの?相変わらずいじめっ子体質よねぇ」
「心外だな、朝から様子がおかしいという幼なじみを心配して来てみただけだというのに」
わざと浮かべたアクセーシュの妖し気な笑いに、シーアは隠さず大きな溜息をついた。アクセーシュは時折、自分達にしか見せない部分がある、人をからかうこんな所もそのひとつだった。
つまり、完全にからかわれているのだ。
「所でディー、何でお前もいるんだ?」
愛称で呼ばれ、デリスは苦笑いのままレイセアゼークを見返す。
「俺は元々来る予定だったんだ、シーアがスオーシャンに持ってく物があると言ったから、ついて来た」
「? 僕、何も頼んでないけど」
頼んでなくても、と呟きつつシーアはバケットをスオーシャンに手渡した。見上げると、母譲りの冷えた空色の瞳が、どことなく心配そうな色を見せる。
「あんた、朝食べてる余裕なんてなかったじゃない?そろそろ昼だし、持って来たのよ」
「…あ…」
そういえば、朝は涙と感情が止まらなくて、何にも手がつけられない状態だったのだ。両親には心配させるばかりで、でも涙は止まらなくて、逃げる様に家を出て来たのだから、食事等する場合ではなかった。
忘れていた様子に、彼女は呆れ顔で深い海の色の前髪を掻き揚げる。
「気付いてなかった訳ね」
「…うん」
はあ、とあらかさまな溜息が漏れるのに苦笑し、彼はバケットの蓋を開けた。中を覗いてみると、中にあったのはコルの実のパンに、赤い実のトラムとゆで卵の輪切りとタラスを挟んだ、サンドウィッチと呼ばれる大陸の食べ物。幼い頃両親に連れられて大陸を旅していた頃に口にして以来、大好物にしていたものだ。時折こちらでも食べていたが、トラムの実が輸入もので少々割高故に、パンの中身はいつも同じものを食べれたと言う訳ではなかった。
ああ、心配を掛けてしまっている。
母の気遣いに感謝と謝罪の気持が混ざりあう。たかが夢ごときにここまで感情を左右されている自分が情けない上に、母や父をとてつもなく心配させている事がこれだけで十分に伝わる。何とか、立ち直らなければならないと思った、その矢先。
はあ、と再度溜息が頭上から聞こえて来たと思ったら、額に手を添えられ、一気に押される。当然顔が上を向く形になるのだが、少々無理矢理だったので首の後ろの方に妙な痛みが走った。
抗議の声をあげる間もなく、シーアのもう片方の手がハンカチを持ち、スオーシャンの顔を擦り始める。
「な、なに?」
「なに、じゃなーい。自分の頬触って見なさいっ。もー」
相変わらずごしごしと顔を拭っているのでその隙間から彼は頬に触れてみる。ぺたりと、手に液体がついてきた。それはどうにもこうにも、朝から全く止まる事を知らないもので。
…また泣いてる?
ぱらぱらと雫が再度、自分の意に反して落ちて行く。完全な困惑状態の彼を見、シーアは大いに溜息をつく。
「一日にこんなに溜息付いたの、初めてよ」
「…御免」
相変わらず涙を流したまま苦笑いを浮かべた。それをあまり良くない方に感じ取ったのか、シーアの表情は優れないままだったが、とにかくも折角母が作ってくれたものだ、食べなければ更に申し訳ない事をする。涙の痕を拭っていたシーアの手をやんわりと離し、自分を落ち着ける様に深呼吸を繰り返す。食べ終える迄は何も考えない様にしようと心に決めて、ふと後ろの存在に気付く。振り返れば、じっと自分を見下ろす対の瞳が三つ。
「結構あるから…食べる?僕一人だと食べ切れないと思うし」
そんな言葉に、三人が交互に顔を見合わせる。そして、軽い溜息を付いた。
「…鈍いというか…」
「え?」
「いや、何でもない、一切れだけ頂こうかな」
「俺も貰おう」
「あの方の手料理は久し振りだ」
先程迄その中の一人が泣いていたとは信じられない程の和んだ空気で、その中にシーアも加わり、暫しの間軽い昼食が始まった。
濃い蒼の空。大陸を渡って来た経験のある彼にとっては、此所は常に夏の空のみを映し出していた。それでも一年を通してみれば、どことなく、四季と言うものは何処かに必ずあらわれる。
それはある一定時期にしか咲かない花だったり、潮の流れだったり、村や町で行う祭だったり。
ぼんやりと、スオーシャンは浜辺に寝そべり空を眺める。
昼食をとった後、暫く他愛のない会話が続いた。それは本当は現在も続いている状態なのだが、スオーシャンは一人輪の中で寝転がり、会話の中に入るのを休んでいる。
「じゃあ、特に何もなかったんだな」
デリスがシーアから渡された飲料を口にしながら呟くのに、彼女はそう、と頷いた。
「何かある訳がないのよ。昨日は朝からカー兄の所に居たもの。
夕飯も貰って来たし帰って来たのも結構遅くだったから」
シーア達の両親と昔から親しいマティス家は、エルニドからほんの少しだけ離れた離島に居を置いている。そこには一人娘が居るのだが、極度の人見知りらしく滅多にエルニドにやって来ない。殆どを離島で過ごす故に他人との接触がない事をシーアは心配していた。彼女達は昔から親同士の付き合いがあった時に顔を会わせる事が多かった為か比較的仲が良く、時折二人で家を訪ねる様になったのだ。
「ならば、カーシュ殿の所で何かがあったとでも?」
少々声を低くし、アクセーシュが問うと、それも違うとシーアは首を横に振った。
「なんもなかったわよ。普通にセレシアと遊んでたし。特に此れと言った事は…ねえ?スオ」
「…ん?」
「聞いてなかったわね…」
一人空を見上げていたので、名を呼ばれてスオーシャンは目だけを隣のシーアに向けた。眉を潜めてそれ以上の言葉を出さなかった彼女を見、今の状況が判らず彼はしぱしぱと瞬いた。ふと、逆隣に座っていたレイセアゼークと目が合う。彼はただ微笑んで、ぐしぐしとスオーシャンの頭を撫でる。
「とにかく、今日治らない様だったら俺ん所かデリスの所でも頼れば良いさ。あの方々に心配かける事になってしまうかもしれないが、焦るよりはいいだろう。
で、検討はついたか?」
撫でられたまま、スオーシャンは首を横に振った。
「さっぱり、判らないや。夢を見たって事くらいしか」
「夢?」
意外そうなデリスの声に、是と答える。
「ぼんやりとしか覚えてないけれど、凄く嫌な夢だったのは、覚えてる。
でもそれだけ。あとは、海。」
一面に広がる、青い青い海原。穏やかな筈のその色が、何故だかその夢の中では血の様な冷えた感覚を受けた気がする。たふりと漂うその定まらぬ塊が、酷く、哀しい感じがした。触れたくないと感じたのだ。
オパーサの海でも眺めていたら少しでも何かその曖昧な所が思い出せるだろうかと思ってここに来たのもあったが、どうやら全くなにも思い出せないらしい。夢なのだから、覚え辛いのは仕方ないのだが。
「夢、な。お前が昔から予知とかそんなの持っていると知れていたらもしかしたら、と思うがな」
「やめてよ、それじゃ母さん達になんか不幸が起こるみたいじゃないの」
「もしかしたら逆かもしれんな」
容赦のないからかい言葉に片割れの妹がかくりと肩を落とした。何かあったのだろうか、特に今日のアクセーシュは突っ込んでくる。気付いていないらしいスオーシャンは気にせず、思う事を口にした。
「逆だったら、良いんだけどね」
………流石にそれには一同が声を失う。
彼は時折──本気で皆が恐ろしく思う事を口にする。しかし全く他意はないのだ。ただ、素直に思った事らしく。……それが厄介なのだが。
「良い訳ねえだろ。そんな事があったらふたりが哀しむぞ」
突然の声に全員が背後を振り返った。その者は意外に近い場所にまで近付いていた、足を踏み出す度に砂がざさりと音を立てているのに全く気がつかなかったのは、彼が自分の気配を殺すのが癖だったからだ。幾多の戦場を駆け巡り、身につけたその技は、経験が浅い彼等にとってはまだ見破りにくい。
全員が石がぽかりと頭にぶつかった様に呆然としている内にその者は辿り着く、下から見上げているスオーシャンに笑いかけ、しゃがみ込みくしゃくしゃと頭を撫でる。
「思ったよりも元気そうだな」
「…カー兄?なんでまた、ここにいるの?」
不思議そうな声を上げたのは、隣で目を瞬かせているシーア。紅玉に光る瞳が、今度は彼女の方に行く。
「なんでとはないだろう。昨日来たあいつのガキの片割れが調子が悪いと噂を聞いたから、様子を見に来てやったのに。」
「だって、この面子見てよ、皆おもしろそーに来てるのよ。疑問持っちゃうのも無理ないじゃない」
シーアの直球の言葉にその場に居た全員が苦笑する。確かにと壮年の男…カーシュは居る筈のない二人の姿を見、肩をすくめる。
「ま、幼なじみとして心配だったと思ってやれよ。
…で、どうなんだ、調子は」
上半身を起こし、スオーシャンは首を振る。目を腫らしているのが見えたのだろうか、苦笑しながらカーシュは少年の背についていた砂を払う。無意識に何かと世話を焼いてしまうのが癖なのは相変わらずの様だ。
「昨日何もなかったわよね、カー兄。何か思い掛けない事があったりとか、そんな事はなかったと思うんだけど」
「ああ、…まあ、な」
言葉を濁した答え方に、シーアは眉を潜めて彼を見た。彼は皺の寄った頬を摩り、言うか言わざるべきかと思案している様だ。複雑そうな面持ちではない所を見ると、それ程深刻な事ではない様だが。
スオーシャンが振り返り、背に居る壮年を見上げ、問いかける。視線のみの問いかけ、それを彼は受け取った様だ、再度くしゃりと髪を撫で、いやな、と言葉を紡ぎ始める。
「お前等、昨日来てただろう?」
「さっき私が言った事でしょ」
「ああ。まあ、そうなんだが。
……お前、見たんだろ」
暫く瞬かせた後──僅かに、少年の目が見開く。
「微かに視線を感じて、振り返った時はいなかったもんだから気のせいかと思ったんだが。
…そうか。少し不用心な所で着替えたな、俺も」
その言葉で何の事かと不思議そうに会話を聞いていた周囲が声を殺した。シーアに至っては顔色をも消し去ってしまった。皆の様子に気付かない筈もない男性は、苦笑いを浮かべたままスオーシャンの斜後ろの位置に座り込んだ。身動きしない少年を見、悪かったと謝罪を述べる。
「今の言葉も少し不用心だったかな。……俺としちゃあ、今でも後悔とか持ってないんだがな」
「…でも、でも。 ──」
続けられる筈の言葉が、出て来ない。消えかけていた筈の感情が、今度は違う角度からどっと溢れて来て、言葉が詰まってしまった。
昨日は押し殺せた筈の感情が止まらなくなる。
目の前が、過去の出来事に染まる。
───昔、戦争とも言える騒動が起こった。
港町で突然現れた無数の刃の煌めきから、恐怖と悲鳴が生まれた。辺りは鋼色と紅色に包まれ、島民や民を守ろうと盾になった騎士や兵達が道端に次々と倒れ込んで行き、大混乱に陥った。
その時に起こった、ある出来事。
…今でも鮮明に思い出せるもの。
沈黙が続いていた、身動きすら取れないその窮屈な沈黙を破ったのはカーシュだった。そろりと腕を上げて、彼はシーアを引き寄せる。彼の手が触れた瞬間彼女はびくりと身体を反応させたが、それ以後の動きはなく、ただ彼の誘導に任せるまま。
良く見れば、彼女の身体が震えていた。それを治める様に、壮年は彼女の背を軽く叩く。間を置かず今度は反対側の手を伸ばし、今だ身体を硬直させているスオーシャンも引き寄せた。困った様な笑い声を、ほんの少し漏らして。
「本当にお前等は…悪かったよ、思い出させて」
「…カー兄は悪くないじゃない…」
自分を取り戻そうとしているのか、何かを押し殺した声でシーアが呟く。行き所のなかった腕を彼の身体に回し、縋り付く。
「あれは、あれは、私達が…」
「昔の事だ、シーア。」
はっきりと言葉が紡がれ、彼女は声を失う。
「背負わなくて良い。あれは俺の意志だったし、今俺は生きている。十分だろう?お前達は自分が出来る最善の事をした、それだけだ。」
「でも」
スオーシャンの声が、震える事無く通る。
「カー兄は背に傷を遺した」
忘れたくても忘れられない思い出。
炎天下の戦場。
血と汗と喧噪、叫び声、焦る声、怒鳴り声もあった。
そこで見たもの。
藤の色と、それに混ざる、鮮やかな紅の色。
背に一線を引いた、気持悪い程鮮やかな赤の線。
それは、刃による傷。
彼を死の間際まで追い込んだ、傷。
彼を前線から下がらせた、傷。
…それは間違いなく自分達がつけた傷痕。
「………あーっ。全く、お前等双子はッ。
そんな所親から受け継ぐんじゃねえよっ」
スオーシャンの言葉の後に続いたのは暫くの沈黙、それと、沈黙に堪えられなかったのか微かに苛立ちを含めたカーシュの声。掌で双子の髪を掻き回し、いいか、と彼は二人に言葉を向ける。
「俺は生きてる。死んでねえ、たった今ここにいる。
それをほったらかして二人の世界に入ってんじゃねえぞ、当の本人はここにいるんだ。
捕われるな。俺も、お前等の親も、他の奴等も皆ここで生きている。
…、判るだろう?」
過去の辛い思いばかり背負って生きて行くなと。
それは、彼が昔話してくれた過去の話と何処か重なっている様で。
「…うん、ごめん、カー兄。」
顔を上げて、今にも泣きそうな面持ちで笑ったのはシーア。
「はは、突然でちょっと、回り見えなくなっちゃった。
ごめん、皆も。吃驚した?」
言い、問いを向けたのは静かに様子を見ていた他の者達。突然視線が自分達に向けられ、顔を見合わせ、ゼークが肩をすくめて答える。
「別に知らなかった事じゃないから、それほどでもなかったがな」
「うーわー。なんかそれ言われると、随分昔から引き摺って来てるんだなって実感するわー…」
「人間生きてれば引き摺るもののひとつやふたつ、あるもんさ。
それより、隣の誰かさんが心配している様だぞ」
瞬きを繰り返し、彼女は隣で様子を見守っていたデリスの方を振り返り、見上げた。突然自分の方に話題が向いて少々目を丸くしていたが、すぐに彼女を見返し、苦笑を浮かべる。シーアもまたにこりと笑い返す。…それで二人の中で何かが通じているらしい。
相変わらずだな、と呟き、カーシュが今だ動きを見せない双子の兄の方を見た。頭を抱えていた掌を離し、顔を上げたスオーシャンに問う。
「…で?」
「…え?」
「何か思い出したか?元はと言えば、それが原因で夢を見たんじゃないかって話だったの、覚えてるか」
素直に首を振るスオーシャンに周囲が思わず苦い笑いを浮かべた。それに気付かず、スオーシャンはひとり、自分の意識の中に潜り込んで行く。
先日の事を。少しずつ思い出す。
「…傷」
「ん?」
「傷痕を見て、動揺して…少し落ち着こうと思って。ふらふらしてた。」
ぽつりとスオーシャンが言葉を零す。
「でも逆効果だった、どんどん、考えが深みにはまって、抜けだせなくて、どんどん奥に落ちて行って…最終的に死ぬってどんな事なんだろうって思った。
今考えても仕方ない事だって思って、なんとか切り替えたんだけど。けど…
……
………そう、だ………」
最後の声は、殆ど囁きに近かった。
「思い、出し…た………」
「…夢をか?」
こくり、と少年が頷く。催促したくなる気持が囃し立てたが、堪えて彼が言葉を紡ぐのを待った。
そして少年が放った言葉は。
「父さんと母さんが、死んだ夢だ」
──誰も、声が出なかった。
「二人が、舟に乗せられて遠ざかって行く夢。ゆらゆらと波に乗って、少しずつ、少しずつ。
…手を伸ばしても届かない場所に行く夢だ。……自分の気持を、決めた、夢だ……」
ぱたりと。
声が途切れると同時に手の甲に何かが落ち、音をたてる。見れば、透明な水が、再度音を立てて落ちる。
ぱたり、ぱたり、ぱたり。
水だ、とスオーシャンが思う。
その水のイメージは、彼の中で夢の中の海と繋がる。
自分と両親の距離を広げる海、哀しみと悔しさと、…どうしようもない程の叫びが篭った海の色が、一面に広がっていたあの夢。
喉から息が擦れるような音を出して漏れてくる。
目の前が、ぼやけてみえなくなった。
「…ッ…」
感情が抑えられなくなり、顔を歪めて俯くと、それを覆う様に首に腕が回って来た。大好きな父の知り合いの腕。其処はとても暖かく、とてもやさしくて。
声も感情も、すべて溢れた。
ひしりと音を立てて足を踏み出し戸を潜ると、待っていたのだろうか、入り口すぐの長椅子に座っていた父親が顔を上げ、息子を見た。もやもやした面持ちの息子に微笑み、立ち上がる。そっと近寄り、見上げる息子の頬を柔らかく掌で包み。
「…カーシュから聞いたよ。
スオーシャンは…僕がすぐに死んでしまうような人間だと思ったのかな?」
軽く首を振る少年に、彼はただ笑うだけで。
「でも、何かが君の中にある事は確かだね。それが、僕が関係した事であるのは間違いない。
…ごめん、気付かなかった。君を心配させるような事をしたなんて」
再度首を振る、それに父親はただ、頷くだけで。
「大丈夫。……君が考えているより、僕は生きるよ、きっと。
僕も、キッドも。君達が一人で歩ける様になるまでは、きっと生きている」
心配しなくてもいいんだと呟くと、彼は苦笑いを浮かべ、片手を息子の目元に寄せ、頬に流れそうになった雫を拭い取る。
「そんな時は必ず来るだろうけれど。それまでは、…一緒にいるよ」
穏やかな海。
晴れやかな空。
その合間に漂う、一隻の舟。
其処に横たわっている二人の少年少女。
ゆら、ゆら、ゆら。
少しずつ、だが確実に離れて行く姿。
手を伸ばそうとして、やめる。
遠ざかって行くのを見つめ、彼は呟く。
「必ず追い掛けるから」