今日は日射しが柔らかく、老年の身体には心地良い暖かさだった。
 いつもながらに眠気を誘う昼時、老人はこくりこくりと舟を漕いでいた。糸を海に垂らしたままの釣り竿を持って。それは老人のいつもの癖だったので、誰も咎める者はいなかったのだが。
 ふと、彼に注いでいた日の光が遮られる。丁度眠りの浅い所だったので老人は目を覚まし、上を見上げた。其処には見慣れた少年が佇んでいる、彼が寄って来た事で影が出来たのだ。
「御免、ラウルさん。ちょっと舟を貸して欲しいんだけど」
「なんじゃ、また島に行くのか?あまり水龍様の住居を荒らさん様にな」
「はは…判ってるよ」
 何か言いたげな様子で了解の意を唱える少年を見上げつつ、老人は釣糸を引き上げる。戻って来た糸の先に付いていた釣針に餌がついていない。どうやら眠っている間に食べられていた様だ、釣り糸を竿に巻き付けて、老人は立ち上がる。
「じゃあ行くかの」
「…へ?いや、ラウルさんも来るの?」
「なんじゃ、悪いかの。たまには釣り場も変えたいもんじゃ」
「悪い訳じゃないけど…」
 またも何か言いたげな様子の少年だが、その先に言葉はなかった。老人は少年を一瞥しただけでさっさと目的の舟に乗り、どかりと腰を下ろした。暫し老人の様子に夏の空色の瞳を瞬かせていた少年に手招きする。そろそろと少年が舟の上へと移動し、再度、少年は老人を見た。
「なんだの」
「え、だって、もしかして」
「もしかしてでもないじゃろう。御主がやるんじゃ」
「…は!?だ、だって、いつもなら僕は漕ぐなって…」
「それは御主の操縦が下手だった頃の話じゃて。なんだの、先日お前さんが操ったバンカーボートを見て驚いたわい。何時の間に上達したんだか」
 はは、と頬を掻いて、またも少年は言葉を濁す。そんな少年の様子に老人は溜息を付き、手で行動を促す。はっと今気付いた様な面持ちを浮かべた少年は、慌てて準備をはじめた。舟を繋ぎ止める縄を解き、帆を張る。一度老人を見、彼が頷いたのを見てから、少年は柄の長いオールを手にした。船橋の柱をオールで押し、舟を移動させる。今日は風の流れが少し遠い。風に乗る迄はオールでの移動だ。
 ざらざらと舟が海を掻き分けて滑る。帆を縄で調節しつつも、オールを動かす少年を老人は後ろで見ていた。その姿は暫く前とは全く持って様子が違い、緊張もなく滑らかに舟を動かしている。何時の間にここ迄上手くなったのだろうか。
 よくよく見てみれば、少年自体もほんの少し前とは様子が違っていた。オパーサの浜で倒れたという話を聞いて以降、何処となく彼の体付きが変わった。日常で身に付いた筋肉による引き締まった身体とは違う何かが彼に備わっていたのを、老人は密かに勘付いていた。それが闘う事に関係するのだと気付いたのは暫く後だが。
 顔付きも変わった、前はただ優しそうな、少々頼り無げな面持ちだったのが、今は以前と比べたら随分と凛々しくなった。更に言うのなら、「強さ」が含まれる様になった。瞳があまりにも違うのだ。
 そして何よりも、気にかかっていた彼の心の不安定さが大分落ち着いていた。
 ざらざらと海が音を立てている。
 彼に一体何が起こったのか、老人には判らなかったが…ひとつだけ、最近よくやる彼の癖を知った。
 遠い空を見つめ、ぼんやりとする姿。この所見かける様になった気がする。それは何処か、待っているような感覚。
 何か?いや、違う。
 …誰かを、だ。
 そういえば、「男」の顔付きをするようになったなと老人は思う。
「お前もやるのう」
「…… …はい?」
「ほれセルジュ、余所見するでない。航路が曲がる」
 振り向いた少年を注意し、老人はにんまりと笑みを浮かべる。
 自分の子の親離れはとっくに終わり、後の心配事は村中の者に可愛がられている目の前の少年の事だけだったが、どうやら自分が寿命を全うする迄には彼の晴れ姿は見れそうだ。



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言わずと知れたアルニ村の釣りじいさん。名前…無かったですよね、確か
かなり設定を忘れておりまして、いろいろ間違っていたりするかも知れません、にっこり笑って見逃して…
うちのセルジュは本編序盤は情緒不安定なのでした…それでもって最初はそんなにボートは上手い方じゃなかったのでした。趣味程度にやるだけ
どうして上手くなったのかって、キッドのしごきで。