ばたばたばたばたっ
複数の足音が夜の天下無敵号の中に響いていた。それは廊下を過ぎ…踊り場を過ぎ…甲板を過ぎ……階段をかけおりてもまだ止まる事無く続く。
「こら!そこの青い髪の少年、止まりなさい!」
 少年を追掛けているらしい女性が少年に叫ぶ。
「お断りします!」
 即座に返答を返し、尚も走り続けている深海色の髪の少年。
「あたいと寝るのがそんなに嫌なのかい!?」
「寝るのもそうだけど、その前にミキさん達がしたい事が嫌です!」
「お前の服を選んであげるって言ってあげてるんだよ!」
「だからって、少女服は無いじゃないかぁ!」
 半ば泣き声の少年の声が廊下に響き渡る……扉を閉めかけていた青年がふと手を休め、そっと顔を扉の向こう側に覗かせた。少年を先頭に、数人の女性達が彼の後を追掛けていくのが見えている。
「……飽きねぇなあいつらも。一回遊んだだけじゃ物足りないか……」
 思い出したくもない記憶を浮上させてしまい、藤色の長髪と一緒にふるふると頭を振り、青年はぱたりと扉を閉めた。
 他の者達はまだ酒を酌み交わしている、又は眠りについている夜の事だった。



[真夏の夜]

 ばたんっ!
「!?」
「───あっ」
 扉を閉めた向こうは───桔梗色の長髪の女性が佇んでいた。……というよりも、着替えている最中だったらしい…肌着の状態のままこちらを振り向いて、目を丸くしていた。頭の蛇の飾りを外していた為に一瞬誰かか判らなかったが…
「セルジュ…さん?」
「……リ…… あっ!ご、ごめんなさい、あ、わ、し、失礼し」
ばごんっ!
「リデルさん!」
「セルちゃんみなかった!?」
 扉を開けて……その扉の目の前に居た少年、セルジュを押し退けて開いてしまったのだが……二人の女性が顔を出した。一人はクロスコミアの黄の髪を横に結んだ、体つきがしっかりした女性、もう一人はトロリウス色の長い髪を後ろでまとめた、しなやかな動きをする踊り子の女性だった。その二人にリデルはにこりと微笑む。
「いいえ、知りませんけど」
「そう?どっかで扉の音聞こえた気がしたからさ……」
「ミキさん、向こうを探してみましょう」
 ごめんねと一言告げてから二人はまた廊下を走り出していく。その様子を見送ってから、リデルは扉はぱたりと閉め、扉と壁に潰されていたセルジュを見た。
「大丈夫ですか?」
「はい…ごめんなさ──」
 扉に押し退けられ、ぶつけた頭を抱えてしゃがみ込んでいた彼に手を延ばし、彼も気付き顔を上げて……其処で動きがぴたりと止まった。次に目を泳がせ、明後日の方向をみつつ、一言。
「リデル、さん……あの、せめて寝間着だけでも……」
「あら?…そうね、セルジュさん駄目みたいですし」
 くすりと笑いリデルはセルジュの元を離れてベッドにかけていた淡い絹の寝間着を手にした。その様子を見て悟られぬ様そっとセルジュを息をついた。前髪をかきあげて、暫くぼうっとしてから髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
[…リデルさんもなんだなあ…
 ……ミキさんもオルハさんも、なんでこう、女の人って……]
 眉に皺を寄せ、ため息をついた。ここにいても仕方が無いと、のろのろと立ち上がる。
「リデルさん、僕これで……」
「あら、今出て行くとまた見つかってしまうのではなくて?
 もしかしたら貴方の部屋で待ち伏せしているかもしれないですよ」
「…〜〜〜〜」
 在りえなくも無いリデルの発言にセルジュは渋い表情を浮かべた。くすくすと笑いながらリデルは手を部屋の奥へと差し出す。
「良かったら、ほとぼりが覚めるまで雑談でもどうですか?」

「…これは?」
「飲んでみてください」
 微笑みを称えたままのリデルを横見しつつセルジュは自分の手に握らせられたコップの中に注がれた鮮やかな赤紫色の液体を、一瞬だけためらい、くっと喉の奥に押し込んだ。熱い独特の味が喉元に流れ、セルジュはむせかけて口を抑えた。横を向き、必死に咳を堪える。
「……リデルさん、これ……」
「寝酒です。少しきつかったかしら」
「きついというか、胃の中熱い……」
 酒だと認識しない状態で酒を飲むと、こんなにも身体が反応するのかとセルジュは少々驚いていた。もう一口飲み込むと、今度は差ほど刺激が強いものとは感じられない。判っているからこそその味を期待して、判っていないからこそその味に驚く……これほど違うとは。
「大丈夫ですか?」
「はい、慣れました」
 苦笑しながらまた口にする、すると次は淡い葡萄の味が広がった。
「葡萄…?大陸のなんですね。いつもこれを?」
「時々ですけどね。……眠れない時があったので」
「…すいません」
 自分の落度に気付き、セルジュは声を落した。今は笑っていられるが、それでも彼女の心の奥には深い哀しみが根付いているのだ。いいえ、と首を横に振りリデルはセルジュに微笑んだ。
「貴方が気を使える程お話をした事では無いですしね。
 ……思えば、私達こんな風に話をした事って無いですね」
「…そういえば、そうですね。
 リデルさんと会う時は、いつも大佐やカーシュ達が居たから」
「こうやって二人きりも、全然無かったですしね」
 セルジュにしてみれば意識的に避けている所もある。……あの二人の事を考えると、今この状態になっているのも少し心苦しいものがあるのだ。仲間の中でも特に親しい、あの二人の事を。
[……ばれたら、また走らないといけないかな]
「あの二人、もう諦めましたでしょうか」
「え、あ、ああミキさん達? ……諦めてくれないと、部屋に戻れないです」
 『二人』の言葉に一瞬自分の心を探られたのかとどきりとしたが、今の今まで追掛けてきていたあの二人の事だと判ると、内心冷や汗をかきながらセルジュは答えた。
「何時も旅に出て久し振りに船に帰ってきてゆっくりできると思ったら。大変ですね」
「まあ……。でも、あの人達なりの優しさだって事は、本当は判ってますから」
 ただ、あの桜色のチャイナとか真っ赤なカクテルドレスとか着せるのだけは………
 言葉にするのを留めて、目眩を起こしそうな頭を抱えセルジュは無理に笑顔を作り続けた。前に起った「事件」は今でも忘れる事の出来ない、キッドには絶対に知られたくない出来事。
「……セルジュさんは優しいのですね」
「! そんな、全然です。 リデルさんの方が……」
 言いかけるのを遮って、リデルは首を横に振った。
「私は自分の事しか考えられない女です。他の方に手間をかけている余裕など……」
「でもリデルさんは孤児院を作ったでしょう?」
 視線を深海色の髪の少年へと向ける、にこりと少年が笑い、真直ぐに見つめながらリデルへ言葉を届けた。
「他の人なら一度は躊躇する事だと思ってます。だけど躊躇する事も無く、貴方は孤児院をつくったんです、……とても芯の強い、そして優しい人だと思います。」
 だがリデルは無言にそれを否定する、首を只管に横に振るだけ……
「違います、私自身の為に建てただけです……ダリオが居なくなった寂しさを紛らわす為に建てただけです……あの人にも頼る事など出来ないから……」
「…あの…ひと」
 呟いてから、しまったとセルジュは口元を手で覆った。
 ……確証があった訳ではなかった為に口に出す事もしなかったし、言ったとしても両人傷つくだけだと心に閉まっておいたのだが……セルジュはひとつだけ、彼女に関する事で気付いた事があったのだ。
「……知っているのですね」
「…………」
「私が……カーシュの気持ちに気付いている事に」
 やっぱり、とセルジュはため息をつき、口元を覆っていた掌を顔全体を隠すように少し上へずらす。視線をややあさっての方向へと向けて。
「……前に二人で話してたのを横で見てた時に、一瞬だけリデルさんがカーシュから視線をそらす所…見てしまったんです」
 カーシュの方は全く気付いていなかった、また彼の方で邪な視線を向けていた訳でもなかった、なのに彼女が視線を反らした事にわずかながらに疑問を抱いてしまったのだ。そして自分なりに出してしまった結論……
 リデルは気付いている?
 ぱたぱたと外から何かが当たる音が聞こえてくる。雨が降り始めて来たのだろう、次第に部屋全体を覆う音へと変って行き、二人の沈黙を少しだけ、柔らかくしていった。下をうつむいていたのを、セルジュは視線を上げてから、次に顔を上げた。目を閉じて口を閉ざしている目の前の女性は今、何かを告白しようとしているのだろうか?それとも、只管に沈黙を護ろうとしているのか……それとも、勇気を探しているのだろうか?
 深呼吸をひとつ、リデルは重い口を開いた。
「……もう何年も前から知っていました」
 それは、彼女が直隠しにしていたひとつの真実。
「酷い事にそれは私がダリオを意識し始めてからだったのです。
 自分の態度に気付き、想いに気付き……
 それはいつものカーシュの態度と酷似していたのに、気付きました。
 でも……もうそれは遅すぎたのです」
 目の前の人に夢中になっていた。彼に似合う人になりたいと想い始めていた。淑やかな姿勢を保ち、微笑みを忘れず、彼を支えていける存在になろうと決めた矢先に、その事実を知ってしまった。それは、彼女にとってどれくらいの衝撃だったのだろうか。
「言う機会を失ってしまい、暫くは気付かぬ振りをしていました。
 そうして何年か経った後……私とダリオの縁談が定まり、ダリオはカーシュやグレンに話しておこうと……そして二人で告げたのです。その時に私はカーシュを振ったつもりだったのです……ですが……」

『……だからと言って、簡単に忘れられる様な半端な想いじゃなかったからな』

 への字に口を曲がらせて、自分の子供の様な部分に心底情けなさを感じながら言った彼の事を思い出し、少しだけセルジュは哀しい表情を浮かべてしまった。何時も元気な笑顔や笑い声、凄みを効かせる怒りで自分を励ましたり怒ってくれたりしている彼が、その事になると途端に苦い表情を浮かべてしまう。他人にどう言おうとどう言われようと自分で自己完結したとしても、どうしても、自分の親友を『死なせてしまった』という、大切な人の想い人を『殺してしまった』負の念にも侵されて、炎色の瞳に影を落してしまう。
 セルジュはそれが何よりも彼のトラウマである気がしてならなかった。
 自分の身近な人が居なくなると、必ず誰かが重い傷を負うのはセルジュ自身が一番よく知っていたからこそ、その傷を無くしてやりたいと思っているのだが。その願いが叶うには、目の前の女性の協力無しではまず不可能な事だった。
「……もう一度、勇気は出せないですか?」
 怖る怖る、セルジュは口を開く。漸く顔を上げた彼女のカーシュと同じ赤い、紅色の瞳を見つめて、セルジュは言葉を紡いだ。
「振ってあげてほしいんだ……カーシュを」
 口調が砕けたのは、彼を想っているからこその言葉なのだろう。判っていても、リデルは首を横に振ってしまう。
「駄目です……もう私にはそんな事、出来ません」
「怖い? カーシュと、今の関係が壊れてしまう事」
 見透かされたかの様に言われた言葉は、一度は驚かせるも、彼女を頷かせるに十分だった。ダリオが居た時は彼が居たから平気だったのだが、ダリオ無き今、自分一人だけ。其処までの勇気は持ち合わせていない……
「リデルさん」
 名を呼ばれ、リデルはまたうつむかせていた顔を上げた。穏やかな夏空色の瞳が自分を見つめていて引き離さない。しっかりと見ていてと、訴えている様な想いを込めていたのか、セルジュもリデルの視線から目を反らさなかった。にこりと淡く微笑んでから、ゆっくりと言い出す。
「答えてあげて欲しい、カーシュの想いに。それが、彼にとって辛い答えでも、答えてあげて欲しいんだ。
 貴女は恐れてる、今の関係を壊すことに、……昔からの友人を無くしてしまう事に。」
「………」
「でもね…カーシュはそんなに弱くないと僕は思っている。ふっきれる強さ、持っていると思う。
 振って貴女の目の前から消える事なんて無いと思うよ。ぎぐしゃぐした関係にもならないと思うよ。……そんなやわだったら、カーシュは此処に居ない。貴女の傍にいれない。」
 一呼吸を置くその一瞬の間、す…とその時彼の瞳が曇り空色に陰った。そして再び口を開こうとした時には、その塵すら残っていなかった。
「だけどね、今のままだと…自由になれないんだ。自分ではしがらみから逃れる事が出来ない。貴女にとっても辛い事だと思うけど、答えて、あげて欲しいんだ……」
 我がままでごめんね、と最後にセルジュはリデルに謝った。それに答える事が出来ず、リデルは沈黙したままだった。
 ……本当は、それは全てがカーシュの為だけの言葉ではなかった事にリデルは気付いていた。
 このままの関係が進めばきっと彼女からぎこちなさが出て来る、そして彼は気付き始めてしまう……そこまで彼は鈍感じゃないと言いたかったのかもしれないが、そうなる前にと、二人の事を想っての言葉なのだと……。
「セルジュさん……どうして貴方の言葉は、こんなにも暖かいのでしょう」
「…え?」
 もしかしたら何処かで、恐れていたのかもしれない。
 こんなにも優柔不断な自分を叱咤される事を。
 …否定されることを。
「私……こんな女だから、誰かに打ち明ける事も出来ませんでした。打ち明ける勇気もありませんでした。尤められるのを恐れ、責められるのを恐れていました、心の何処かで……
 そんなの私ではないと、否定されるのを恐れていました……」
「リデルさん…」
「貴方に気付いて貰えて良かったです。私をあまり御存じ無い所為もおありでしょうが……それでも「私」を受け止めてくださいました。」
 そんな、と慌ててセルジュは首を横に振った。
「リデルさんには悪いですけど、僕そのつもりでなんか全然……」
「ええ、そうですね。だからこそです。貴方は自然に受け止めて下さったのです、きっと、知り合いならばこんな悩みを抱える私を「私ではない」と、私を否定したでしょう。でも、セルジュさんはそれをしなかった」
「……悩まない人間なんて居ませんよ」
 ふわり、と柔らかい笑みを浮かべ、セルジュは立ち上がった。テーブル越しに手を延ばして、リデルの頬に指を触れさせる。伝う滴を拭いて、姿勢はそのままに。
「恐れない人間なんて居ない。泣かない人間なんて居ない。
 それがあるから人間として成り立っているんだ。それがあるから笑ったり喜んだり出来るんだ。なくしてしまったら、それは人として何かが欠けている証拠か……人一倍我慢しているだけ。
 自分の生き様に我慢なんてしたら、勿体ないよ。
 貴女らしく……生きれれば良いと思う」
 本当は、それが一番難しい生き方だけれど。
 敢えて最後の言葉を言わず、セルジュはリデルに再度微笑んだ。リデルは十分自分らしく生きていると思っての事もあり、……其処までこの女性は弱くないと思っての事でもある。
 自分が言える言葉ではない、というのも当てはまるが。
「私……この旅が終ったら、告げる事にします。
 其れまでは……どうかあの人を支えて上げて下さい。
 私に、時間を下さい……」
「急がないでください、僕の言葉が至らなかった所為ですね……僕は何時か、言って欲しいだけですから……それを何時にするのかは、リデルさんの心が落ち着いたらでいいんですよ」
 にこり、とリデルが微笑んで、つられて焦り気味だったセルジュも笑い返した。
「…有難うございます…」
 彼女の感謝を遠慮しようと片手を上げた時、その手をリデルに握られてセルジュは目をしばたかせた。滑るように彼女の手が二の腕に伝わり、肩を通り抜け、首の後ろに回される。引き寄せられるままに身体が前へと傾き……
 頬に、柔らかい感触を受けた。
 思考が停止するも、今度は反対側の方にも同じ感触を味わい、セルジュは次第に顔に血が上っていくのを感じた。額にも受けて、真正面に彼女の顔を見た時、弾けた様に彼は起き上がった。
「り、り、り………───リデルさんッ!!!」
 蒸気が今にも吹き出そうな程に顔を赤くさせて、セルジュは吃りながら彼女を呼んだ。
「はい。」
「今の、いや、あの、その、……〜〜〜〜」
 言葉が続かない。相当混乱している様だ、何時もなら考えもせずに出来る単語の配置が、今は単語が飛び跳ねて何処へやら。口元を抑えて、セルジュはあと少し反応が鈍ければ遅かったかもしれない事に苦い思いを口の中に広がらせた。
 ……また、キッドに言えない事をしてしまった……
 この事も、きっと彼女に話してしまったら途端彼女の短剣が自分の首に食い込んでいる事だろう。
「私からの感謝の気持です。不必要だったでしょうか?」
「不必要というか、そうじゃなくて……」
 ああ、やっぱり……
 セルジュは、内心ため息の嵐だった。
[ この人も、そうなんだなあ…… ]
「所で、セルジュさん?」
「…は、はい」
 ぞわり、と悪寒を走らせつつも、セルジュはリデルの呼びかけに答えた。
「今日、ここに泊まりません?」




 正直言ってしまえば、寝不足だ。
 セルジュは頭を抱えてその日の大部分をふらふらと過ごした。仲間の前では気付かれぬ様……というよりも、弱音を吐いてばかりはいられないと我慢していたのだが……振る舞いをしていたお陰か気付かれる事は無かったが、流石に気が抜けると頭痛が激しくなってきていた。今日も結局何も手がかりを得ぬまま戻ってきた事も頭痛の要因のひとつと言えるだろうか。
 寝る前にほんの少しだけ、と彼は空がよく見える蛇骨館のテラスへと赴いていた。本当は夕陽が見たかったのだが、テラスは夕陽と反対側に設置されている為に見える事はない。それでも空に広がる茜色は前に見た時は奇麗だったのをよく覚えていたので、行くの事にしたのだ。
 ……あまり夕陽に良い思い出は無い。刹那に思い出す辛い出来事も多い…が、それも踏まえて彼はこの夕陽を「好きだ」と言う。
 テラスへと続く廊下を歩いていると、テラスに二つの姿があるのをセルジュは見つけた。先客の様で、二人でどうやら何か話し合っている様だ。自分が来ては邪魔になるだろうと思い今日は諦めようと、踵を返そうとした。
 片方に、藤色の髪を持つ者が佇んでいたのに立ち止まってしまった。
 頭痛の為に昨日の事を振り返ってはいなかったが、この瞬間に、昨日のリデルとの会話が脳裏によぎって行った。リデルの想いの確信につられて、彼女を言いくるめてしまった昨日の出来事。
 全くの無関係の自分が、あの人の一番大切な部分をねじ曲げようとしてしまった。そして、いつかねじ曲げてしまうだろう。
 なんて事を……してしまったのだろうか。
 急に申し訳無い気持ちがセルジュの中に充満した。自分がねじ曲げてしまった事で、彼を殺してしまう事になったら……自分のしでかしてしまった事の大きさを、今気付く。
 でも……それでも、見ていて自分も苦しくなったのは紛れもない事実だったのだ。
 テラスから流れる音が途切れて、不意にセルジュは彼の方へと歩み寄った。朧気な意識で近付いた為に向こうも気付かなかった様だ。真後ろに立っても、二人は自分の存在に気付く事が無かった。
 そっと、彼の背に頭を寄せる。彼等の意識がこちらに向けられるのを感じた、そのままセルジュは顔を上げず口を開く。
「ごめん、カーシュ」
 言葉は返ってこない。いつもの事だった、彼はどうしてと聞く前に、全てを聞こうとする。
「余計な事した……でも、何時までも叶うことの無いしがらみに取りついているのは……見てるのは辛いから……」
 自分を構ってくれる度に現れてくる、彼のしがらみ、鎖、戒め。自らを縛り付けている痛いモノ。見ているだけで伝わってきた、全てを感じる事は出来ないが……それでも同じ傷の部分の痛みは、よく判る。
「……何を言ったかは知らないが」
 低いトーンの声が空に響き、彼に伝わる。
「気にするな、お前が俺の為にやってくれた事なんだろう?
 …いいんだよ、罪悪感なんか、覚える必要等無い」
 ゆっくりと、身体を傾けるのを感じてセルジュは頭を離した。向き合った時の彼のその赤い瞳が苦笑混じりに柔められているのを見て、自分もまた苦笑する。
 どうしてもこの瞳に甘えてしまう自分が居る。その瞳を見て、ほっとしてしまう自分が居る……
 キッドの冷たい空色の瞳とは違う意味で、安心する瞳。
 くしゃりと頭を撫でられて、その大きな掌にされるがままにした。肩を引き寄せられて彼にぶつかるように身を寄せる。背を優しく叩く仕草が、とても暖かい………
「……カーシュ」
「ん」
「寝る」
「…は? お、おい。小僧?」
「……寝てるぞ、カーシュ」
「…………何だったんだ、こいつ……?」

 寝息を既に立てているセルジュを片手に、彼は肩をすくめておかしそうに笑った。
 真夏の夜からの、些細な出来事だった。

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