どくりと、心臓の鼓動が聞こえたような気がした。
まどろみにも似た暗闇が、上下左右関係なく広がっていた。
ぬるま湯の暖かさ、水の表面が凍り付く寒さが入り交じって、それが妙に心地良い感触を与えている。
それでも、その女性の心中は哀しみに覆われていた。
眠るといい
夢を見るといい
何も考えなくてもいい
暗闇から何処からともなく囁く声が、届いていないかの様に……
[ 始の起り 続の再来 ]
一体どの位の時間をここで過ごしてきたのだろうか。
それさえも判らず、今先程ここに訪れた様な感覚も受ける程に、この暗闇の時間は無い。誰も居ない、他の声も音も微かな動作さえもしない、判らないこの暗闇で精神を保っていられたのは、暗闇から聞こえる声と、自分の中にわだかまる哀しみがあってこそだろう。
ぱらぱらと、翠玉の瞳から頬へ伝い、空に飛び散る涙の滴はここに来てからまだ一度も乾いたことが無い。よくも枯れぬものだと、彼女自身も思う程だ。
自分独りだけ、この暗闇へと飲み込まれてしまった。この闇へ飲み込まれるまで居た場所では大変な事が起っていたというのに、自分だけがのこのことこんな『安全』な場所へと。
暗闇の中は哀しみも苦しみも無い、あるのは囁く声の暖かさ、それだけ。随分とそれだけを聞いて、心は穏やかになってきたと思う。それでもまだ、涙は枯れる事は無かった。
上を見ても、下を見ても、翠玉の瞳では何かを写し出す事はもう出来なかった。目の前がぼやけているのかさえも判らない。そっと溜まった涙を拭って、軽く息をつき、瞳を閉じる。
眠るといい
──弟は何処に行ってしまったんだろうか……無事に生きているのだろうか……
夢を見るといい
──お母様……今は……どうしていらっしゃるのだろう……
何も考えなくてもいい
──あの方達…どうなってしまったのだろう……
眠るといい、哀しみの調停者よ
疎の哀しみは我の目となる
疎の苦しみは我の耳となる
疎の嘆きは我の力となる
夢を見るといい
星と共に、相入れぬ同士共存する夢を見るといい
儚い夢を見るといい
そしてもう……なにも考えなくともいいのだ
我のナカは心地よかろう?
我と共に居よ
我の力となれ
調停者としての義務を遂行しえなかった代償となれ
何時の間にか、心地よい声を子守歌に、小さく寝息を立てていた。その眠りは暗闇とひとつになっている夢を見させる。とろりとした闇、何もかも包み込む沈黙、発狂する思いの孤独を消し去る声。全てを取り込んで一つになっている様だった……その時だけ、『自分』というものを忘れられた。
このままひとつになってしまいたい。
全てを忘れ、『自分』を忘れ、全てを放棄してこの暗闇と一緒になれたらどれだけ楽なことだろう。今の『自分』は『自分』が辿って来た事を受け止めるには、まだ成長し切れていなかった様だ。心の何処かで母に反発を覚えていても逆らう事が出来ず、その事を心配してくれた弟を手放してしまい、何の関係もない者達を巻き添えにしてしまった。母を、止める事が出来なかった。
何処かで、いつかはという気持があったのかもしれない。何処かで過去の記憶を引き摺っていたのかもしれない。目の前の母からはもうその影も見受けられなかったのに、いつかはまた昔の様に戻ってくれると思っていたのかもしれない。
…否、そう思う事でそれから逃げていたのだろう。弟の様に刃向かう事も反発する事もできなかった、それは人にある優しさと言うものとは遥かに違う場所にある、逃げというものだったのだ。
そんな『自分』に嫌気が差していたがどうする事も出来なかった。そして代償と言わんばかりに、此処へ独りで来てしまった。
『自分』という存在を消す事が出来たら、どんなに楽だろう。
だけど、できない。自分の中の何処かでそれを判っていた。
何かが引っ掛かっている。
何かが忘れられない。
それは、今まで生きて来た記憶の中にあるだろうか。あんなに思い出して涙していた記憶の何処かに、あるだろうか。
今までなかった違和感が生まれる。
眠りから、目覚める。そして初めて、目の前に広がっていた漆黒の闇の中に何かを感じた。自分ではない誰かの存在、だが居る様で居ない雰囲気を受ける。視界は、相変わらず何も写し出さないのだが。
誰?
声を出してみたが、出たのかさえ判らない。伝わったのかなんて、問題外だ。
それはヒトではない
声が、響く。
人ではない?
それは、もはや「力」の存在のみである
「力」?
我を解放せしめる、力のみ
貴方を、解放する?
では私は何故「人」であるのだろうか。
お前は目覚めたからだ
他の者は目覚めていないだけ
我に操られ、そして滅んで行った者達
我を解放せしめなかった者達
我の存在すら知ることのなかった者達
彼女は気付く。
この暗闇。
この心地よさ。
そうそれは、母親のような闇だった。
まさか、
まさか、
まさか。
あなたは。
とおいむかしに、一度だけ聞いた事がある。それは子供の頃に聞いたお伽噺だっただろうか。
星のものでない何かがこの星にやってきて、地中深くに潜り込み眠りについたと。星に舞い降りた時の影響を受け、私達は進化したと、それはとても急速な進化。
それは、いつも何かに近付いた時にふと思い出した事だった。
似ていた。
その力。近寄った時の感じる暖かさと、奥底から意識を引き摺り出される様な強さ。
まさか。
何処かで、闇が笑った気がする。
………私を包む存在が判ったとしても、私にはどうすることもできない。
暗闇に包まれたまま、時間が進んでいるのか、止まっているのかも判らないまま。闇の海に弛たうままで、心は何故か、平静になっていた。狂う事も無く、自分を保たせたまま…身体の中の時が進んでいるのかいないのか、それすらも判らないまま、闇に浮いていた。
この暗闇は「優しさ」だと思っていた。だが、違うのだと彼女は気付いた。
これは、「原罪」。
私と貴方、ふたつの元凶が、いまここにいるのだと。
これはきっと罰…このまま、きっと気の遠くなるような時を、過ごして行く事になるのだろう。老いる事も知らず、この先目の前の色が鮮やかになる事も、褪せる事も無く、自分の浮き立つ「青」のみ闇にぽっかりと現れたままそれ以外の事は無く、延々と長い長い時を。けれど彼女はそれでいいと思った。そうとでしか、この罪をあがなう方法が判らなかった。もし仮に他に方法があったとしてもこの暗闇から抜け出せる方法を知らなかったし、抜け出す為の気力を既になくしていた。
彼女は既に取り込まれた「魂の形」だけだった。自分が持っていた力は取り込まれてもう身体の片隅にも感じなかった。どうすることも出来る筈がないのだ。
平静はあった。けれど、虚ろ気な虚無感も、あった。
………かえりたい。
いっそ狂ってしまいたかった。そうすれば『自分』が『自分』である事等判らなくなるのだから。けれどその傾向は一向に現れない、自分が背負うものは一人で負うにはあまりにも重く、あまりにも苦しいのに。心が平静で、何処か虚ろで。
…無に、還りたい。
何度も願っていた事をまた願う。その願いは今だ適う事は全くなく、暗闇は目の前に漂うのみ。只管無に還れる事を願った。それが何時になるのか、その日がやってくるのか判らないが、それすらどうでも良い事だった。今でさえどれほどの時間が経ったのか判らないのだ。周囲に群がる力のみの存在が、長い時間を彷徨ったのだろうと教えてくれるが、それだけだった。
願いは途切れる事が無い、だが、別の思いが何処かに引っ掛かり、胸に残っても居た。正体は今だ判っていない。きっと永遠に判らないだろう、半ば諦めのような気持が広がる。
けれどそれに反発する様に、また胸に広がる、引っ掛かるもの。
何故だろう。何がそんなに引っ掛かるのか。
何をそんなに求めているのだろうか?
求めているのだろうか?
探しているのだろうか?
欲しているのだろうか?
何を?
……誰を?
───叫び声が漆黒の闇に広がって行く。とても幼い、まだ少年とも少女とも見分けがつかぬ声。瞬時にいつも自分の後ろを付いて歩いていた愛しき幼い弟を思い出したが、弟とは何か違うものを届いた声に感じていた。
誰?
答えを期待して問いかけてみた訳ではなかったが、暗闇はそれに答えた。彼女の意識の中にするりと入って行く『何か』。そして彼女の視界に一気に暗闇ではない光の溢れる風景が広がって行った。
眩しさに翠玉の眼を細めて、恐る恐る開けた視界に初めに入ったのは鮮やかに弛たう蒼い海、濃い青の空。見たこともない不思議な植物が青々と緑色の葉を風に揺らしていた。白い砂浜では小波が引いては寄せてを繰り返している、その見事な風景を見下ろしている状態だった。自分はどうやら、空に浮いている状態らしい。穏やかな土地だった。
そこを後退りしながら深い海の色に似た髪の少年が、緊張した面持ちで目の前をじっと凝視していた。彼の視線の先を見るが彼女からは何も見えない、視線の先は草木の生い茂った密集地…何かが、潜んでいるのだろうか。
足が縺れたか、少年がぺたりと砂地に転がる。慌てて顔を上げたその顔が──恐怖に引きつった。同時に彼女の視界の端から、叢の中から飛び出して来た黒い影が現われる。黒い影を捉えようとした時には既に少年の目の前に来ていた。一度、二度、その程度の跳躍で。
少年は逃げようと立ち上がろうとしたが、間に合わなかった。反射か、左腕を上げ──わずかに身体の重点が右にずれた。影が重なるその一瞬、彼女は見ていられなくて目を掌で覆った。
絶叫。完全に混乱した声が平和な空間を壊した。言葉とならないそれが、波の様に幼い身体から溢れてくる。それは暗闇で初めに聞いた声だった。
そろりと、彼女は掌を避けて瞼を薄く開け、見えて来た光景に顔をしかめた。黒い影は豹鬼だった…それが少年に覆い被さり、食い付いた肩に更に牙を押し込もうと唸り声を上げて頭を揺さぶっている。その度に少年が声を上げ、小さな手足を動かして其処から逃げようとしていた。
その影に重なる様に砂がじわりじわりと赤く染まって行く。
不意に豹鬼が少年を放り投げる。石ころの様に砂浜に転がり、其処から動かなくなった。
ざわり。
彼女の胸中が穏やかではなくなる。
豹鬼が近寄り、前足で数度彼を転がした。数本の赤い線が、白いシャツにいくつも現れる。転がる度に傷が痛むのか、小さい呻きが少年から漏れていた。
豹鬼が何かを考える様に少年を見下ろしていた時、セルジュ、と低い声が聞こえた。
声がした方を見る。其処には彼と良く似た髪の色を持った男が驚愕の表情で棒立ちになっていた。その後ろから、後を追って来たらしい他の大人たちが口々に何かを口走りはじめる。
彼の声が聞こえていた豹鬼が、一度だけ彼を見、足元の少年の腕にかぶりついた。そのまま男の方向より反対方向へ駆け出す───逃げる気だ。『餌』を持って。
セルジュ、と再度男が叫ぶ。少年からの答えはない。足をとられる砂浜で男は走り出した。後ろから他の大人の数人が槍を振り投げるも、豹鬼はそれをかわし、尚も少年を引き摺り走って行く。先頭を走っていた男が砂浜に突き刺さった槍を持ち上げ、狙いを定めた。
勢い良く飛ばされた槍は豹鬼の背を浅く切り裂く。危険を感じたか黒い影は少年を離し、自分を傷つけた男に向かって唸りはじめる。飛び出そうとした瞬間目の前に別の男からの槍が突き刺さり、今度はその男の方へ向かって走り出した。更に大人たちが槍を持って応戦する。
一度だけ、男は豹鬼を囲んでいる者達を見た。囲んでいる者の一人が其れに気付き、少年の方を指差すのを見、軽く頷いてから彼は少年へと駆け寄った。ジーンズのポケットに入れていたらしいバンダナを取り出しながら横たわる少年のすぐ傍で膝を折り、恐る恐る、彼に触れた。
セルジュ、と先程から繰り返す言葉が現れる。抱き抱えて、何度も何度も繰り替えされる。セルジュと言う言葉がその少年の名前だと言う事に気付いたのはこの時だった。
セルジュ。
再度繰り替えされた呼び掛けに、漸く閉じられていた目を少年が開けた。小さな唇が震えながら動いたのは見えたが、それは声にならなかったのだろうか、彼女には届かなかった。光を失った夏の空色の瞳から、頬へ雫が流れて行く。あくまで静かな涙が、つらりと頬を渡り、赤く染め上がった砂に落ちて行く。いたいよと、少年が呟いた。その声を聞いた男が苦渋の表情を浮かべ、バンダナで押さえた左肩の傷に触れぬ様、少年を抱き締めた。
遠くから、女性の悲鳴が聞こえてきた。走り出したその女性は男と少年の元へ向かい、涙を流しながら男の腕の中でぼろぼろになっている少年の頬を包む。何度も名を呼び、少年の意識を落とすまいとしているようでもあった。この人は母親なのだろう。
傷は深い。この島の人間の力では塞げぬ。
闇が呟いた。目の前の風景は風の様に流れて行く。島にいる数人の医師が首を横に振る様を少年の両親が見つめているのを何度も見た。それはどれだけ絶望的な事か。その間にも少年の血は止まる事はなく、刻一刻と彼は死に近付いているのだ。それでも、首の骨を噛み砕かれていなかった分まだ余裕はあったのだろうが。
風景が流れ、船に乗り込む男の姿が見えた。その後少年を抱き抱え、船は他の者達に見守られながら海の上を滑りはじめる。
亜人と呼ばれる人ならざる者の所へ連れて行く様だ。
闇が、再度呟く。
しかし亜人もあの傷は無理だろう。彼はそのまま、亜人の島で死ぬ事になる。
『死』。
ざわざわと胸が騒ぐ。それを知ってか、闇は彼女に問いかける様に言った。
彼の子を、助けたいか?
海が、荒れる。方向感覚をなくした船の進む方向は確実にずれて行く。
彼等が辿り着いた場所は、現在の文明では信じられない程の高度な建物が聳え立つ場所。
……その子を……
彼女の声が、闇を通して伝わって行く。
……その子を、私の所に……
傷による発熱に魘される少年を背負い、見たこともない建物の中を進んで行く男が辿り着いた場所。機械の配線がむき出しになって床に絡まる様に伸びている部屋。高い天井の中、見上げる其処には、細い器具で周囲を覆われた赤い塊が荘厳と彼等を見下ろしている。目等ないはずなのに、目が合った様な気がした。
赤黒い光が、走った。それは本当に一瞬の事で、部屋全体に渡ったのかも判らなかった。次の瞬間には男は姿を消し、闇が少年を覆っていた。
目の前に、彼女の目の前に少年が闇に横たわる様に居た。
そっと、傷だらけの少年に近付く。何故か少年の姿は豹鬼に襲われた時のものとなっていたが、肩の傷は闇の力により一時的に止められている様だ、熱も痛みもなさそうな、穏やかな表情で闇に横たわっている。
白く細い指で、幼子の頬に触れてみた。柔らかく張りの良い頬を撫で、海色の髪をかきあげる。そして、闇に浮かぶその小さな身体を、ゆうるりと抱き抱えた。胸の中であどけない面持ちの少年を見ると、不思議と笑みが溢れてくる。
本当に、不思議だ。
彼を見ていると、今迄味わった事のない感覚が込み上げてくる。
やっと戻って来たような、得られたような、この上ない至福のような感情が胸の内にある。
不思議な、感覚。
ほんの少しの身じろぎをした後、薄らと少年の瞳が開く。彼女を見て暫し瞬いた。彼女の眼をじっと見てから、彼は自分の身体の状態に気付いたのか少しだけ首を巡らせて、最後に再度彼女を見る。
「ここ、どこ?」
彼女の膝の上から立ち上がり、それでも彼女から離れず、周りを見回している。
「此所は…時空の狭間。全てを認めし無の空間。 …全てを拒否しうる無の空間」
その言葉は少年に理解を求めるにはまだ難しかった。だが彼女はそう答えるしか、この闇を言葉にする方法が今は思い付かなかった。首を傾げて、少年は彼女に問いかける。
「どうして、ここにいるの?」
「………」
淡く、淡く微笑む。
「無に、還りたいから………」
言葉の意味は伝わらなかっただろう。しかし、彼女の思いはもしかしたら声色に乗せられて伝わったのかもしれない。
不思議そうに見上げていた少年の面持ちが、哀しみの色に染まって行った。
握りしめられていた服が、更に強く握りしめられる。縋り付いてくる身体が、どうしてと問いかけているのが判る。
どうして、ならどうして。
「ぼくはあなたといるの?」
夏の空を連想させる蒼い瞳から、涙が溢れて頬を流れる。暫く乾いていたのに、また溢れさせてしまったと、涙を見て彼女が思う。
先程迄この少年が流していた涙。それは、痛みと、苦しみと、死にたくないという必死の叫び。生きていたいと、強く望む、彼の想い。
とても、とても強い想い。
頬に流れた涙を指先ですくいとる。頬についた乾いた血の痕を撫でて、彼女は少年に言う。
「…貴方を、死なせたくなかった…」
遠くでふわりと、禍々しい光が灯る。
振り向くと其処に合った光は、赤く燃える炎の様な…それでいてとても冷たい輝きだった。自分と同じ原罪でありこの闇の主が、姿を現した。
揺らめく赤い光、其れは何処か少年に来よと呼び掛けているようでもある。
赤く暖かい筈の色なのに何故だか凍えた雰囲気を周囲に振りまく初めて見た闇の本性に、彼女は微かに恐れの意を抱く。
「あれ、なに?」
彼もまた恐怖を感じていたのだろうか、震える声で呟き、あの光から逃げる様に彼女の身体にしがみ付く。
彼女もまたその存在の名を知らなかった。ただ闇の本当の姿としか、大きな力の、ほんの欠片としか。もしかしたら名は無いのかもしれないとふと思いが過る。だから、眼で見えたものが、口に出た。
「…凍てついた、炎。無から生まれし、歪んだ光を持つ生なるもの…
貴方の傷を治してくれるの」
「…ぼくの?」
彼女を見上げた彼に、是と答える。そろりと、少年が振り向いて赤い輝きを見た。ゆらゆらと風になびく様に広がって行く赤い光、一瞬、彼に向かって光が伸びた気がした。彼もそう見えたのだろうか、声を押し殺す様な音が微かに聞こえた。
「…やだ」
ふるふると首を横に振り、彼女に抱き着く。
「やだ、こわい。」
怯えを含んだ声に、彼女はほんの少しだけ眼を伏せる。
「こわいよ、あれ… やだ、やだ…っ」
「…大丈夫」
肩を震わせて光を見ようとしない少年に彼女は出来る限り柔らかく、優しくその背を撫でた。確かにあの光は彼女にとっても恐れを感じるものであった。けれど、その光が強大な力を持っている事も、その力により少年の傷を癒す事が出来るのも事実だ。少年の命の綱を断ち切られぬ様にするには、あの光に頼る他なかった。
優しく、背を摩る。海の色に似た髪を撫で、彼女はそっと口づけた。
「私が居るわ」
囁く様に言葉を紡ぐ。
「私が傍に居るわ、貴方が怖くない様に。一緒に居るわ…」
「…ほんとに?」
「ええ、本当。だから、傷を治してもらいましょう?」
少年が顔をあげる。まだ何処か迷っている様で、不安の色が混じった面持ちを浮かべている。ふと少年が瞬きを繰り返す。
「おねえちゃん、なんて言うの?」
今度は彼女が眼を瞬かせた。今迄名を聞かれていなかった事に気付かなかった、知らず苦笑が浮かぶ。
「…サラ。サラ=ジールよ」
「さら。 さら、ほんと?」
「ええ」
「ほんとに、いっしょにいてくれる?」
「一緒に居るわ」
暫しの沈黙、少年は言葉のないまま彼女を見つめた。
「ぎゅって、しててくれる?」
「…ええ」
その言葉の後は更に沈黙が続く。やがて少年は意を決したのか、彼女に身を寄せて眼を閉じる。彼女もまた少年の背に回していた腕に、少しだけ力を入れて抱き寄せる。
赤き光が、輝き出す。
光の波動が波の様に動きだし、光の元がそれに溶け出して行くかの様に形を崩して行く。
光が、少年へと向かって走る。形を崩した光の元がそれを辿り、彼女の腕をすり抜け、少年の背から身体の中へと入り込む。彼の身体がぼんやりと赤く光り出す。
肩や身体の傷に赤き光が集まる、光の粒が一粒、また一粒と傷に触れ、傷が見る間に癒えて行った。
最後には彼の身体の傷は跡形もなくなっていた。
よかった、と彼女が思う。これで彼は生の糸を断ち切られずにすんだと。これからもまた、生きていけると。
ただこの時彼女は、ひとつの事を忘れていた。
得たり。
声が、響く。
新たなる力を得たり。
…何を、得たと?
呆然と声を聞く。
抱き締めた少年の身体が赤く光る。
新たなる調停者を得たり。
我を導く定めを持つ者を得たり。
我を解放すべく力を与える者を得たり。
眼を、見開く。知らぬ内に彼の子を抱く腕に力が入る。
…調停者。
この子もまた……自分や、自分の周囲に居た形のみの存在になると?
少年の手の力が抜けて行く、そのまま光に連れて行かれるかの様に、彼女の腕をすり抜けて彼の身体が闇に浮かぶ。
「待って…待って。
炎、お願い、待って!」
辛うじて少年の手を握りしめた。視点の彷徨わない少年の手を離すまいとするが、何故か力が入らない。手放してしまいそうになるのに彼女は強い危機感を感じた。手放しては行けないと、心の中で警鐘が鳴っている。
握りしめている幼い手の指が微かに動いた。自分の指が握りしめられている。なのに、自分の手は力が入らない、ゆるりと手が離れて行く。
さら、と少年が彼女を呼んだ次の瞬間、手は、離れた。
嫌。
心が叫ぶ。
また、手放してしまうのは……また離れるのは、嫌だ───
心の中でざらりと風が吹いて行く。
それはとても遠くから吹いてくる風。懐かしく、哀しく、嬉しいものを乗せてくる風。その中のひとつ、それはとても大事な事だった。
そこで、彼女は気付く。
暗闇の中で常にあった、その違和感の正体を。
──なんて事だ。
前は、自分から手放した。自分の運命に巻き込んでしまいそうだと気付いていたから、わざと手放して、彼の幸福を願った。そしてもしも次に会えた時は、何時迄も一緒に居たいと思っていたのに……
今自分は何処にいるだろう。自分は何を考えていただろう。自分は、何時迄このままでいるのだろう。
そして──彼は? 自分の運命から解き放とうと手を離した彼は、今何処にいる? 彼は何処へ行ってしまう?
その手を離したら、次はあるのだろうか?
離れたくない──────!
彼女の身体が赤き光とは違う金の光に包まれた。金の光は彼女の形を二つに分け、片方が彼を追い掛けて行く。片方は、力つきたのかそのまま闇に横たわる。最後の力だったのだろう。
そろそろと光が輝きを失って行く、最後に残ったのは、金の輝きを宿した髪を持つ、幼き少女の姿だった。冷えた空の色の瞳を辛うじて開け、少年と少年を追い掛ける分身を見る。
導いて。
唇はそう象ったが、声はなかった。ゆっくりと、瞳を閉じる。
身体が何かに包まれる感覚を覚えたが、彼女の意識が浮かび上がる事はなかった。そのまま闇の底へ、目覚めの時が来る迄。
春から夏へ季節が移る頃だった。さらさらとした風が森の中になびき、葉ずれの音が一面に響いている。菫色の髪を肩迄伸ばした女性が森の中を歩いていた。隣では人の形に少しだけ似た機械人形が、かしょかしょと音を立てて歩みを進めている。
女性が森の中で何かを見、立ち止まった。瞬き、眼を凝らす。間違いなく森の中で何かが光っていた。
草を掻き分け、中へ入ってみると其処にあったのは光を灯したペンダント、そして、それを身につけている赤子。
気になる事があったのか、一時彼女はその赤子を凝視した。腰に手を置いてじっと見つめ…納得したのか、ふ、と笑みを漏らす。その赤子に手を伸ばし、抱き上げる。赤子は起きた様子はなく、まだすやすやと心地の良い眠りについていた。
彼女は赤子を抱き抱え、歩き出す。
さらさらと、風が森の中で流れて行く季節だった。