「っか〜! やっぱ動いた後の酒はいいな!」
「…カーシュ、親父くさいぞ、それは」
 ジョッキを一気飲みする親友を横目に、彼も届いたばかりのビールに口を付けた。何やら心底嬉しそうに飲んでいるのを見ると、つられて自分も顔が微笑む。暑苦しかった日の終わりの冷えた酒は、やはり最高だからか。
 今日はいつもよりも気温も高く、湿気が酷かった為に一層じめじめとした空気の中を歩き回っていた。流石のカーシュもこれには参ったのか、バーの前で再び会った時は藤色の長い髪を無造作に束ね、薄いYシャツにズボン姿になっていた。イシトが声を無くして見ていたのは言うまでもないのだろう。
 うるさいな、とカーシュは隣でちびちびと酒を飲む親友を見つつ言う。
「これが俺の楽しみ方なんだよ」
「……君の趣味には、口を挟まないつもりではいるが……」
 その次に出て来そうになった言葉を、彼は何とか押し止めた。多分、何を言っても今の状態では意味が無いだろうと思ったのだ。
 洗い立てで湿っている金髪をかきあげて、その言葉を飲み込む様に、再び酒を口にする。 はたと何かを気付き、碧眼を隣で酒を追加しているカーシュに向けて、イシトが口を開く。
「別にどう楽しんだって構わないが、あまり飲むなよ」
「あぁ?どうしてだよ」
「お前、最近疲れてはいないのか?」
 ぱしぱしと紅の瞳をしばたかせて、カーシュはイシトに声無き疑問を投げかける。
「最近、調子悪そうに見えるんだが……自覚無いのか?」
「全然。俺としては普通のつもりではいたんだが。それに皆も同じ位無理してるだろ、それを言うならお前さんも含んでいるんじゃないのか?」
「私は休める時に休ませてもらってる。」
「だろ?俺も同じさ。だから気のせいだ」
 ……はぐらかされた気がする。
 少々眉を潜めてカーシュを凝視したが、彼は一向に気にする素振りを見せなかったので、イシトは軽く息をついて諦めた。確かに今見れば気のせいだったかもしれないと思えるが……今日彼と共に行動したリデルと同意見になったのだから、もしかしたら隠しているだけなのかもしれないとも考えられる。
 今は仲間総出で島中を駆け巡っている、かれこれ一週間は経っているのだ、幾ら強靱な体力を持っている彼でも疲れは出て来るだろうに。
 現に、実はイシトも大分疲れが溜まって来ていた。しかし仲間の迷惑はかけられまいと、彼なりに身体の負担を軽くする努力をしている。それだけで全部の疲れが癒せる訳も無く……気休め程度でしかないのだが。
 く、とビールを喉に流し込んだ。冷たくぴりぴりしたものが口の中を通り過ぎ、消えて行く。ふっと息をついてイシトは軽く頭を振った。こんな時はあまり考え込むのは良く無い、ストレスとなって胃に辿り着いてしまうのは、今は避けたいので、彼は思考を止めた。
 そんなに根詰めないで、と言ったあの少年の事を思い出したのもあるか。
「なあ、お前どう思う」
「何が?」
「もしあのでっかい塔への道が見つからなかったら」
 ざわざわとした周囲の喧噪が一気に消え失せた気がした。聞き間違いをしたのだろうかとも思った。
 顔の色を失っていたのだろう、顔を見合わせたカーシュは、とても苦い笑いを浮かべた。
「やっぱり疲れているんじゃないのか? カーシュ」
「だから、別に疲れてねーよ。もしそうなったらどうするんだって聞いたんだ」
「そんな事……」
 あってはならない、そうは思う。
 だが、もしあってしまったらどうするのだろうか、自分達はどうするだろうか……あの塔に自分達を待つ、彼等はどうするのだろうか。考え始めればその疑問符は滝の様に流れて行った。
 あってしまったらどうするか、自分達は。自分達なら閉口してしまうのではないだろうか。この島内の隅から隅へと捜しまわってもないと来たら。この箱庭の中で学んで来た以外の術を、彼等は知らない。
 自分ならどうするか、自分なら………恐らく己の身の危険を顧みずに国の飛空機を奪ってくるのではないだろうか。彼にも、それ以外の方法が浮かばなかった。しかしその考えもまた、長い時間を要するものだった。ここから外へと出るには、潮の流れが落ち着くまで待たなくてはならないのだ。その頃まで彼等が待っているとは思わない。逆に、向こうからこちらへと出向いてくるのではないだろうか。
 だが、それでは遅いのだ、その時はもう、炎を完全に取り込んでしまっているのだろうから。
 がたんと目の前で鳴った音で目が醒める。
 見ると、新たに注がれたビールが冷えたジョッキに溢れんばかりになっていた。それを置いた本人──申し訳が無いが、暫く存在を忘れていた──カーシュがに、と笑って置いたジョッキの取っ手をイシトに向けた。
「わりぃ。こういう事話すとお前考え込んじまうもんな。俺の思慮が浅かった」
「…私の考え込むのは癖だからな。気にしないでくれ、逆にお前の事暫く忘れていた私が謝らねば。
 ……しかし、どうしてそんな事を?」
「いや、な。最近、ふっと思うんだ」
 肩を軽くすくめて、カーシュはビールを一口飲み込んだ。
「今の状況だって同じ様なもんだ。もしあそこであいつが死ななかったら、もしあいつが死んだら、それだけでこの世界は真っ二つ。混乱した旅の始まり。
 そう思ったらこの世界何処にだって『もし』があるんだよな。たったひとつの選択で自分の先が全く違うもになるんだ。
 そこで俺は今の状況を考えた。じゃあ、今の『もし』は?」
 『もし』、自分達が、あの塔の行く術を見つける事が出来なかったら──
「……考えたくもないな」
 横から流れてくる、前髪をイシトは掻き揚げて唸った。今の時間のこの酒場は一番人が集まる頃で、今日も同じく人が街のあちこちから詰め寄り、それぞれ騒いで酔いを楽しんでいた。
 その中、ここだけがずんと重力が重たい。カーシュは相変わらず平常を装っていたが、藤色の髪の隙間から覗く紅の瞳は微かに色を落としていた。イシトは隠す事も出来ず、口を抑えて黙り込んでいた。
 今一瞬、二人とも、最悪の状況を想像してしまったのだ。
 もし見つからなかったら──向こうが痺れをきらしてやってくる、そこは何となく判っていた。問題はその後だ……その後、やってきた彼等と対峙して、自分達は────
「やけに大人しいね」
 ぱっと二人同時に顔を上げて、声が上がった方を見た。深海色の髪を濡らした少年が、テーブル越しに二人を見ていた。呆気にとられた二人の面持ちに、夏空の光を持った瞳が可笑しそうに細められる。
「ご免、邪魔だった?ちょっと覗いてみたら、二人が居たものだから。」
「別に邪魔じゃねぇが……お前どうした?寝てなかったのか」
「うん…ちょっと眠れなくて」
 またか、と呆れたようにカーシュがセルジュを見るのを、ちらりと横目でイシトが眺めていた。カーシュの話では、彼は現在孤島の小屋で眠っている少女の事が気になっているのだと言う。今の状況では様子を見に行く事も侭ならない。会いたい、という気持ちを無理矢理しまい込んで、今彼は目の前を向いているのだと言う。
 見た目では落ち着いては、いる様なのだが。其れどころか、少女との再開を果す前に比べたら、全く印象が違うのだ。強く、しかし静かながらに、それは伝わって来る。
「セルジュ、立ち話もなんだ、座ってくれ」
 イシトの言葉に広いソファを独り占めしていたカーシュが、少年……セルジュの側のスペースを開けて手招きした。やってきたウェイトレスに適当なものを頼みつつセルジュが其処に座ると、微かな潮の香りがふわりと香る。それに気付いたのはあまりその匂いに慣れていないイシトだけであった。
「……海に潜って来たのか?」
「あー、判る? ちょっと部屋暑かったから、後でちゃんと水浴びするよ」
 ちらりと一瞬カーシュの方へと視線を向けてから、苦笑いを浮かべて言う。彼の視線の意味がそれを心配してだったのかは判らないが、カーシュは憮然とした表情だった。
「お前、テルミナだからって、一人じゃ危ねぇだろ」
「大丈夫だよ、傍に人だかりあったし。何かやってたらしくて……何かあったらその人達が気付くだろうし」
「それじゃ大丈夫だとは言えねぇよ、ったく……」
 がしがしと髪をくしゃくしゃにして、うんざりとした表情のカーシュにセルジュはご免、と謝った。
 その様子を見つつ、カーシュの疲労は、ここからも来るんじゃないだろうかとイシトはぼんやりと考えていた。そして先程の事を思い出し、注文してやってきた酒に口を付けていたセルジュに向かって、言葉を紡ぐ。
「なあ、セルジュ。君はもし──」
「…イシト」
「言わせてくれ、私は彼の意見を聞いてみたい。
 ……………もし君は、星の塔への道程が見つからなかったら……どうする?」
「見つけるよ」
 迷う事無くセルジュはイシトの問いにはっきりと答えた。
「絶対見つけてみせる。向うは、僕らが辿り着くのをずっと待っているから。」
「ずっとって……まさかだろ? 向うの準備が整ったらすぐにでも……」
 ううん、と彼は首を横に振る。
「待っているんだ、ずっと。僕が旅をやめない限り、ずっと待ち続けてる。
 ……何となく、判るんだ。多分炎を通してなんだろうけど。」
 はっとして、二人はこの淡い笑みを浮かべた少年を見据えた。彼自身がそれ程認識している訳ではないのであまりその実感が掴めないのだが、それでも間違えようもなく、彼は炎…凍てついた炎の調停者なのだ。
 と言っても、カーシュにもイシトにも、他の仲間にも調停者というものがあまりうまく掴めていなかった。ただ只管に炎と「近しい」ものとしか判っていないからか。
 それにね、とセルジュは言葉を付け加える。
「取り越し苦労だよ、どんなにそんな事を考えても……僕もよく考えてしまうけど……結局は自分が選べるのはひとつの道だけだ。
 あとはそれを、どうやって選ぶのかだけ。
 先の事なんて判らない、判りたくも無い、決めつけられたくも無い……だから、僕は前に進むんだ。
 前に進めば、なんとかなるんだから。」
 そう考える様にしてる、と最後に呟いて、酒を飲み込もうと口に近付けた時。彼の背をばしりとカーシュが叩いたので、危うくセルジュは酒をこぼしそうになった。同時に痛みがじんわりと走って来たのか、抗議の声も上がる事なく、両手でグラスを落とさぬ様持ちつつ、俯いて痛みに耐えていた。
「わり、俺が言い始めたんだ。ったく本当に俺らしくねーぜ、そうだな、取り合えずがむしゃらに前に進むしかねーよな。
 お前もいい事言うもんだ、おい、ちょっと待ってろ、いいもん持ってきてやる」
 明らかに上機嫌でソファから立ち上がると、彼はにこにこ顔で向こうのカウンターへと消えて行った。なんとか痛みが和らいで来たのか、涙目になりつつもセルジュが顔を上げて、カーシュが通った方へと視線を向ける。
「カーシュ、酒入ってる?妙にテンションがおかしいんだけど……」
「それ程飲んでいる訳でもないんだが…」
 疲れが溜まっているのではないだろうか、と続けようとしたが、イシトはそこで言葉を切った。セルジュは先程の事を言い、楽天的な所を持ちながらも、仲間の中で特に疲労を溜めやすい性格だった。自分の事をよく気にかけてくれる人物が疲れている等と知ったら、自分の所為じゃないかと思いはじめるのではないだろうかと、少しだけ不安になったのだ。
 多分、それも一理あるにはあるが……それだけではないだろうとイシトは踏んでいる。故に、言う事は躊躇われた。
 つ、とセルジュが右手をイシトに向けて差し出した。
「…?」
 つられて、イシトも右手を上げてセルジュの手に近付ける。軽く指だけを囲む様に手の先を握り、自分を見る少年が困った様に微笑む。
「あまり無理しないでって言ってるんだけどな」
「…あ」
 しまった、といった面持ちに、くすくすとセルジュが笑う。
「イシトは一息ついてる時、無意識に疲れとか表に出やすいから。今一番暑い時期だから、あまり無理はしないで。」
「……ああ、判った。しかし、君も同様だぞ」
「大丈夫、今はキッドがいるから」
 ──例え、その瞳が自分を見る事が、今は無くても。
 ただ傍にいるだけで、どうしてここまで落ち着いた瞳を持つ…いや、取り戻す事が出来るのだろう。イシトは不思議でならない。あの赤い少女の何処に、彼をここまでさせるものがあるのか。
 実際に顔を合わせ、会話のようなものをした事がない彼には、彼女の知識が足りなかった。だが彼に問う事はしなかった。彼に問うよりも、実際に起きた彼女と話をしてみたかった。
「イシト達の方の皆、元気?
 リデルさんが居てくれるからまだ安心出来るけど……カーシュとかもすれ違いが多くて最近全く会ってなかったから。」
「何とか元気だ。だが今日の暑さには流石に皆ばててね、早めに切り上げてしまった。」
「本当に、無理しないで。そうも言ってられる状況じゃないのは判ってるけど」
 指を握る掌が少し強くなる、真直ぐに見つめられた瞳を受けて、イシトは苦笑しつつ頷いた。
 全く変わる事のない、彼の姿勢。それに苦笑せざるえないのだ。
 自分より他人、という彼の姿勢に。
「……仲良く手繋いで何やってんだ?」
 その光景を、カーシュは不思議そうに見下ろしていた。手に数個のグラスを持って、片手には淡い琥珀色の液体を入れた瓶を持って。
「ちょっとね。所でカーシュ、それは一体なんだ?」
「ふっふっふ、カーシュ様特製『アカシアカクテル』だ!」
 ソファの向こう側にセルジュがずれると、カーシュがどすりと空いた所に座り込んで瓶をテーブルに置いた。……向こうで何やらやっていたのは、これだったのか。
「……カーシュが考えたの?」
「いや?何処かの遠征で初めて飲んで気に入ったんで自分用にちょっと手を加えて造ってみたら、これがまあうまくいってな」
「……カーシュって結構行動派だよね……」
 呆れと、尊敬の入り交じった表情でセルジュがカーシュを見た。当の本人と言えば、楽しそうにグラスにカクテルを注いでいた。とぷとぷと音と立てて琥珀色の液体がグラスへと移動していく。
「味は保証するぞ、濃さは水でも炭酸でも足してどうにかすりゃいい。 イシトはどうする?」
 満面の笑みで振り向いた親友が彼には異様に可笑しくて、笑いを隠し切れずに顔を歪ませたまま、彼は答えた。
「ああ、頂こう」

 宵はまだ、訪れたばかりだった。

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