哀しい夢を見た。
 朧げにしか覚えていない父親が、去って行く夢だ。
 父さん、とその背に向かって叫ぶ。
 父親は、振り返らない。
 父さん、と再度叫ぶ。手を伸ばして、その腕にすがりつきたかった。どんな事をしてでもその歩みを止めたかった。止めなければ、彼は去ってしまうのだから。
 お願いだから行かないで。
 走り出そうとして、何かに躓いて転んだ。見ると、足下から腰にかけて、蔓の様なものが幾多も絡まり、肌に食い込んでいた。
 顔を上げた。父の背が、とても小さくなっていた。
 お願いだから。
 行かないでと、自分が代わりに居なくなるからと、懇願するように叫ぶ。
 行かないで。行かないで…。
 頬が、涙に濡れて行った。視界がぼやける間にも父の姿は小さくなって行く。
 自分の中にいる傷がじくじくと痛み出して来る、父を失う切っ掛けをつくってしまった自分が持った傷が疼く。
 涙が、真っ暗な空間に音を立てて落ちた。

 母さんを、一人にさせないで…………




 父の姿は、見えなくなった。




















 ひやりと冷たいものが不意に額に乗っかかった、その冷たさに意識が浮上したのだろう、彼は至極ゆったりと目蓋を上げた。其処もまた漆黒の空間、だが、先程とは違い、微かな灯りがあちこちに反射しているらしい、何かの形を浮き出していた。それはよくみれば自分の部屋の天井の様で、ころりとベッドに寝転がった時に、よく見るものだ。
 右端に灯りが点っている。蝋燭程の小さいものの様だが、其処には物を置く場所等無かった筈だ。何故其処に光があるのだろうと、彼は首を動かした。
 眼が合った。柔らかく、その人は笑う。
「…母さん?」
 その人を、自分の母親を呼ぶ。いつもは別の部屋にいる母親が、今日は何故だか其処に居た。しかも夜、それもこの暗さから来ると夜中なのだろうに、寝ずにベッドの横に椅子まで引っ張りだして何をしているのだろうか。
 母親の手が伸びて、頬に触れた。ひたり、と冷たい感触が頬に伝わって、おかしいと思う。どうしてこんなに、冷たいのだろうか。
「相変わらずね、お前も。」
 苦い笑いを浮かべて、母親は息子の頬を撫でる。優しく優しく、労るその手。
 何だろうと思案していると、額にあったものが滑り落ちた。濡れたタオル、らしい。それを持ち上げようと、手を動かしたが、何だかその腕は重かった。上げようとしてそれに気付き動きを止めた一瞬の間に、その手拭は母親の手の中にあった。桶の中に入れられた氷水でそれを洗い直している。
 その桶は時々現れるものだった。それと一緒に、他のもの……灯籠等を置けるようにと、村の知り合いに造ってもらったワゴンがあった。それが出ていると言う事は。
 あ。
「…あれ」
「やっと気付いたのかしら?」
 腕が重い訳も、母親が此処にいる訳も、手が冷たかった訳も、これで全て判った。
「嘘、何時だろう。」
「午後よ、村長の所に行ってた時ね。村長にお手合わせをお願いしたそうね、その途中に倒れたから、打ち所を間違えたのだろうかと村長心配していたわよ」
「……ご免なさい。」
 苦い笑いが溢れて来る、記憶も段々と浮上して来て、その時の様子が思い出せるようになって来た。
 …そうだ、倒れたんだっけか。
「で、今回は?」
 母親に問われて、彼は、ふと視線をあさってに向けた。
「……判らなかったかも。一応、普通通りだったよ。」
「…困ったものね」
 濡らしたタオルを広げて、息子の頬を拭う。気持よさそうに目を細めて、自覚した所為か動く度に悲鳴を上げるようになって来た身体を少しだけ母親の方に寄せる。
 ぱたり、と重力に任せて落とすように、手を母親に向ける。
「まあ、困った子ね」
 呆れ顔に、口元に笑いを含んだ面持ちでその落ちた手を握る。息子もまた握り返して、幾ばくか、瞳が穏やかになったように思える。事実、母親の手をとった時、強張っていた身体が少しだけ緊張を解いた。ひおひおと、熱による身体の重みと熱さが意識に迫ってくるが、母の手を意識することで、気を紛らわす事が出来た。
 握りしめた息子の手の甲を空いた手でさすり、母親は優しく言葉を紡ぐ。
「この年になって、まだ母親に甘えるなんて、将来が心配だわ」
「明日までとは言わないから、少しだけ」
 否定する事なくその手を求める姿勢に、息子の容態が少々重い事を悟る、母親は一度その手を離し、タオルを氷水で冷やしてから息子の額に乗せた。気持ち良さそうにほっと息をつくのを見てから、延ばされたままの手を再度とる。
 皮膚が荒れ、かさかさしている指。普通この年の少年ならばもう少し健康的な手であっても良い筈なのに、水仕事を頻繁に行っている為荒れてしまっていた。嫌々ではなく彼が自発的にしている事なので、あまり強くは言えないけれどと、母親は心で呟く。
 もう少し。
「もう少し、楽に生きなさい。何もかも背負うには、一人では大きすぎるのよ」
「…」
 淡く、少年は微笑んだ。



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本編前の書き途中の話…うちのセルジュなんです、こういう方なんです。
本当に楽天ていう性格無視してますね…(ふ、ふふふ…)
マージさん捏造捏造、でももっと良い言葉を言ってくれると思うのです、本当は。私の知識が足りないんです…(めそ
今ではあんなにしっかりした人ですが、それでもやっぱり昔はセルジュの父がいなくなって寂しくて泣いたりはしただろうなあとか。セルジュはそれを見ていたんだろうなとか思ったのですよ。
じゃなかったら家事手伝いってジョブになってなかったと……(ほんとかよ