ぐらりと目の前が揺れていた。
振り向こうとした時だった、頭が振られた様にぐしゃりと揺れた気がした、平衡感覚は消え、何処が地なのかが判らなくなる。右手に持って居たグランドリームが重く……意識が遠のき……
どさり、と体中に音が鳴った。
「セルジュ!」
「しまった…っ」
二人の仲間の声を最後に、セルジュの意識は混濁の海の底へと潜り込んで行った。
[『夏空』の瞳]
「グレン、どうですか…」
鬱蒼とした森の中煌々と燃える火の前で座り込んでいたが、暗闇から現われた金髪の青年に驚く事も無く、グレンと呼ばれた青年は答えた。
「大丈夫だ。熱……あったらしい。今日は特に気温も高かったからそれで倒れたんだと思う。
今はもう引いてるし、呼吸も落ち着いてきた様だ。」
「そうですか……」
肩の緊張をほぐし、隣に座った青年を青眼で見てグレンは苦笑した。傷がある左頬を摩りつつ彼も息をつき、反対側で眠りについている3つ年下の少年を見つめる。深海色の髪、夏空の瞳を持つこの少年こそ、今エルニドで起っている事の中心に佇む、哀れな少年だった。
「イシト」
「何でしょう?」
隣で座っている……今先程迄辺りの様子を見ていてくれた青年にグレンは声をかけた。間を置く事なく、金髪碧眼の凛とした顔立ちの青年……イシトから返事が返ってくる。
「この事、暫くはカーシュ兄に内緒な。実はセルジュ……10日前にも倒れてるんだ。
その時はカーシュ兄一緒だったから知ってるし、今回の事もばれたら俺達を怒る前にセルジュに怒鳴ってしまうだろうから。ほんの暫くだけ」
「……そうですね」
藤色長髪の青年が、紅色の瞳を更に赤くさせて青筋を立てている様を想像し、苦笑しつつイシトは了承した。確かに、前科があるが故に……今回も起こらないとは断言出来ない。
「怒る理由も判るけどさ。今のセルジュ見ていると……必死になっているって事がよく判るから、言いにくいんだよな。」
グレンは延ばした手でセルジュの瞼にかかる前髪を横に流した。労る様に、自分の弟の様な存在のこの少年の頭を撫でる。
「……セルジュをよく知っているのですね、グレンは。」
「まさか! カーシュ兄達に比べたら、全然知らないさ。
…だけど、前のセルジュとはやっぱり違うんだよ…雰囲気が…柔らかそうだけど、何処か張り詰めていて、必死に前に進もうとしている。時々焦っているんじゃないかって思う位」
『あの出来事』の前の彼の行動はゆったりとしていた。何処か必ず余裕を持ち、だが忙しく前に進んでいた。とろいとキッドになじられてもふわりと微笑むだけでそのテンポを崩す事は無く、一歩ずつ、何かを踏みしめる様に歩いて来ていた。
だが『あの出来事』以降、ヤマネコの姿からもとの『セルジュ』へと戻った後の彼はどうだろうか。前にあったその余裕が何処かへ消えてしまった。何時もの微笑みは普段のままだが、前の彼を知っている者達はそれに何処か陰を落している事に気付いていた。そして只管に、前を見据えて走り出す。
何かを、追い求めるかの様に。
走り出すのは構わないのだが……自分の体の事に気付かず知らぬ内に倒れてしまうのが、彼等の周囲に居る仲間達の悩みの種だった。
「…私やカーシュが知っているセルジュは、ヤマネコになってしまっていたセルジュからですしね。そのほんの差に、どれだけ彼に影響を与えたのだろうか……想像も出来ません」
目を閉じ、イシトは軽く頭を振った。
「…そういや」
「?」
「イシトってカーシュ兄と結構仲いいよな。実は驚いたよ、カーシュ兄、イシトみたいなタイプは嫌いだと思ってたのに」
姿勢を崩し、先程とは全く違った顔を見せるグレン。に、と微笑んだその笑顔はまだ幼い所を見せつけるのに、イシトは苦笑しつつ自分も幾らか姿勢を崩した。足元に置いてあった枝に手をやり、目の前で赤く燃え上がる焚火を枝でつつく。
「君の考え通りに、元々は仲が悪かったんですけどね……私とカーシュは。」
「やっぱり?」
苦笑が消えぬまま目の前の火をいじり回す。炭と化した木を動かす度に火花が上がり、煙と共に舞い上がっていく。
「……顔を会わせると口喧嘩ばかりでしたね。パレポリの犬と言われたのは正直癇に障っていたし、彼も私の態度が気に入らなかった様でした。擦れ違いの口喧嘩なので決着がつかず、いつも誰か……セルジュが合間に入り宥めていたのが日常で…。ああ、その時はセルジュはヤマネコの姿をしていましたよ、念のため。…で、その所為か皆私達を会わせぬ様気を使っていましたが、セルジュだけはそれをしませんでした。時々は一緒に行動もしましたし……事情がある場合は我慢をしようと心がけていたのですが。
…ある日、私とカーシュ、どちらともが我慢の限界をこえて取っ組み合いになったのですよ。しかも、セルジュの目の前で。」
「うわあ……セルジュ、大変だったろうな」
苦笑いを浮かべてグレンはセルジュを見た。憤りを感じると途端に氷以上に冷たくなるイシトと、全く正反対に真っ赤に燃え上がる様に怒鳴り出すカーシュ。二人が争ったらそれは……恐ろしいものがあるだろう。
「所が。大変だったのは私達だったのですよ」
困った様に、『やはり』と言った表情のイシトにグレンは首を傾げた。
「……何故だ?」
「…………セルジュが怒ったんです」
「セルジュが!?」
大声を出してしまい、慌ててグレンは自分の口を塞ぎ、隣を見た。隣のセルジュは変らず寝息を立てているのを聞き、ほっと息を吐き……声を潜めてグレンは問いかける。
「…こいつ、カーシュ兄やイシトに怒ったのか?」
「やはり貴方でもセルジュが仲間に怒る所は見た事が無かったのですね……。
彼が怒っている所は何度か見た事があったのですが、どれも比では無かったですよ。
………取っ組み合いを続けていたら私達の方に何かが振って来たんです。
避けるのは容易でしたが、投げられたものを見て二人で仰天してしまいました。
何故なら、それはセルジュの武器だったのですから」
丁度二人の間に突き刺さったひとつの武器。それがセルジュのものだと確認した時には既にカーシュは声を荒げていた。
『おい小僧!てめぇなんてモン投げやがった!』
『……僕が何を投げたって?』
「カーシュは気付かずそのまま怒鳴り続けていましたが……私は後退りする気持ちを抑えてました。
セルジュはにこやかに笑っていましたが……何処か、怒気を感じたのです」
『ふざけるな、てめぇが投げないでこの武器は誰が投げる!?
邪魔すんじゃねぇよ、ったく……!?』
がごん、と記憶の中で音がする……岩石が投げつけられ地に落ちた音が。
『……邪魔? 大人げない喧嘩を邪魔して、何が悪い!?』
「その時に初めて私達……仲間に対して怒ったのですよ。
何時も何があろうとも怒鳴る事だけはした事のなかった彼が、初めて私達に対して顔を歪めて怒鳴り散らしたのです。……初めて、彼の口から聞いた事が無かった言葉を、聞く事になったんです」
「聞いた事が無かった言葉…?」
『莫迦だ、莫迦だよ。何でこんな事で喧嘩しなくちゃならないんだよ。
それが貴方達の誇り? それが貴方達のプライド? それが貴方達の為すべき事?
そうだったらそんなもの捨ててしまえ!只の『ヒト』の驕りの塊だ!』
「他人事なのですよ……私と、カーシュだけのいがみ合いなのですよ。
なのに彼が怒り……泣いてました。それには流石のカーシュも口を閉ざし……佇んでしまったのです。」
泣かせてしまったのは自分達だ……だが、どうして彼が泣くのか理由が判らなかった。片手で顔を覆い声を殺し泣き始めてしまった彼をどうする事も出来ないまま。
『どうして自分の事ばかり考えるんだよ?
二人共本当は良い人なのに。判りあえば、きっと二人とも気が合うのに。
自分の誇りを傷つけられた? その態度が気に食わない?
否定してるだけで見ようともしないで何を言ってるんだよッ!
おかしいよ、……そうやって、簡単に傷つけ合えるなんて、おかしい……
だって、二人とも『痛み』を知っているじゃないか?
傷つけた時の、傷つけられた時の『痛み』を……
二人共…痛い筈なのに……傷つけ合って、傷を更に深く開いて。
……痛くないの? …………判らないの?』
「……相手を思わない中傷に傷ついていたのです。
その言葉でどれだけそれを証明してしまった事か。
どれだけ……私達のいがみ合いが彼を傷つけてしまった事か。
理屈とか理由など関係無く、ただその事態が起こっているのが嫌なだけ。
……ヤマネコの姿をしていた彼が、その一瞬だけ……幼い少年に見えました。」
ぱきん、と火が弾けて煙にまかれていく。その根源を見つめたまま、イシトは暫く口を閉ざした。
まさかあの様な事で泣くなど、怒るなどと思ってはいなかった。『普通』の少年…外見は体格の良い亜人だったが…なのだと思っていた。……その考えを遥かに裏切っていた、彼は少し……心に敏感だった。
「どうしようも出来なくて戸惑いつつその場は皆戻りましたが、どうする事も出来ずに日々が過ぎました。
暫くセルジュは私達と顔を会わせる事を拒み、嫌われてしまったのだろうかと思い始めた時に…カーシュと久々に対面し、」
『……よう、小僧にこっぴどく嫌われた様だな』
『お前こそ会っていないんじゃないのか?』
『まあな。……怒らせたらやばい奴だったらしいな』
『ああ、これからは気をつける事にするよ。』
『…………ったく、しょーもねぇなあ』
『は?』
『おい、ちょっと付いてこい』
『ついてこいって……一体何処へ』
『決まってんだろ、テルミナのバーだ!』
「……カーシュ兄らしいな」
膝を抱え、すっかり傍聴態勢に入って居るグレンに苦笑し、イシトは肩をすくめた。
「そこから直行でバーに行き、朝まで店の樽を空け続けてました。
半分位までは覚えているのですが…後はもう記憶が無くて……
とにかくも酒の勢いで二人で言い合いを繰り返し、一晩明けたら今度は本音を言える、親しみやすい者になってしまったのですよ、カーシュとは」
「だからよく二人でバーに飲みに行くんだ。
いいなあ……俺も飲みたいけど、見習いだからなあ……」
不貞腐れて膝に頬をつけ、そのまま顔を反対側へと向かせてグレンはため息をつく。
「セルジュが二十になったら俺も大っぴらに飲める様になってるかな」
「なってますよ、君の腕なら大丈夫です」
そうか!?と上半身を起き上がらせてぱっと表情を明るくする青年に、イシトは苦笑いのまま頷いてみせた。
「へへ、人に言われると自信がつくんだよな! 有難う、イシト。
……あ、そーだ……」
「?何か」
「ずっと羨ましいと思ってたんだ。俺にだって丁寧語じゃなくていいんだからな」
虚を付かれたか呆気にとられたのか、イシトは一瞬対応を出せ無かった。セルジュと対を張る真直ぐで素直な瞳が真剣にこちらを見ているのに、幾度と知れない苦笑が込み上がる。
「……ああ、判ったよ、グレン」
「おはよ、グレン、イシト」
『……セルジュ!?』
朝の森の中に起きかけだった二人の声がはもり、微かな余韻を残した。二人の視線の先、深海色の髪の少年セルジュが可笑しそうに笑いつつ、頭にいつもの赤いバンダナを巻いている。
「ごめんね昨日、いきなり倒れて。でももう大丈夫だからいこっか?
場所はえ〜と……」
かぐんっ
突如片足が何かに蹴られてセルジュは態勢を崩し右手で身体を支えた。見上げると、左横にグレンが目を細めて突っ立っている。
「グレン?」
「なぁ〜にが大丈夫だよ。何時もなら片足が突然バランス崩しても持ち直すだろ?」
「え……」
今度は反対側から腕を掴まれ、彼の身体は空に浮かび辛うじて脚を地につかせた。振り向いて見るとイシトがにっこりと微笑んでセルジュの腕をしっかりと掴んでいる。
「さて、行こうか?」
「行くって………まさか」
「まさかでもなんでもない」
反対側の腕もグレンが掴み、彼もにか、と笑いかける。
「宿屋かドクの所か、どっちが良い?」
「……結局そうなるの?」
『当り前だ! 疲れきっている奴を誰が歩かせる!?』
重なった声が珍しく怒声だったのに、セルジュは身体を縮めた。
それから、と……セルジュを宿送りした後にイシトが呟いた。
「バーで二人、酔いつぶれていたのを、今のセルジュと同じく宿送りされてな。
気付いたらセルジュがいたんだ。隣のカーシュと小さく何か話をしていた。
暫くした後こちらに二人が気付き、カーシュと目があった途端吹き出してしまって。
その様子を見て、セルジュがにっこり笑った」
『良かった、和解出来たみたいだね』
自分の様に嬉しそうに言う彼の姿がふと影を背負うのに気付き、カーシュと見合わせたのをよく覚えている。
『…ごめん、怒鳴ったりして。傷つけるような事言って。
本当はそんな事を言うつもりじゃなかった……二人で解決しなきゃいけない事だった、他人が…僕が口出せる事じゃなかったけど、止まらなかった。
…はは、駄目だね……この身体になってから、随分と衝動が抑制出来ない』
───その時に、イシト達は最も重要な事を思い出した。この山猫の身体の持ち主は本来17歳の少年なのだ、という事を。今最も辛い思いを持っているのは、誰なのかという事を。
『……弱音をここで吐いたって仕方無いか。
ごめんね、取り合えず今日一日はゆっくり休んで、また明日から宜しく』
『…随分とこき使うな』
『んー、そうだね。多分これからもっとこき使うから』
『…本気か?』
『うん』
にこりと微笑んで、この部屋から去ろうとした時にカーシュは彼を留めた。きょとんと、不思議そうにカーシュを見返すセルジュ。
『……たまには弱音を吐いたっていいんだぜ?』
『…有難う』
その微笑があまりにも、弱々しくて。
ぱたんと扉が閉まった後、ふたりのため息が空間に響く。
『忘れていたな、すっかり』
『ああ。今は立っていられるが……』
『誰かが護ってやらなきゃな、か……』
「二人で、誓い合ったんだ。彼を護ろうと。
心を支えられる様に、彼を見ていようと」
それが今彼の傍にいる、自分達に出来る事なのだろう。
同意し頷くグレンに笑い、イシトは前を向いた。
もう、濁したくないから。
これ以上濁らせたくないから。
あの『夏空』の瞳を。
だから護ろうと、誓い合った。
「……さて、あいつになんて言い訳をしようか」
…不謹慎なのかもしれないが、こんな悩み事もたまにはいいものだなと、イシトは不意に思ってしまった。