※腐向けっぽいものがあるのでご注意くだせえ












(地下の大空洞?)

 天と地に消滅点が見える長い長い階段のど真ん中で、腰を下ろす男がひとり。
 三千を越えた地点で足が限界に達してとうとう歩みを止めてしまった。そこからまた再会する気力がなく、暫しの休息の為に、階段に座り込んでいた。
 仲間達もまた少し昇った所で皆へたり込んでいる。長い間各地を渡り歩いて来た人間でも、流石に終点の見えない階段は厳しいらしい。仲間のぼやく声がぽつりぽつり聞こえてくるなか、たん、たん、と靴音が聞こえて来た。隣に影が伸び、ゆるりとそれは自分と同じく腰を下ろす。
「折角昇ったのに、降りて来てどうするんだ、エルザ」
「これぽっち何にも変わらないよ」
「…いうなあ、お前」
 ふふ、と青と紺の眼を細めて、少年と青年の境を漂う面持ちの弟分が笑った。








(二度目の投獄、脱出後あたり。別名クォークとカナンの関係補完計画)

「やれやれ。本当に行動力だけは一丁前の姫様だな」
 溜息混じりの声に振り返れば、クォークが苦みが強い苦笑を浮かべてカナンを見ていた。
「ごめんなさい。けれど、既に何度もジルがエルザを殺そうとしていたから、あんな所で独りで居させるのはとても恐くて…」
「…知っていたのか」
 ゆるりと頷く。トリスタに叱咤を受けてそっと彼の行動を覗き見る様になって、周囲に黒い影がちらつき始めたのを知った。誰がエルザに影を添わせたのかなんて、考えるまでもない。影はエルザが独りになる時を只管に待っていた。そして中庭で、腰に穿いた剣を抜いた。
 考えている暇等、なかった。
 巻き込んでしまった、優しい人。これ以上自分の所為でひとり傷つくのは、見ていられなかった。
 あの場面を思い出すと、いまでも胸がきつく握られるようだ。眼を閉じて俯く、と、その頭に何かが乗る。
「…。えっ」
 眼を開けてみれば、大きな掌が頭の上にあった。クォークの掌だ。
「有難う」
「──あ…」
「心配かけて、すまない」
「…いいえ、わたし、こそ…」
「エルザの事、これからも頼むな」
 返事を聞かぬまま踵を返して、彼は去って行く。
その後ろ姿を、カナンは呆然と見送った。








(ユリエル。エルザを鳥と戯れさせたかっただけなんだけどなんかユーリスがいらっさった)

 早朝の人通りの少ない広間、空を見上げると、美しい翼を持った鳥達が崩れた建物をものともせず思い思いの場所に止まり、翼を休めている。
 そういえば、前に青い鳥から羽を何枚か貰った。肩に止まって鳥が羽ばたくと、羽が数枚ひらりひらりと落ちたのだ。きれいなあおを讃えた羽。
 不意に自分の髪飾りを見た。随分長い事つけていたので、もう羽が色あせ、ぼそぼそになっている。つけ直そうか、考え、やめる。
 もう既に、この羽も、彼との数少ない思い出のひとつとなってしまっていた。

 空を見上げた。す、と息を吸って、吐く。心地よい空気を味わって、再度息を吸った。
 今度は、吐く息に音を乗せる。もう呟く程にしか歌う事のなかった歌を奏でれば、鳥達が次々にこちらを向く。
 腕を差し出せば、一羽、また一羽、舞い降りてきてくれた。まだ自分の声は彼等に通じるのだと思うと少しばかり嬉しくなった。
 そのまま歌い続ける。鳥は次々に舞い降りて来て、ついに腕に止まり切れなくなった。周囲に集った鳥達を見て、徐に懐を探る。
 先日の任務で持って行った携帯固形食が残っていたのを思い出して取り出す、歌いながら細かく崩すと、腕に止まっていた鳥達が群がる。
「こら、こら。まだあるから急ぐなって」
 崩した分を床に散らして、また取り出す。鳥の声、羽ばたきの音、それらの音で他の音が聞こえなくなる。
 風が吹いた。石の匂いしかしないのが残念だ、緑の匂いがしたのなら、絶対に故郷を思い出したのに。
 今は、あの時の事しか思い出さない。
(お前、動物と話せるのか?)
「…エルザは動物と意思疎通ができるの?」
 不意に呼ばれて、振り返る。石柱に凭れて、ユーリスが呆れ顔でこちらを見ている。
「えっと、おはよう、ユーリス」
「おはようエルザ」
「…えっと、意思疎通って訳じゃない。ただ何となく、こういう風にしたら判ってくれるかな、ってくらいなんだ」
「通じてるんじゃないか」
「そ、そうかな」
 じろり、と半目で見つめて来るのに後退りそうになるのを堪える。けれど彼は動かないままで、いつもなら傍に来るのだが、と思った所で自分が鳥に囲まれている事を思い出した。やんわりと腕を振れば、鳥達は自分の住処に戻って行く。
「…良かったのに」
「良いんだ、そろそろ腕も疲れて来たし」
 服についていた携帯食の欠片を払い落として、ユーリスの下へと歩む。目の前まで行くと、ふと視線があまり下に行かない事に気付いた。
「ユーリス、背、伸びた?」
「ん? ああ…少しね。まだ成長期来てなかったから、そろそろだろうね」
「そうか…ユーリス、まだ大きくなるんだなあ」
「…父さんは結構背が高かったんだ。君くらいにはなるよ」
「えっ、そうなんだ」
 はあ、とユーリスが溜息をつくのにどきりとした。ユーリスの感情の機微は、エルザには判り難い。故にどうしてもひとつひとつの反応にびくついてしまう。
 ユーリスの右手が頬に伸びて来て、思い切り身体が跳ねてしまう。くつり、と彼が笑うのに顔に血が上っていくのが判った。
「意地悪しないよ。ただ、顔色があまり良くない、今日はあまり無理しない様にね」
「…ああ」
 誰の所為だ、と二人の関係を知るものが居ればツッコミが入っただろうが、今は入れられるものはいなかった。肩を竦めて、苦笑混じりにエルザが応えるとユーリスもまたやんわりと笑った。








(ユーリスとエルザがふたりでサンドイッチを食べてるだけ)

 はい、とユーリスが手渡して来たのは、スモークチキンを挟んだサンドイッチだった。レタスとトマトも挟まれていて彩りの良いパンを受け取ると、彼は隣に腰掛けて他のサンドイッチ袋を開いた。流石に魚ものはないか、とほっとしていると、じろりと睨み上げられている事に気付いた。
「…魚がなくて良かった、とか思ってるだろ」
「え!? いや、だって…」
「判ってるよ、まだそんなに食べられない事くらいは。チキンもそれひとつだけだから。とりあえず食べる事」
 最後に水筒を渡して、黙々とユーリスは自分の分を食べ始めた。それを見て、エルザもまたゆっくりと、手にしたパンを口元に寄せて、齧る。レタスの歯ごたえの良さとトマトの甘み、そしてスモークチキンの香ばしい匂いが口の中に広がっていった。
(…美味しい)
 ゆっくりと租借しながら思う。そうして、本当に最近の食事を味気なく感じていたのだな、と実感した。最も当時は味気ないとすら思っていたかどうか。考え過ぎだとは判っているが、けれど常に考え事をしながら食べていた様に思う。
 ユーリスが二つ目を食べ終える頃に、ようやく一つ目を食べ終えた。水筒の蓋を開けて、若干警戒しながら飲む。今日は極端な味がしない飲料にほっとし、ひとしきり飲む。そうして袋の中を覗いた。
 チキンは本当にもう入っていない。あとはチーズを挟んだもの、果物を挟んだものがある。少し迷って、チーズの挟まれたサンドイッチを取り上げた。
 食べれば、チーズの風味が広がって行くのと同時に、きゅうりの瑞々しさを感じた。入っていたらしい。
 ルリの野菜は本当に美味しい。本土でも野菜はない訳ではなかったが、どれもはりがなく、何処か味が濁る食感だった。
 此処でも食物は徐々にとれなくなっており、値はやや張るが、雇い主が破格の報酬を与えてくれたお陰で食べ物に必要な料金は困る事はなかった。
「きゅうりをまるごと食べたいな…」
 まるごとは流石に高い。そんな事を考えながらもらした呟きだったが、ユーリスにそれが通じる筈はなく。思い切り呆れられてしまった。
「本当に野菜好きだね…」
「ルリの野菜は美味しいだろう?」
「まあ、そうだけどさ」
「うん。でも、さ。
 ありがとう」
 唐突に言った自覚はある。やはりユーリスは眼をまるくしてエルザを凝視して来た。やんわり笑って、エルザは続けた。
「こうして美味しいってことを判るって言うのは、多分ユーリスがいるからだ。
 …あの時、判れば自分で何とかするって言ったけど、でも俺、一人だったら今みたいに美味いなって思わなかったと思うんだ。」
「そういえば、エルザは大概誰かと食べていたね。仲間がいなくても、酒場の誰かと一緒に食べてたりしてたし」
「そうだったみたいだ…。ずっと誰かと食べるのが当たり前になってて、気付かなかったよ」
 けれどここ最近は酒場に戻って食べる暇がなく、城での食事は、近頃は大概部屋で一人だ。騎士見習いの頃は正騎士に混ざって揉まれながらも大勢で食べていたから気付かなかった。
 自分で思っていたよりも、己は寂しがりやの様だ。
「昔、まだ俺が傭兵の仕事が出来なかった頃は、よくひとりで食べてたんだけどな…」
「…寧ろそれがあるから、一人の食事が好きじゃないんじゃないの」
「…そうだろうか」
「幼い頃に感じた事ってさ、大人になっても無意識に覚えてるものらしいよ。」
「そうか…」
「まあ、今の所僕は特にやらなきゃいけないことはないから。
 付き合ったげるから、食べる時は僕を呼びなよ。何かしてる訳じゃなかったら行ってあげるから」
 ユーリスの言葉にエルザはしばし目をしばたたかせ、そして破顔した。








(クォエル。騎士見習いになった日の宴会の夜。割と私のクォークはひどい)

 ぐしゅん、とくしゃみをしてエルザは眼を醒した。身体中のあちこちが痛い。堅い床で寝床で寝ていたのか、何処だ此処はと、どろどろの土に埋もれた様な意識でうろうろを周囲を見回すと、其処は拠点としている酒場だった。その椅子の一つに凭れる様にエルザは寝ていたらしい。
 ぐらぐらと揺れながら膝立ちになると、酒場の常連と仲間達の殆どが酒場のあちこちで雑魚寝をしているのが見える。珍しくユーリスも机に突っ伏して眠っていた、ジャッカルとセイレンに至っては仲良く床に大の字でいびきをかいている。マナミアは流石に部屋に戻っている様だ、実は傭兵団の中でも酒に強いのはマナミアとユーリスだったりするのだが、ユーリスは今回飲み方が違っていた。悪酔いしなければいいのだが、と少しばかり心配になる。
 そして今回、悪酔いするのではないかと思った人物が、見渡しても姿が見えなかった。
(…先に起きて部屋に戻ったかな)
 辺りは人の気配ひとつしない。そのまま寝直すのもどうかと思い、仲間には悪いが、一人階段を上り部屋へ戻ることにした。
 人の気配のない酒場の階段は、エルザの足音と、段を踏む度に軋む木の音を盛大に響かせた。一音一音聞く度に、酔いが薄れて行く。現実に戻って行く様な、気がした。
 全て一旦横において大騒ぎした自分が嘘の様だ。様々なことが脳裏をよぎり、目眩の様なものを感じて階段を上り切った所で一度足を止めた。目を閉じて、深呼吸をひとつ。
 …今日は本当に寝てしまおう。やや足を速めて、自分達の部屋へと急いだ。
 懐から鍵を取り出し、錠に挿し回した。が、外れた感触がない。おや、と戸の把手を回して戸を引けば、扉は呆気無く開く。
 下に居なかった者がやはり部屋に来ていたのだ。けれど鍵をかけないなんて不用心な、そう思いながら部屋に入り、ぎしり、とエルザは動きを止めた。
 部屋の中、寝台の端に腰掛けて、酒瓶を傾けている影がひとつ、あった。
 月明かりに照らされて、エルザからは本当に影の様にしか見えない。けれど、様子がいつもと違う事だけは判った。
 酒瓶から口を離し、溜息をひとつついてから影は、ゆるりと振り返った。それにエルザは何故か、逃げたくなった。けれど動けない。
 そうしている内に、影がゆるりと立ち上がる。酒瓶を床において、ごとん、ごとん、と重々しく靴音を立てて近付いて来る。
 ほんの数歩まで来て、ようよう影の面持ちが僅かに見える様になった。──その表情を見て、まだ閉めた訳ではない扉から後退って今度こそ逃げようとしたが、もう既に遅く。
 伸びて来た腕によって、扉が引き戻され、閉じられた。そしてそのまま内鍵をかける音が聞こえて、エルザの身体に緊張が走った。
 彼との距離は頭一つ分もない。目の前は彼のやや俯いた面持ちで満たされており、じわりと上がった体温がこの距離でも伝わってくる様だ。
 近すぎて、動けない。動いたら全てが崩れてしまいそうな…何かが終わってしまいそうな気がした。
 けれどそれもまた向こうから破られる。把手から離れた掌が、エルザの腕を掴んだ。そのまま撫でる様に、ゆるゆると上がって行く。肩を撫で、首筋を霞め…頬を包む体温。
「…クォーク」
 呼んで、とうとう、視線が本当に交り合ってしまった。
 嗚呼、とエルザは震えた音を吐く。
 交り合った彼の目は、…獣の目だった。








(ユーリスの風邪)

 ごほ、と痰が絡んだ咳がひとつ、ふたつ、静寂に包まれた部屋に響いた。
 混濁した意識が身体のあちこちの悲鳴を聞いている。身体の奥底でじりじりと燻る熱に、節々の音を立てて軋んでいるかのような痛み。
「あー…くそ」
 誰もいない部屋の中、寝台に深く沈みながら、ユーリスが悪態をついた。
 彼にしては久々の体調不良である。小さい頃から身体は強くなかったが故に体調管理には気をつけていたのだが、少し前になる騒動で、体力と精神力を使い切って弱っていたエルザが何とか自力で行動出来る様になった途端、今度は自分が倒れてしまった。
 自分以外の仲間達もいつもの調子とは言えなかったから、一番体力のないだろう自分が倒れてしまっても仕方ないような気もする。気もするだけだが。
 二日意識のない状態が続き、四日殆ど記憶にないが目が醒めたり眠りについたりを繰り返し、七日目に意識が浮上した。悪態がつけるということは喉が腫れてないと言う事で、それだけは本当に有り難かった。
 とんとん、と戸を叩く音が聞こえて、ユーリスは掠れ声で応える。顔をのぞかせて来たのはマナミアだった。
「起きてましたか、ユーリス」
「寝すぎて眠れないんだよ…」
 ごほ、と咳をひとつ。マナミアは微笑んで近付いて来て、枕元に置かれている氷袋に手を添え、首を傾げた。
「氷、入ってますね」
「ああ…少し前にジャッカルが来て、中に氷作ってくれた」
「まあ、便利ですわね」
 頬に手を当てて驚く彼女に、どっと脱力を覚えた。便利には便利だが、頭に当てたまま氷を作ろうとした彼を一度燃やしてしまおうかと思ったのだ。自分の頭まで凍らされる恐怖を一度彼女は味わった方が良いのではないだろうか。  ああ、だめだ。逃れられない痛みから苛立ちが立ち上る。乱れがちな呼吸を深呼吸で宥めてユーリスは顔を上げた。
「それで、どうしたの」
「そうでしたわ、食べられます? お昼用にお粥を作ってもらいましたの」
「オカユ?」
「米を煮たものですわ。とろとろに溶けて食べやすいのです。それに梅を塩漬けにして干したものを入れて食べると良いのですよ。」
「へえ…あまり食欲はないけど、食べとくよ」
 身体を起こすのを手伝ってもらいながら、隣の寝台に置かれていた盆の上のものを見る。彼女が持って来ていたのは小さな土鍋で、蓋を開けるとほこりと米独特の甘さの籠った湯気が上がって鼻をかすめた。成る程、控えめな匂いは確かに食欲のない状態でも食べられそうな気がする。
 膝に盆ごと移動させて、小皿に乗っていた梅の塩漬け(梅干し、と言うらしい)を粥の上にのせて一口食べると、柔らかい甘さが口に広がった、と、思えば強い酸味がやってきた。一瞬驚くも、租借して行くと酸味は拡散されて、米の甘みと良い感じに馴染んでいく。予想以上に美味い。思いがけず食が進み、量は少なかったものの殆ど平らげてしまった。ほっと一息ついていると、横でマナミアが水筒からグラスに液体を注いでいた。…凄い色だ。
「…それは?」
「風邪に効きますわ。どうぞ」
 差し出されて、ユーリスは若干たじろいだ。先日の騒動の折、マナミアはエルザに薬を作っていた。それを飲むときエルザは必ず一度覚悟をする様に気合いを入れて飲んでいて、それを見ていたユーリスは何をそう構えているのだと一口、試してみたのだ。
 …思い切り咽せてしまった。強烈な味だった。不思議な事に後味は悪くないのだが、何しろファーストインプレッションが凄まじい。口の中に含んだ途端のあの何とも言えない状況は、言葉で表す事が難しい。これをエルザは毎回飲み干しているのかと今更知って畏敬の念すら感じてしまった程だ。
 それが今、自分に回って来ようとは。
 嗚呼、確かにそうだね。心の中でエルザに語りかけた。確かに気合いを入れないと対峙出来ないな。
 心の中で、よし、と覚悟を決めて、ぐ、と口にいれる。…だが、考えていたような強烈な匂いはやってこなかった。薬草の苦みや臭みは残っているが最小に留まって、喉越しも悪くはない。
 肩すかしを食らいながら飲み干して、グラスをマナミアに渡した。
「ごちそうさま。…薬草にしては随分、苦みがないね」
「そうですか? 良かったですわ、エルザさんも喜びます」
「エルザ?」
 彼の名前が突然出て来て、ユーリスは目を瞬かせた。どうしてそこで彼の名前が出てくるのだ。
「ええ、エルザさんが調合を考えたのですよ。今回はとても苦い薬草を使用したので、随分悩んでおられました。それに一生懸命看病もして。一日目、全然ユーリスの熱が下がらなくて、原因を探るのに必死になってましたの」
「そんなことが…」
 マナミアは頷いた。
「貴方の右目の力が身体に影響を及ぼして、熱を暴走させてたようです。
 魔導士に力を借りてなんとか力を抑えて、石の力を抑制する葉を薬に混ぜる事で、落ち着いたのです」
「石の力を抑える? そんなものが」
「ありますわ。…ありました、と言った方が正しいでしょうか。エルザさんが城の薬学の本を読んでなかったら、私も判りませんでしたわ」
 …そういえば、少し前ユーリスが読んでいた本にも其の様な記述があったかもしれない。あの辺りの本は彼の部屋に置き去りにしていたし、彼もたまに頁を開いていた。読んでいるのかは判らなかったのだが…覚えていたのだろうか。
 けれど、あんな薬草等もうないと思っていた。本土の、崩壊しきった土地にあったと言われる草だったのに。
「ユーリスの目のお話を聞いて、商人の方に探してもらったのです。偶然が重なって手に入れられたみたいです、あまり数はなかったそうですけど」
「…そう」
 無意識に、右目を覆った。確かに右目に埋め込んだ石は、驚くほどに大人しい。
 これだから、彼に頭があがらなくなるのだ。
 ユーリスは溜息をついて、枕に沈み込んだ。

 夜半、暗くなった部屋に小さな灯りの筋が生まれた。扉がそっと開けられ、閉められる。そろそろと極力ならさない様に近付いて来る足音、枕元まで来て、ほっと安堵の息が漏れるのが聞こえた。額にのせられていたタオルが離れ掛け、
「エルザ」
 びくり、と彼の肩が跳ねたらしい。掌から逃れたタオルが額に逆戻りした。目を開けてじろりと睨みつけると、ごめん、と彼は慌ててタオルを持ち上げた。
「ごめん、起こした」
「いや、起きてた」
「…眠れないのか? 着替えは?」
「…」
 待って、と彼は部屋の隅に向かって、棚を開けた。城に用意されているらしい着替え一式を持ち出す。着られるかい、と一応と言う様に聞くエルザを、ユーリスは起き上がりながら荷物を受け取りつつ、睨みつけた。エルザは首を窄めて、それでも問いかけて来る。
「身体、べたついてないか。背中自分で拭くのは大変だろ」
「…いいよ。それくらいは出来る」
 言いつつ、しかし動きは鈍い。のろのろとした動作にエルザは戸惑いを覚えた様だが、気持ちを切り替えて空いた寝台を整える方に集中することにしたらしい。存外に手際良くシーツとタオルケットを取り替えていくのを見ながら、ぎしぎしと痛む身体を拭いて、何とか着替える。
 終える頃には寝台は綺麗に整っていて、氷枕にも新しい氷が入っていた。
「…ありがとう」
 お礼を言えば、エルザは暫し目をしばたたかせ、そして笑って首を振った。
「俺こそ。長い間ユーリスに世話になったんだし。ほら、入って」
 大人しく入りながら、けれどユーリスは彼に言った。
「エルザは? もう寝るだろう?」
「え」
「付いててくれたって聞いてる。けど今日は一日見なかったんだ、仕事で忙しかったんだろ」
「そうでもない。ちょっと時間かかったけれど、たいした事じゃないんだ」
「だけどエルザはまだ無理が出来ないんだから。もう大分落ち着いているから、君も寝ていい」
「でも…」
「気になるなら、隣の寝台で寝ていればいいだろう?」
 少しは横になれ、と告げると彼は苦笑で頷いた。横になったユーリスの身辺を整えてから、上着と靴を脱いで寝台に横になる。
「悪かったね、目の事でいろいろ手間かけたみたいで」
「ああ、いや。薬が見つかってて良かったよ、じゃなかったら熱、もう少し長引いていたかもしれない」
「…高くなかったかい」
 エルザは首を振って、微笑む。
「俺が勝手に探したんだ、気にしないで」
 そう言われても、どう考えても並の値段でない事は予想出来るのだ。エルザがその辺りに言及しないのもその証拠だろう。だがその金額を聞き出し金を突き出しても、彼はきっと受け取らないだろう。
「種がね、あったんだ。マナミアが育てられないかって今挑戦してみてる。もしかしたら芽が出るかもって」
「そう」
「ユーリスは強いから、普段は大丈夫だろうけれど。でもこういう状況がまた来ないとは言い切れないから、残りの薬草、後で渡すよ」
「…エルザ」
 呼べば、ん、と笑う。傭兵とは思えないと言われるのは彼の常だ。本当にそう思う。
 彼の厚意はほぼ無償だ。見返りを、求めない。心の奥底では求めているのかもしれないが、形としては相手が訝しがらない限り求めない。それがカナンに対しても、だ。
 それは人として良い姿なのだろうかと、時折思う、けれど。
 そんな彼だからこそ、いつか何か彼に返したい。そう思う。
「ありがとう」
 エルザはただ微笑んで、けれど何処か嬉しそうに、うん、とだけかえしてきた。








(グルグ族の砦で離ればなれになったときのクォーク側妄想。クォークとカナンの関係補完計画そのに)

「ねえ、クォークはアルを仲間に入れる気なの」
 ユーリスの唐突な言葉にクォークは一瞬応えるのを忘れ、歩みを止めた。そして勢い良く振り向くと、ユーリスは肩を竦めて続けた。
「なんだ、気付いてなかったの」
「どういう…ことだ」
「クォークは、自分と関係のない人間にあんな風に怒らないだろ」
 言いながら、立ち止まったクォークの横を通り過ぎ、壁に背をつけ通路の向こうを覗き見る。それに倣いながら、クォークはなんだそれは、とユーリスに訊ねる。
「前にもあっただろう、こういう事。あの時飛び出したのは依頼人だったけど、あの時はクォーク、舌打ちはしてもあんな風に怒りはしなかった。
 収拾付いた後で諭してはいたけど、今回みたいに優しくなかったね」
「やさしく…」
 言ったつもりはないのだが、と思うも、やめておいた。その過去の時に言った言葉を思い出したからだ。そういえばあの時もエルザから苦言を受けた。そんな風に突き放してやるなと言われた気がする。
 …優しいとか厳しいとかそんな次元の言い方ではなかったらしい。
「あの言葉は、あのままアルが僕らの仲間になる、という想定をした上でのものだと思ったんだけどね。
 クォークが意識してないなら、違うのかな」
「…」
 どうなのだろう。正直に言えば、あれは感情のままに言っただけだった。彼女の行動は、傭兵として行動するならば決して見過ごしてはいけない行動だった。目の前にある全ての命すら助ける事もできない、そういう事がごまんとあるのが傭兵なのだ。
 ルリ島がどれだけ平和か、それが何より幸せな事か、彼女は知らない。貴族の世界も血に塗れた世界かもしれないが、大陸に根差して生きる人間の世界は…ひとの世界ではなくなりつつあるのだ。
 それを知って、彼女は生きていけるのか。絶望に打ち拉がれるのではないか。そう考えてしまう。だからこそ、エルザは彼女を仲間にいれる事に踏み切れないのではないか。あのこどもは大陸を知っている。
 そう考えたらあの程度の叱責等、とるに足らないものだろう…と思って、ふと気付いた。
 …確かに思考は、彼女を仲間に率いれる事を前提に考えている。
 溜息を、ユーリスに気取られぬ様に小さくはいた。…よく考えろ、それ以前に無理な話だろう。彼女はルリの城主の血統。そして…──
 落としていた視線を、クォークは上げた。そして思考を切る。
「…様子はどうだ」
「駄目だね、警戒しまくり。どう動いたって見つかって大騒ぎになりそうだよ」
「仕方ない。…派手にやるか」
「…本気?」
 片目を瞠目し、聞いて来る彼に肩を竦めてみせた。
「戦力でいえば、エルザの方が不利だ。俺たちで騒いで引きつける」
「回復魔法持ってるだろ、アル」
「だが長期戦は初めての筈だ。このまま行けば体力が持つかどうか」
「…出来るだけ戦闘は避けるつもりだったんだもんね。仕方ない」
「だが無理に突っ込みはしない。頃合いを見て退路を作ってくれ」
「了解。じゃあまずは一発、あの柱でも落としてやるか」
 言いながら、詠唱に入り始める。無人島での一件以来、彼も随分やることが大胆になってきた。
 …それはエルザの影響もあると思うのだが。
(無茶するなよ、二人とも)
 隣で、光が走った。轟音が響き、足下が揺れる。
 煙が立ちこめるその中を、クォークは潜り込んでいった。