※創作人物が出てきます。苦手な方はご注意を ルリの街は朝から騒がしい。賑わいがあるのは何時もの事だが、此処最近は騒がしい。というのも、現在はグルグの侵攻により崩壊した街の外壁やその他の修繕を街全体で行っている為、何処も彼処も砕け落ちた壁を崩し、移動し、新しい石を切り出し、もしくは形を整え、新たに詰んでを繰り返している。そのどれも盛大な音を出す作業だ。騒がしくなるのも無理はない。 けれどその音のけたたましさにやられ、エルザは路地の奥に避難するはめになっていた。がんがんと石を叩き崩す音が響く度に、脳髄も叩かれている様な状況に陥った。膝を折る事だけは免れたが、支えがなければ立てなくなる程に。たかだか城に赴くだけの道程でこの状態に自分自身に幾ばくかの不安を感じる。 「大丈夫かい?」 そう聞いてくるのは隣で水筒を持っているユーリスだ。今日は彼がエルザと行動を共にする。他には城へ戻るカナンと、タシャが傍に佇んでいた。 椅子に倒れ込むように座っていたエルザは、のろのろと上体を起こしユーリスを見た。彼は視線を交わすと瞬きを幾度か行い、困ったように溜息をつく。 「そんなに酷いんだ?」 「…少し、落ち着いた」 「それでその顔か。困ったね、城でも作業しているんだろう?」 「そうだった…。…酒場に居た時は平気だったのに」 「あれはね、周りが気を使って近場では作業してなかったんだよ。 君が倒れたのは皆知っていただろう?」 そうなのだ。外に出るや否や、エルザは島民達に…中には下級騎士の姿もみかけたが…一気に囲まれた。酒場近くの住人達は殆ど顔馴染みなので声をかけてくれるのは良い。しかし、皆彼が倒れかけた事、そして其の後二日に渡って眠っていた事を知っていたのは何故なのか。 その後顔を合わせる島民ほぼ全員にそれを言われ続け、流石に己の情報のだだ漏れ具合に閉口するばかりだ。ルリ島の人口は多いとは言えないが、少ない訳でもないのだ。 「とにかく。どうする? 一旦戻るかい」 ユーリスの提案に、エルザは首を振った。 「俺が居て邪魔になるなら、いられない」 「言うと思ったけど、どうするの。城だって居場所がない事になるんじゃ?」 「…奥の方は、まだ手付かずなんだ。作業始めるまでには体調も戻ってると思う」 ユーリスがエルザから、カナンへと視線を向ける。彼女はその意図を汲み取り、頷いた。 「ホールの修繕で手一杯だから、奥の修繕を始めるにはまだ時間がかかるの。だから今は凄く静かよ」 「…そう。じゃあ城にいくしかないね。ま、行くにしても、もう少し休んでた方がいいんじゃない?」 そう言いながらユーリスが水筒を差し出して来たので、エルザは素直に受け取って一口含んだ。と、強烈且つ独特な香りが喉を霞めて流れて行くのに驚いて、咳き込む。 「マナミアが薬草を分けてくれたんだ。吐くなよ」 「ちょ、驚いただけ…っ」 はぁ、と呼吸を整わせながら、不意に薬草のお陰なのか少しばかり調子が落ち着いた事に気付いた。もう一口含んで、息を吐く。口当たりは良いとは言えないが、後に残るものは清々しく、不快な気分が一掃されていくのが判った。気のせいかもしれないが頭痛も少し治まった様に思える。 「…マナミアの薬草は、すごいな。何を使ったんだろう」 「僕は専門じゃないから判らないけれど、聞いた事のない名前だったよ」 「そうか…貴重なものを使わせたかもしれないな。」 気遣われている。溜息をつくと、ユーリスが小突いて来る。 「マナミアに言う言葉は申し訳ない、じゃないからね」 「…判ってるよ」 苦笑混じりに答えれば、どうだか、と返って来た。そのまま彼は立ち上がる。 「職人街に用事があったんだ。少し行って来ても良いかい?」 「問題ない」 「ええ。私も残っているから、大丈夫よ」 「お願いするよ。エルザはしっかり休んで」 「…ああ」 念押しされれば、エルザは頷くしかない。それを見て漸く行く気になったのか、彼は路地の奥へと歩いて行った。 「…ユーリスって、あんな人だったかしら?」 彼が座っていた逆側に腰を下ろしたカナンが首を傾げながら独り言のように呟く。正直、それはエルザが聞きたい言葉だ。 「まあ、今回は、ユーリスにめいっぱい迷惑かけてるし…」 「そんな風に言ったら、また怒られるんじゃないの?」 ぐ、と言葉が詰まる。その様子を見てカナンが笑った。 「…貴殿の仲間は」 言い辛そうに口籠りながらタシャが問いかけて来たのに、ひとつ間を置いてエルザが反応した。 「え? あ、すまない、何だ?」 「いや。…エルザは、仲間達とは付き合いが長いのか」 「皆と?」 彼が頷くのに、ああ、とエルザは少しばかり面持ちを緩ませる。仲間の事が話せるのは純粋に嬉しい。 「長さで言えばユーリスは、仲間になってからまだ一年位だ。それ以前の付き合いはない。マナミアは出会って三年くらい、仲間になってからは…二年半だったかな。 ジャッカルとセイレンは、仲間になる以前も含めると長いなあ。六年以上は経ってる筈だ」 「六年? 家が何か傭兵と関わりのある仕事でもしていたのか」 「ん?」 目を瞬かせ、そしてエルザは笑う。 「そうか、言ってなかったっけ。俺は小さい頃に村が全滅したんだ。」 「──全滅?」 その言葉に異常に反応を見せるタシャの様子に内心首を傾げながら、エルザは是と告げた。 「それからクォークと出会って、ずっと放浪の旅をしていた。二人に出会ったのは、俺がまだちゃんとした傭兵になる前の話だ。十…一だったかな、二だっただろうか」 「村は」 勢いで言ってしまったのか、言葉を発した後、タシャは自分の口を塞いだ。不思議そうにエルザが見上げれば、彼は視線を反らし、いや、と口籠る。 「どうした?」 「すまない。…その、何時の話だと、思ってしまった」 「村? ああ、確か俺が七になった年だから、十一年前になるかな」 「十一年前…」 明らかに安堵した様子の彼。カナンと顔を見合わせて、今度こそ本当に首を傾げた。 「タシャ?」 「…貴殿には、伝えておこうと思った事があったのだが…」 戸惑いながらも彼が口を開きかけた時、奥の路地から人影が見えた。タシャも気付いたらしく、言葉を止めて振り向いた所で人影が姿を現す。船員らしき男が大きな荷物を担いで角を曲がって出て来た所で、一同と目があった。エルザと視線を交わした瞬間に、顔が強ばる。それはエルザも同じだった。 「…」 「あ、待っ…ッ」 何か言おうとするも、男はそれを止め、視線を反らして通り過ぎようとするのに慌ててエルザが腰を浮かした。が、急な動きに身体が付いて行かず、目眩によってエルザはとうとう膝をついてしまう事になった。だが男の動きを止めるには十分だった様だ、頭上から男の声が聞こえて来た。 「…無理に動くな。寝込んでたんだろう」 「ああ…やっぱり知ってるんだ」 「お前の情報は一人に知れたら街全体に伝わると思っとけ」 苦笑を浮かべれば、男は呆れたと言わんばかりに溜息をつく。そして少しばかり身体をこちらに向けた。隣で背を支えているカナンが少し震えたのが判った。 男の片腕は、肘から下が途切れていた。今までの角度では見えなかったのだ。 「今此処で、お前と話すつもりはない」 「…」 「お前もそんな余裕なんざないんだろう。俺の事は放っておけ」 「しかし、」 「今お前と話すと怒鳴りたくなるんだ。 …時間をくれ。一人で考えたいんだ」 言葉を遮られ、そして付け足すように男が言った言葉にエルザが目を瞬く。暫し間を置いてから、僅かに肩の力を緩めて頷いた。 「…判った」 「その間に、お前はとっとと調子を戻せ。弟が心配している」 「そうか、すまない。彼の方は?」 「お前の所為で一人で動き回るようになって、大変だ」 言いたい事を言い切ったのか、彼はこちらの応えを聞かずに踵を返した。奥の路地へ姿を消す刹那に、ユーリスと擦れ違う。二人は視線を交わしたのみで、男は奥へと姿を消し、ユーリスはエルザの下へと戻って来た。 「何だかなあ、よりによって彼と鉢合わせか。何か言われた? エルザ」 「暫く時間をくれ、って」 ユーリスの隻眼が大きく見開き、ふうん、と感嘆を漏らす。 「エルザが倒れて良かった事もあったか」 「あんまり嬉しくないよ…」 「彼は何者だ」 タシャの問いには、ユーリスが答えた。 「船乗りだよ。少し前まで、グルグ族に捕まって強制労働を受けてた一人」 そしてエルザ達がグルグの城を襲撃した際に解放された者達の一人でもあるところまで話す。あの時の、とカナンが呟いた。 「あの腕は、強制労働の時のか」 「それは違うらしい。船乗りだからね、ああいう怪我は少なくない。」 「だがエルザとの会話を見るに、今回の件に反対している一人なのだろう」 「そう。港周辺の反対派のリーダーみたいな立場でね。なかなか話をしてくれない」 それを経験しているのはエルザなのだが。ユーリスが説明を更に続けた。 「彼が反対の理由は、弟なんだ」 「弟君がどうかしたのか」 「彼の弟も強制労働を強いられて、その時の怪我で片足を失っている。 まだ、十代なんだ。見習いで船に乗った時に、襲撃を受けたんだってさ」 「…成程な」 海の男なら其の様な事態に遭う事も怪我も承知の上だ。しかし身内の、しかも護らねばならない存在が酷い仕打ちに遭ったとなれば話は違う。 「彼の気持ちは、判らない訳じゃない。けれどグルグ族との共存は、このルリにとっては重要な話だ。何とか、折り合いがつけられないかと思うんだが…」 「難しいね。そういうのは、短期間でどうにかなるものじゃないからさ」 ユーリスの応えにエルザは顔を俯かせた。彼の言う事も判る、自分とて大切な人が目の前で傷つけられたら、相手を許せるかと問われれば、難しい。それはグルグ族とて同じだ、過去を振り返れば切りがないのは判っている。 けれど今回の話は、そうして連なって行く悲しみや痛みを、今後へつなげない為の話なのだ。グルグ達と手を取り合って生きる、人との合間を取り持つ、それは本土と彼等の地の中間に在るこのルリでしか出来ない。 自分達もグルグもお互いに消耗し切った。これ以上、不必要な戦火などいらない。だがグルグ族を放置すれば、またルリに限らず、何処かで火の手が上がってしまう。彼等の大陸ではもう食糧は殆どとれないのだ。大地の荒廃は止まったが、崩壊した大地が緑を取り戻し、実りをもたらしてくれるようになるには十年以上は待たねばならぬとマナミアが言っていたのを思い出す。 十年、その間、彼等は何処で生きれば良いと言うのだ。 「エルザ」 膝の上でいつの間にか堅く握りしめていた拳に、カナンがそっと掌を重ねてきた。顔を上げれば、彼女がやんわりと笑う。 「今はあまり思い詰めないで。時間も、全くない訳じゃないわ。彼が時間を必要とするように、私達にも少しだけ、時間が必要よ」 「カナン…」 ね、と覗き込んで来る。その横でユーリスも同意した。 「そうだよ、今のままじゃ、彼も話すら聞いてくれないだろう」 「…ああ」 「だから今エルザがやるべき事は、しっかり食べてしっかり寝て、体調を整える事。判った?」 その口調が何処か親の様で、少し笑いながらエルザは頷いた。今日は二人に圧倒されてばかりの様な気がする。 よし、と二人が頷いて、それからユーリスが言った。 「で、動く前に。あの角でずっとこっちを伺っているのが誰か、知ってる人居たら教えてくれると助かるんだけど」 え、と疑問符を浮かべてユーリスが向いた方向へ視線をやると、路地の角には確かに人影があった。 「あっ…」 ぎくり、とカナンが声を引き攣らせる。エルザもまたうめき声を漏らしかけて、慌てて口を閉じた。 其処に在ったのは、全身が黒ずくめの格好の女だった。首元まできっちりとボタンを留めた上着に膝下のスカート、背丈は大きくなく、髪の毛も瞳も漆黒で、顔の彫りが自分達よりも薄く、肌の色が黄みがかっている。マナミアに似ている様な気がするが、マナミアは面持ちに独特の雰囲気があるので少し違う。話によれば東の島国の者が女のような容姿だという。 「何時から居たのだ…」 苦みを含んだ呟きを漏らしたのはタシャだ。彼は街中でも気を抜かぬ性格で、背後をとられるのを酷く嫌がる。けれどあの女、彼女達の気配は掴み辛いらしい。幾度か現場に遭遇して、ぎりぎりと悔しがるのを見た。 と、彼女の面持ちにも苦みが一瞬だけ浮ぶのを見て、エルザは首を傾げ、すぐに合点した。ユーリスは彼女の存在に気付いていた、恐らくはそれが気に入らなかったのだろう。 気を取り直したのか、彼女は淡々とした口調でカナンを呼んだ。 「伯、奥様がお帰りをお待ちになっております」 「ええ、ごめんなさい…」 「お早くお戻りになります様」 「判っているわ」 「…政務、まだ残ってたのかい?」 二人の遣り取りを見て恐る恐るエルザが問えば、いいえ、とカナンが首を振った。 「昨夜の分は終わってるわ。今日は午前に少し時間を空けられるように頑張ったんだもの。あの人もそれは了承済み。 …だけど、すぐ戻るって、約束だったのよね」 「ああ…」 つまりは、遅れているのだ。 「なら、早く戻らないと」 いろんな意味で後が怖いと言外に告げる。彼女も承知しているようでただ頷いた。 「…どうしたの?」 「…会えば判る」 横でユーリスが不可解だとタシャに聞いたが、望んだ応えを得られなかったようだ。 それは、懐かしい綴りだった。 グルグ族との紛争が終わり、街の復興を始めた頃の事だ。前伯爵が没し、カナンが爵位を継承する事になり、これで漸く彼女も心穏やかに生きられる様になるのだと一旦は喜んだ。しかしそれは大間違いだった。 話が進んだ途端に現れたのは積み重なった書類の山。…ルリの政務だ。 政に関して必要以上に遠ざけられていた彼女は当然ながら何も判らず、それを察して貴族達が彼女を支える為に集まったが、彼等もまた問題があった。カナンの親の時代からルリに住まい、当時の政治に戻そうとする者と、前伯爵の政治を継がせようとする者で反発が起こったのだ。 前伯爵が政に関して辣腕だったという話は真実だった様で、その政治の腕を買って彼に付いていたものも少なくなく、互いの衝突は次第に激しくなって行った。決断はカナンに委ねられるも、政治を学ばなかった彼女には酷く荷が重く、判断は慎重に慎重を重ね遅れて行くばかり。エルザは政の知識は言わずもがな、けれど彼女を支えるべく出来るだけ傍にあろうとするも、何処かで騒動が起きると名を呼ばれ、飛び出す日々を送っていた。 ルリは城の中も外も混乱の最高潮にあった。そんな時だ。 在る一通の、手紙が来たのは。 城の広間の騒音を何とかやり過ごし、二日振りに現れたエルザを見て群がる貴族や騎士達をそれとなく交わし、何とか辿り着いた執務室の扉の前。それでなくともぐらりぐらりと音が響く度に頭も揺れていると言うのに、目の前の扉が更にエルザの心をふらふらにさせた。 「大丈夫かい?」 呆れ顔になりつつも気遣って来るユーリスに何とか頷く。しかし、心中逃げたい気分で満たされていた。彼女の前には、もう少し気を張って立つつもりだったのに、女中にあんな所を見られてしまった。…なんと言われるのか想像するのも怖い。 けれど逃げる事は許されないと言わんばかりに、女中が扉を叩いた。 「伯爵とエルザ様をお連れいたしました」 どうぞ、と戸の奥からもう聞き慣れた声が聞こえた。目の前で両開きの扉が開いて行く。 そして見えた執務室の中に、一人の壮麗の女が佇んでいた。 最初に目に入るのは襟首から足首まで女中と同じ色の漆黒のドレス。けれど遠目からでもその生地が質の良いものだと判る。端々に使われたレースは本土でも高価なものだ。 結い上げた髪は淡い金髪で、年故に白が少し混じる。けれどその面差しが年を感じさせない程に凛々しい。輝く様な碧の瞳も一層女を引き立てた。 何度見ても、彼女の立ち姿は美しい。彼女に視線を奪われている間に、扉が背後で閉まった。これでもう逃げられないと痛感していると、彼女がにっこりと笑った。 「お帰りなさいませ、伯爵」 「ただいま…もどりました」 恐る恐るカナンが返すと、彼女の微笑みは更に深くなった…気がした。 「伯爵、申し上げている筈です。背を伸ばしなさい」 言われた途端に、ぴしりとカナンが視線を正した。正すだけでなく、仕草も型にはめられたかの様に整う。 「貴方は己の意志で叙爵される決意を致しました。それがどういう事か、覚えておりますね」 「はい」 「ならばその様に。街と城は別世界としてお考えを。」 「ええ」 「宜しい。遅れて来た事は、そのこを連れて来た事で不問に致します」 自分に話が向かった、と気付いた次の瞬間には、彼女の視線が自分へ突き刺さる様に向けられていた。冷や汗がどっと溢れてくるのが判る。 「…お帰りなさいませ、エルザ」 「ただいま、戻りました、トリス」 「二日も不慮の事態で休まれましたが、今日はどうですの?」 「…」 ああ、やばいと思いながらも、言葉が詰まる。彼女に嘘は禁物だ、そして過大解釈も宜しくない、的確に伝えなければいけない。今の状態では大丈夫だと告げても嘘おっしゃいと一蹴されるだろう。 無意識に視線が彷徨っていたか、目の前まで迫っていた事に気付かず、頬に手が添えられて初めて彼女が目前に居た事に気付いた。両手が頬を包んで、強い調子で顔を真向かいにされる。 「エル」 心臓が跳ねる、そう呼ばれる時は、からかわれている時か、気負いない話をしたい時か、…怒っている時かのどれかだ。 「正直におっしゃいな? 今ならまだ許して差し上げますよ」 「…調子は…あまり…良くない」 「そう?」 「あと…その」 ん? と間近で首を傾げる彼女が非常に怖い。顔をまだ掴まれているので視線で反らすしかないが限界がある。 なかなか言葉が出て来ない状態が続いた後、後ろから助け舟がやってきた。 「…発言しても?」 「どうぞ」 「僕で良ければ、説明します。エルザは現在本当に体調を崩しているので、全て説明するのも大変かと」 ユーリスありがとう有難うほんっとありがとうと心の中で感謝に湧いているエルザを他所に、二人は顔を見合わせた。女は漸く其処でエルザから身を離し、ユーリスと対峙する。 「初対面で失礼しましたわ、わたくしベアトリクスと申します。前伯爵のご好意によりルリ島へ参りました。現在は伯爵の下で仕事を頂いております」 「ユーリス、です」 優雅で無駄のない仕草で礼をするベアトリクスと名乗った壮年の女に、ユーリスもまた頭を下げた。彼も彼女の前では緊張している様だ、トリスタ将軍にも敬語を使った事がなかったのに。 「まあ、では類い稀な炎使いは貴方ですのね。お噂やお話は、エルザと伯爵から聞いております」 「恐縮です」 「…そうですわね、説明はユーリス殿にお願いしましょう。 ということで、エル」 また唐突に視線が戻って来てびくりと身体が跳ねる。後ろ暗い事がある時に彼女と対面するのは、本当に怖い。 「身体検査を受けなさい」 「…はぁ!?」 のだが、素で驚いて素っ頓狂な声が出てしまった。 「二日も眠り続けた上に体調がいまだ宜しくないのは何かありましょう。受けなさい」 「いや、それは、これから説明を…っ」 「問答無用、ですよ」 にこり、と彼女が笑って、手を挙げた。その掌に何かがある。香水瓶だろうかと認識した瞬間に、顔に向けて噴射された。 次には、エルザの意識は暗闇に放り込まれていた。 「彼女、何者?」 眼を醒したエルザの隣に居たユーリスの、開口一番がその言葉だった。 「…う?」 薬による強制的な眠りは目覚めが良くない。体調の悪さも相俟って、エルザはまともな返答を返せなかった。視線だけでなに? と聞いてみると、ユーリスは溜息をついた。持って来たらしい椅子を横において、座った。その奥にタシャとジャッカルの姿も見える。 そもそも此処は何処だろう。ルリ城だという事は判る、其処彼処に点在する調度品が質素ながらも装飾豊かなものばかりだからだ。しかし、今まで見た事のないものばかりだ、部屋の内装も、初めて見る。脳がまだちゃんと働いていない様だ、自分がどんな状況なのかも理解出来ていない。判るのは、部屋の外の作業の音が殆ど聞こえず静かなのが有り難い事だけだ。 「ここ、何処か判る?」 脳内を探ったかの様な質問にゆるり、と小さく首を振って後悔した。頭痛が走る。 「ベアトリクスさんの仮眠室。エルザが倒れたと思ったらメイドが二人掛りで移動させて、そのまま検査。エルザも流石に薬だと目が覚めないんだね」 「…俺がそういう体質だって言うのをクォークの次に、よく知ってるから…」 故に、使って来る薬もそれなりに強い。目が醒めたと言う事は薬が切れかけているのだろうが、それでもまだ襲って来る眠気に抗いながらユーリスの声を聞いた。 「君が意識不明の間、また何匹か蜘蛛が来たよ。でも全部、僕が動く前に彼女の親衛隊って人達が全部倒した。 …何あれ? 見た事ない戦い方だし、身なりだし。」 「トリスの護衛や側近は、異国出身が多いんだ…彼女は元々、広い範囲で貿易を営んでいたから」 「自分の代で家を再興させた敏腕貴族ってやつさ」 ジャッカルが傍に来て、エルザの言葉に続いた。 「何、ジャッカルも知り合い?」 「うんにゃ、俺は何度か偶然顔合わせした程度だ。でもまさかエルザと知り合いとはなあ」 「…当時クォークが所属していた傭兵団の一人が、彼女と結婚したんだ」 「へえ、そうなん…」 流石のユーリスも、思考が一時止まったらしい。言葉が途切れて、目をしばたたかせて、再起動した。 「貴族が? 傭兵と?」 「没落寸前だったのを、彼女一人で再興させたから、誰も逆らえなかったらしいよ。後は彼女の爵位がそれほど高くなかったのと、彼の方も結構大きい商家の人間で、商売の理念が似ていたから繋がりを作る意味で良かったとか。 …でもそういうのは全部後付けだ。トリスの一目惚れだったんだから」 「…出会いは何処で?」 「クォーク達に護衛の依頼が来たんだ。初回で気に入ってもらえて、…彼に一目惚れしたっていう理由もあるけど、贔屓してくれた貴重なひとだった。 彼女とは、結構いろんな国に行ったよ」 「成る程ねえ。だが、その肝心の旦那の姿は見えないのは?」 ジャッカルの問いに、エルザはああと頷く。 「死んだって聞いてる」 「…──」 さらりと言ったその言葉だが、周囲は容易に返事を返せなかったようで相槌もない。 「ある取引で、横槍が入った時に若干争い事になったらしい。その時受けた毒が特殊なもので、解毒剤が間に合わなかったって」 「…そうか」 「うん」 頭痛が響かない程度に頷いて、思う。また一人、自分は仲間を失ったのだ。彼女から話を聞いた時は何処か他人事のようだった。けれど今自分で口にして、漸く実感する。 また、ひとり。 「…悲しみは、終わらないんだな」 「エルザ」 「…、ごめ、っ?」 ユーリスの声に、周りに人が居た事を思い出す。慌てて顔を上げた途端、目の前が暗闇になった。 何事が起きたかと思った瞬間に何かに押しつぶされて、エルザは寝台に倒れるはめになった。ぎゅう、という擬音が聞こえてきそうな程に頭を抱き込まれている。この部屋にこういう所行が出来るのは一人しかいなかった。 「…ジャッカル!」 「ったくお前ってやつはよぉー」 エルザを抱き込んだ張本人は腕の中で身をよじるエルザをものともせず、その頬に無精髭のある自分の頬を擦り付けた。 「痛いいたい! ちょっ、何だよというかつい先日もやられた気がするんだけど!」 「よしよし、兄上の胸でお泣き」 「泣かないし! いいから…いたいいたいッ」 「…ジャッカル、エルザは体力ないんだから、無理させないようにね」 ユーリスが呆れた声で注意してくる、彼のその様もまた既視感を呼んだ。しかし彼の注意も既に遅い、ジャッカルが上半身を起こした頃には、エルザは既に息切れを起こしていた。ついでに頭痛もがんがん鳴り響いている。 「おおーわりぃわりぃ。無理させちまったかー」 「…っ」 「…あら、いや、ほんと悪い。大丈夫か?」 「目眩がする…」 あららぁ、とジャッカルが首を傾げた。エルザの前髪をかきあげて覗き込んで来る。 「お前、ちょっと回復遅くないか?」 「…そう、かな」 「幾ら三週間近くずっと吸血されてたからって、こんなんなるのかね」 「……俺が判る訳ないだろ」 「そうなんだけどよう。」 何か引っかかりがあるのか、ジャッカルはまた首を傾げた。 「いいから、とりあえず、降りてくれ…」 「おや? 今夜は添い寝はいらんのかな?」 「いらん! というか必要ないんだって!」 「でも目ぇ醒めちまうんだろ?」 「慣れてるんだってっ。それにここまで広かったら離れてくれたら良いだろうっ」 「あら、そうなの?」 一気に脱力してしまった。寝台に深く沈み込んで、エルザは溜息をつく。 「…俺は、寝ている時に傍に居られるのが駄目なんだよ…」 「通り過ぎても駄目って聞いたぜ?」 「昔はね。最近は、そう気にならなくなって来たんだ」 「でも、起きるんだろ?」 「記憶はあまりない。…目は開けるらしいけど」 今度はジャッカルが呆れた表情を浮かべた。何か変な事を言っただろうか。 「というか、何でここにいるんだよ。今日は予定違った筈じゃないのか?」 「おう、早速予定変更になっちまったんだよ。カナンが仕事を前倒しに終わらせる羽目になってなー」 「え?」 と部屋を出来る限り視線だけで振り返る。そういえば彼女の姿が見えない………………その代わり違う人物が見える。というか、忘れていた。 エルザの凝視に気付いたか、タシャは目を瞬かせた。 「どうしたのだ」 「…あ…いや…ははは…何でもない」 この状況は彼にとって眉を潜めるものだと思っていたのだが。いや、以前なら間違いなく苦言が降って来ただろう。彼と仲間達との付き合いもそれなりに多くなって来たので慣れて来たのだろうか…あまり嬉しくない。 とりあえず思ったよりも薄い反応に、空笑いでエルザは流した。 「うん、そうか、トリスに捕まったんだね」 「というよりは、事情を知ったベアトリクス卿が、カナンの時間を出来るだけ空けた方が良いだろうって判断で、重要なものを今のうちに片付けておくんだとさ」 「そんな無理はさせなくても…」 「向こうはそう思っちゃいないみたいだぜ?」 そう言われてしまえば、エルザは何も言えない。黙り込むと、くしゃりと前髪をかきまわしてきた。 「へこむなへこむな。んで、今日の夜は俺とユーリスが担当する事になりましたとさ」 「二人が? マナミアは」 「マナミアは薬草を摂りに森にセイレンと行っちまってるんだ。今日は戻れるかどうか判んねえってたからさ」 「そうだったのか…」 「そいで今、俺が交代に来たって訳だ」 「え…交代ってまだ…」 と、窓を見た所で、夕暮れを迎えて暫く経っている空に気付いた。…また随分眠っていた様だ。それまでは全く眠る事が出来ない日々だったが、今度は起きたら数日後や夕方と寝過ぎではないのか。 こつこつと戸を叩く音が聞こえて、応える。戸が開かれて部屋へと来たのはベアトリクスと例の女中だ。女中はワゴンを押して入って来た。 「起きまして?」 「うん、部屋借りてしまってごめん」 「わたくしは家がありますから、今日はこのままおりなさいな。 夕食を持って参りましたのでここで食べてしまいましょう…その前に」 視線が、僅かにずれる。エルザより上…もう其処に居る事に違和感を覚えなくなっていたジャッカルに視線が定まった瞬間、彼は飛び退った。そして空いた空間を通り過ぎて行く銀の一線。 寝台の反対側に転がり、床に膝をついた所でぐわん、とけたたましい音が壁に反射した。その音の激しさに自分の頭に激突したのではないかと言う頭痛に襲われ、エルザは一時目を閉じた。痛みが治まるのを待ってゆるりと開けた視界の中で、絨毯が敷き詰められた床に落ちていたのがクロッシュだという事実を知る。嘘だ、と言いたい気分だ。あんな大きさのものがどうして一線したように見えるのか。 「クロッシュは投げるものではありませんよ」 「申し訳ありません。ナイフと迷ったのですが」 ナイフも食器だ。しかも凶器だ。しかしだれもツッコミを入れるものは居ない。笑ったままのベアトリクスと飄々とした女中に部屋の空気が凍りついて動かなかった。 「ジャッカルと言いましたかしら。エルザに無用な負担はかけるものではないですよ?」 「あー、いや、これは仲間内の所謂スキンシップと言う奴で…」 首を傾げながらベアトリクスが言う。 「それとも、ご本名でおっしゃった方が身に沁みるかしら」 「あーあー! 判った、判りました! 俺が悪うございました!」 「トリス、本名知っているの? というか、本名じゃないんだ」 「ええ」 「おいこらエルザ! 俺が必死にかわそうとしているのに、なんてこと聞きやがるッ」 「えっ、だめなの?」 「お前よう…」 「家を出奔した時に捨てたようなものですものね」 にこ、と笑う彼女の背後に何かが立ち上っている様な気がするのは気のせいだろうか。…気のせいじゃないのだろうな、とエルザは空笑いした。 「貴殿等は」 タシャの呟きに、ソファに座りながら己の中で魔法を練り上げていたジャッカルが顔を上げた。あの後ベアトリクスを交えて夕食を摂り、ユーリスは仮眠に部屋を出、ベアトリクスもまたカナンの補佐をするべく部屋を後にした。本来ならばこの場にカナンも来る予定だったらしいのだが、彼女に課した課題が終わった後、と言付けてエルザの下へ来ていたらしい。…つまりは課題が終わらなかったのだ。 「見ていて、まるで家族の様だと思う」 食後、程なく横になったエルザから距離を置いて、ソファの横で直立するタシャの言葉に、ああ、とジャッカルは応えた。 「家族だよ、俺達は。クォークに言われなくたって、俺はそう思ってた」 「…彼が、言っていたのか」 「エルザにな。俺達がいるから大丈夫だって、言ってたらしいぜ」 話しながら、少しずつ、己の魔力を魔法へと変えて行く。特定の気配を察知する為だけの網を、部屋中に蜘蛛の糸の様に張り巡らせる。サークルと似た力の残留を細くする事で持続力を高め、広げて行く要領なのだが、こんな魔法の使い方はジャッカルは知らなかった。初めに行ったのはユーリスだが、彼もルリ島に来て、城の魔法書でこの様な使い方があるのだと知ったと言っていた。書は先の戦争で失われたものもあるという。勿体無い、と今更見に行かなかった後悔の念がむくりと沸いた。 ユーリスはこの作業を短時間でこなす上に、持続力が桁外れだ。元々力が強いがクォークとの一戦の後、彼の魔法制御能力は著しく向上していた。少し前まで力を貯めて魔法を強大に膨らませる事は出来ても、火を針程に圧縮させるなんて芸当は出来なかった筈だ。 ユーリスだけではない。あの最後の戦いの後、自分以外の皆それぞれが変化したものを抱えていた。一番顕著な変化を見せたのは言うまでもなくエルザだったが。 …だがエルザは、良い方向に変化したとは言えなかった。 「…傭兵は、もっと殺伐としていると思っていた」 「んにゃ、普通はそんなもんだろ? 俺等は変わり種だったからな」 「そうなのか」 「俺なんか、この傭兵団に入る決め手がエルザだったんだぜ」 「エルザ?」 「そ」 部屋全体に魔法を張り巡り終えて、ふと息をつく。 「というか、大体クォークの傭兵団入る理由なんざみんなそんなもんか。 …あいつはユーリスと違って、目立った能力なんかなかったからな。役立たずって言われかねない頃もあった、けれど傭兵団に居た奴等皆、エルザの事殊の外可愛がってたよ。傭兵団の和みキャラだなんて莫迦言ってた奴もいたっけな」 「…それは傭兵団としてはどうなのだ」 「異常だったんだろうなー」 はははと笑いながら、けれどジャッカルは思う。傭兵団としてはクォークがいなければ続かなかっただろう。だがこの団は引き抜きでの人の移り変わりが他に比べて圧倒的に少なかった。その理由はエルザにあった、そう確信が持てる。 「傭兵やってる奴等ってのは、大抵世間から弾かれたはみ出し者でさ。 まあ中には戦う事が性に合ってたり代々一家全員傭兵っていうのもいるが…大抵は何らかのめんどくさい事情があったりする訳だ。だからか…何処かお互い信じてねえんだよな。同じ団にいたってただ生き残る為に群れてるだけだって割り切ってて、一線以上距離を置いてよ」 そう話しながら、ふと、少し前までのユーリスを思い出した。彼の状態が傭兵としては当たり前だったのだ。仲間になった頃のマナミアすら、似た様な状態の時期があったのだから間違いないだろう。 「クォークは、そういう所はあった。でも大将として文句出ねえ程いい仕事しやがるからな。だから信頼に値するし、実際頼りまくったよ。 問題は、エルザだ。…本当に傭兵やってんのか、って時々思う」 だが過去を紐解いてみれば、見習い期間も含めれば少年はジャッカルと傭兵時代の年数が殆ど変わらなかった。 「仕事モードに入りゃあ、確かに傭兵そのものなんだがなあ。仕事から一旦離れると、がらっと印象が変わっちまう。人懐っこいって言うのかねえ。 ない訳じゃないと思うが、警戒する素振りが全くない。逆にそれに警戒しちまう奴もいるが、大概はそれでころっといっちまうんだよなあ」 思えば自分の初対面もそうだったっけ、とジャッカルは独り言の様に呟いた。正直に言えば、あれは衝撃の何者でもなかった。あの荒れた世界の中で、こんな子供が生きているのかと思ったのだ。 「次に驚くのがスイッチの切り替えの凄さかねえ。仕事時と全然違うっつーか、街中だと人にぶつかるわ看板にぶつかるわ…誰かに頼まれると滅多に断らねえしお使いまがいも引き受けちまうし酒場の手伝い嫌な顔ひとつせずにやるし」 「…それは先程の話とどう関係があるのだ」 「あー、すまん、あまりない」 指折り考えていたが、タシャに突っ込まれて数えるのを止めた。 「言いたいのは、人との接点が、多いんだよ。俺等だって鍛冶屋や闘技場に行って何かの拍子で意気投合する事もある。けどあいつ、大人に限らず子供や老人とも知り合いになることが多い」 「確かに、ルリ島でも顔が広いな」 「だろ? それってよ、つまりは…一線引いてねえんだよな」 ソファに身体を預けて、背凭れに肘を掛けた。 「話を聞く限り、ユーリスもそれで絆されたクチだもんなあ。 そうやって、この団に居残った奴が多かった。癒しってやつかね? 殺伐とした世界の中でこいつの存在は、俺達にとっちゃあ貴重なもんだった」 「…貴殿らに限らず、それはこの世界の何処にでも言える話ではないか」 「ま、確かになあ」 ルリ島が異常なのだ、と暗に言った言葉に、ジャッカルは苦笑した。貧しいものはいる。けれど極限まで飢えるものはいない。諍いがない訳ではない。だが絶望に打ち拉がれて全てを捨てて凶行に走るものはいない。 …それが異常なのだ、この世界は。 「だから皆、エルザに絆されちまうのかねえ。」 本当は穏やかに生きたいのに、何処を見ても何をしても、何処か翳りが見える。鬱屈してそのまま視線が落ちて行ってしまう。周りにいる誰もが、自分と全く同じ顔をしているのだ。けれど、エルザは違った。 彼自身俯く事もあった。悲しむ事もあった。けれど、それでもいつも最後は顔を上げた。そして、笑った。それにいつの間にかつられて、自分も笑っていた。…心が穏やかになるのを、感じた。 「エルザと、あいつらと居る時は楽しい。下手すりゃ自分の本当の家に居た時よりも、生きてる気がする。…だからよ、いつかだったか、思ったんだ。こういう形も、家族って言っていいんじゃねえかってさ」 「…そうか」 親が子を養えず捨てるのが当たり前の世界で、寄せ集めの人間達が家族ごっこをするなんて、周囲から見たら滑稽な風景かもしれない。けれど、ジャッカルは思う。 大切なのだと思う気持ちは、紛う事なく、本物なのだ。 「エルザが俺達の事をどう思ってんのかは、聞いた事ないけどな」 「彼はそう、思っていないと?」 「さあねえ。存外にあいつ、自分のそういう奥底の事って、言わねえから」 そんな部分もまた、周囲が気にかけてしまう事の一つなのだろう。 と思った刹那に、ぴぃん、と音が鳴った。鳴った様に感じた、というのが正しいかもしれない。 ──来た。 「タシャ」 呼べば、彼の気配が変わる。極力音を立てずに、ゆっくりと腰に履いた短剣を鞘から抜き出した。 ジャッカルが視線で方向を示せば、彼は振り向いて標的を定める。刃を構え、呼吸を静めて、暫し。 ひゅ、と空を切る音が鳴った。次いで壁にだん、と何かが突き刺さる音。そして静寂が訪れ、その中でジャッカルは捕らえていた気配が消えた事を確認した。 「御見事ぉっ」 質素な作りとはいえ、狭いとは言えない部屋の中で示した方向にいる蜘蛛を捉え、投げナイフで倒すというのは早々出来る事ではない。心からの賞賛だったが、壁に突き刺さったままの短剣に近寄り、抜き取りながらタシャは首を振った。 「私はこれくらいしか出来ぬ。これが寄って来た気配すら捉えられなかった」 「それは仕方ねえよ、俺だって魔法使って視野広げてなきゃ判らねえしな」 「適材適所、か」 「そうそう」 「…ジャッカル」 聞こえて来た掠れ声に、ジャッカルは視線を移動させた。寝台に横になっていたエルザが眼を醒している。 「……ありゃ、わりいな、物音で起きたか?」 「きたの、か」 寝台の上で横たわったまま、顔だけを動かしてこちらを見た彼に、ジャッカルは笑って頷いた。 「まーな。でも大丈夫だ、倒したよ。お前はまだ寝ておけって」 「ああ…」 応え、ゆったりとした息を吸い、吐く。そうして目を閉じる。その様を見て、ジャッカルは目を細めた。…エルザの意識がざわついている。 莫迦か俺は、とジャッカルは自分を罵倒した。…傭兵は皆殺気に敏感だ。自分に向けられたものではなくとも、こんな近くで感じたら眼を醒さない者は極度の鈍感な者ではない限りいない。 そして大抵は、気配で目を醒めた時に身体が警戒態勢に入る。眠気等吹っ飛んでしまっているだろう。 一応暫し待ってみる、けれど時は経てど彼が寝付く気配がない。 ふ、とジャッカルは溜息をついて徐に立ち上がった。タシャが視線でどうしたと問うて来るのに、口元に人差し指を当てて、静かに、と示した。そうすると彼は己の疑問を一先ず置いて一歩下がってくれる。非常に有り難い。 足を動かして、寝台の方へ近付く。ふかふかの絨毯の上でも音はするもので、それに気付いたかエルザが目を開けた。視線が混じり合って、ジャッカルは笑う。 「眠れなさそうだな」 「なんだか頭の奥が冴えてる気がする」 「あー。典型的な眠れないパターンねえ。はいはい、ちょっと失礼」 腰に履いた剣のベルトを外して枕元にかけ、少し迷った後短剣を引き抜いて枕の下に潜らせた。靴を脱いで掛布を持ち上げて寝台の中に滑り込み、目を瞬かせるエルザの頭を抱え込む。 「…結局またこうなるんだ」 流石に抵抗する気が起きないのかエルザは頭を抱えられたまま、しかし文句はしっかりと言った。 「お前さんに必要なのは安静と睡眠だからなー。何なら婦人にまたあの睡眠薬かけてもらうか?」 「……こっちでいい」 ぐ、と服の裾を掴んできたので、よしよしと頭を撫でてやった。これで睡眠薬の方が良いと言われたら流石に傷ついた所だった。 「今日飯もちゃんと食ったし、明日はもう少しマシになってるだろ」 「だと、いい」 「ん? なんか心配事でも?」 「…あの頭痛が連日になるのはきつい」 反らされた気がしたが、気付かぬ振りをしてそうかとジャッカルは応える。 「これがあと何日か続くのか…あんまり考えたくないな」 「なんだよ、マナミアに添い寝されて嬉しくないのか?」 「……マナミアもだったの」 「ユーリスだけだぜーやらなかったの。なんだ、ここまで覚えてないと羨ましい通り越して残念な奴だなお前」 「…覚えててもあんまり嬉しくないと思う」 「まーまるきり子供扱いだもんなー」 くつくつと笑えば、がつ、と蹴りが入って来る。何故自分の場合は蹴りなのか。結構痛いのだ。 「悪い悪い。ほら、ちゃんと寝てくれねえと、俺が婦人に脅されちまう」 「もっとジャッカルもトリスのプレッシャーにあてられるといいよ」 「お前…ほんと眠りかけの時性格わりぃな…」 ふふ、と今度はエルザが笑う。 「ジャッカルは楽しい」 「ああーそうですかー」 「クォークならこうはいかないし」 そうだったな、と応えそうになって声を詰まらせた。ここで実は一度見ましたなんてばれて暴れられたらたまらない。 「…何だろうな」 独り言の様に、エルザが呟く。 「時々、ジャッカルと居ると懐かしく思う」 「何だそりゃ」 「…僕も判らない」 あ。 「あー。ほら、そろそろほんとに寝とけ。眠れないならお兄さんが何か話でもしてやろうか?」 「……トリスとおんなじこという」 「…あらそう」 「そうやって子供扱いするんだ」 「まあ、親子ほど年が離れてるだろうしな」 「十を過ぎて子供用の絵本持ち出されてどうしようかと思った」 「あー」 「…でも」 エルザの声が小さくなった。 「人の話す声を聞くのは、好きだ」 「…ほんとに、なんか話してやろうか?」 「いい、多分、大丈夫」 擦り寄る様に頭を胸に押し付けて、エルザはゆっくりと深呼吸した。彼の言う様に、確かに肩の力が抜けている。頬に掛かっている髪を梳いて流し、項を覆う様に手をやった。包帯に包まれている首元には何もいない。 そのまま肩を引き寄せれば、抵抗なく身体を寄せて来た。ふ、と息を吐くのが聞こえて、ゆるゆると呼吸が静かになって行く。 そうして眠りについたエルザを見て、ジャッカルは溜息をついた。 …前に一度だけ見たあの症状と思って、いいのだろうか。眠りかけ、つまりは寝惚けている状態だと。 前も見ていて思っていたが、この状態のエルザは飾りのない言葉を隠す事なく口にする。全てを取り払って紡がれる彼の本音は正直興味があるのだが、今回は、とちらりと顔を部屋へと向けた。 案の定、この場に居て良かったのか、とでも思っていそうな表情のタシャが所在なく佇んでいた。 ジャッカルはエルザを家族として見ているからいいのだが、お互いにそうは思ってなくとも、好敵手、もしくは友人の様な間柄の彼としては、深入りし過ぎな話だっただろう。 「わりぃな。やっと寝たわ」 「ああ、それは良いのだが。…昼間の話は冗談ではなかったのだな」 昼間? と問えば、複雑そうにタシャが応える。 「添い寝をしていた、という事だ」 「あー。そうねえ。まあ事実だぜ?」 「睡眠に関して、何か癖があるようだが」 「ああ。こいつ小さい頃、寝てる間に何度か面倒事に巻き込まれた事があるらしい」 近付いただけで目が醒める今の彼からは想像がつかない話だ。タシャも思ったらしい、目を瞬かせ、何度か、と呟く。 「それから気配があると全然眠れなくなっちまったらしくって。クォークがこうやって抱えてやっと眠った時期が暫くあったらしいのよ。 …もう随分前の話なのにな。その時の癖が、今もまだこうして残っちまってる訳だ」 「……。 本土の状況は、判っていたつもりなのだが」 暫くの沈黙の後、低く唸る様な音が彼から漏れる。 「貴殿達の話を聞けば聞くほど、私は何も判ってなかったのだと思い知る」 「いや、エルザ達はちょっと、俺が聞いてても凄まじいと思うわ」 淡々と過去を話す声に時折耳を疑う事も聞いた。けれどクォークが話す限り、それは事実なのだろう。そして彼が淡々と話す限りはそれ以上の、流石に言えぬ経験をした事もあったに違いない。 「さっきの話に戻っちまうけどよ、それでもエルザは…このエルザのまんまだったんだよ。だからいっそう、そのままであろうとするエルザを、支えてやりたくなるってかねえ」 「…そうか」 「まあ、お前さんはそう気張らず、今まで通りに接してやってくれよ。 あとさっきの話は、聞いてた事はエルザに内緒でな」 「? 何故」 「さっきのは寝惚けてたんだよ。普通は言わない事も言っちまってる場合があるから、それがばれるとちょっと面倒でなー」 「そうか、了解した」 彼の姿勢は本当に有り難い、あまり深入りな話をしなくても良いので楽だ。これが仲間だと意外にそうは行かない…皆エルザを気にしているのは判るのだが。 寝台の近くに寄り、壁を背にしてタシャが立ちながら口を開いた。 「貴殿の力は眠りについても続行されるのか」 「ん? ああ、そうだな。結界の糸に触れる事で目が覚める様にもなってる」 「では少し休むと良い。魔法は精神を酷使すると聞いている。」 「平気だぜ? こんくらいはどうってことは」 「そうかもしれぬが。その状況で眠気が来ても致し方ないだろう」 ふと自分の状況を見て、確かに陥落しそうな状況だよな、と思った。寝台は心地良い、おまけに抱き心地はお世辞にも良いとは言えないが腕の中の抱き枕よろしく、程よい心音が響いて来るエルザがいる。 「…まー、起きれるだけは起きとくわ」 眠らない自信が急激になくなったジャッカルは、そう応えておいた。 夢だ、と思った途端に急激に襲って来たのは感情だ。極度の緊張で、思考の一部が麻痺して真白になっていた。喉が渇いて、声が掠れる。 「…なんの話だ」 「もう一度言いましょうか」 先程まで聞いていた、けれど若々しさが残る女の声が掠れ声に応えた。 「貴方の復讐にあのこを巻き込むのはお止めなさい」 譴責にも似た言葉を放つ女が視界に入る。少し前の記憶よりも皺が少ない、やはり若い姿。ドレスではなく少し草臥れた印象のある旅装であることが、彼女もまた国々を渡り歩いて来たのだと言う事を伺わせた。 「わたくしが判らないとでも?」 首を傾げれば、白髪のない金髪がさらりと揺れた。『自分』はただ黙して佇んでいる。内で早鐘をけたたましく鳴らしながら。 「きっとあのこも気付いた筈。けれど、気付かない振りをすることにしたのでしょうね? 貴方の事は、誰よりもあのこが知っていますから」 「…だから、何の話だと、」 「判っていて? あのこは、無意識だとしても貴方の道具となる事を選んだのよ」 内臓を素手で鷲掴みにされたような気がした。ぎりぎりと身体の奥が軋む音が聞こえる。 「そうして貴方はあのこを踏み台にして復讐するのね。何にかしら、騎士? 帝国? …それとも涸れ行く大地に?」 「俺は、」 「あのこを騎士にするという事、それも本音でありましょう。 …それからは? 今のままで、貴方が復讐を遂げ、あのこの傍にそのまま居続けられるなんて、わたくしは考えられない。貴方があのこの傍から居なくなって、あのこが平気だと思っているの」 声が、出ない。 「己に依存させてまで護りたいなら、最後まで護りなさい。」 「俺は…」 「でなければ、道連れになさい」 「…───ッ」 ぞわり、と背中に何かが駆け抜ける。その時の感情を、何といえば良いのだろうか。 完全に思考が回らなくなって頭を抱えた。先程の言葉ばかりが脳内を駆け巡っている──道連れに、道連れに? あの子供を、己と同じ道へ? 様々な感情が混ざり合う中で、奥底に沸き上がるものがあった。言葉にするならば恐らく、甘美、なのだろう。 けれどそれは、すぐさま別の感情に塗り潰される。代わる代わる生まれては消える感情に振り回されて、言葉一つ零れて来ない。それを目の当たりにしている彼女が、長い沈黙の後に、口を開いた。 「…決められなくて?」 「…」 「そうね、すぐには無理でしょう。判りましたわ、今日はこれ以上言いません。 けれど覚えておいて」 視線を上げれば、鋭い眼差しで、彼女が視線を返して来た。 「あのこを苦しませる選択をしたと判ったら、無理にでも貴方からあのこを引き取ります」 遂には呼吸さえ忘れた。…何といったのか。感情が極限まで高まって、脂汗が溢れた。 「覚えておいて、わたくしは、あのこが大事なの。きっと貴方と同じ位。 だから貴方があのこをこれ以上苦しませるならばもう見過ごせないわ。 あのこが苦しんでいるのを見て、あなたも苦しんでいる筈なのに、それを見て見ぬ振りをするというならば、私はあのこを貴方から引き離します。 そして貴方の手などなくても生きられる様、育てるわ」 それが貴方とわたくしとの違い。彼女はそう呟いた。 「…覚えておいて」 踵を返し、彼女は去って行った。路地裏の道の真中で、からからと秋風が吹いている。乾いた風が乾いた大地の表面を滑り、砂埃を起こして通り過ぎて行く。 からからに乾いた喉。からからに乾いていた心。 水を注したのは、あの子供、で。 その、小さな掌が、 離れる、なんて。 ……身体の奥底から、身震いが起こった。 「クォーク!」 唐突に場面が切り替わると、幼い声が困惑した様子で叫んでいた。少年の声は聞こえるが、姿は見えない。視界は目の前に長く長く伸びて行く道を見ている。 片手に感じる温度は、きっと少年のものだ。『自分』は少年の腕を引き、黙々と前へ進んでいるらしい。 「クォーク、どうしたんだよ、クォーク!」 少年の問いに応える声はない。けれど、何処かで感じる、その声に応えたい、けれど、応えることができないという感情。 只々前へ足を進めていく。否、…逃げているのだ。 感情が揺れる、落ち着けない、叫びだしたくなりそうで、ぐっと奥歯を噛み締めて堪える。故に少年の声に応えられない。 足を縺れさせたか、腕を引いている手に抵抗があった。判っていたのに、荒い調子で腕を引き上げてしまう。ひくり、と背後で少年が息を呑むのが聞こえてきた。 ああ、違う、違うんだ。お前に怒っている訳じゃない。 少年を怯えさせてしまった後悔が胸に渦巻く。けれど次に、ならどうしたら良かったのだ、という思いが生まれる。自分の胸の内の整理が全く持って出来ていない。 一気に、感情が膨れ上がった。葛藤、次に憎悪、苦痛、困惑、焦燥、そして最後に──血塗れのナイフを持つ少年の後ろ姿がよぎり──、 恐れが、溢れた。 「クォーク」 静かな声が、響く。先程の様子とは打って変わった、静かでいたわる音。 いつの間にか歩みは止まり道の途中で二人、佇んでいた。どれくらい時間が経っていたのかも判らない。 「…いいよ、クォーク」 何もかも受け入れたといわんばかりの声に、視界が背後へと移る。亜麻色の髪の少年が、柔らかな笑顔を浮かべて言う。 「クォークの好きにしたら良い。僕は、付いて行くから」 「…エルザ」 「何を思っているのかは判らないけれど。 クォークがそうしたいなら、良いよ」 ──その時の感情を、どう言えば良いのか。決壊した水の様に堰を切って流れて行った思いは、愛おしいようで、切ないようで、だが只一つこれだけは言える。 これは、光だ。奇跡の様な、己にとってただひとつの光。 その存在を、腕の中に閉じ込める。目の奥が熱い、喉が震えそうで必死に堪えた。 小さな掌が背に回って、自分を抱き締める。 嗚呼、ただ、ただ。愛おしい。 手放す事は、やはり出来そうにないと痛感した。 ──なるほどねえ。 ……その一方で、伝わって来る強烈な感情の他に、冷静にそれを見つめる自分「本来」の感情が独り言の様に零れ落ちた。 この様子では、過保護と言われて当たり前だ。ここまで手放したくないと痛烈に思っているのだ、繋いだ掌を、彼は必死に握りしめていたに違いない。 ──だがこの時からもう、様々なものに対する憎しみが、抑えられなくなって来ていたのか。 その感情は正直に言えば、自分は上手く理解出来ずにいた。何かを其処まで憎むということを経験した事がないのだ。 そしてふと、ある事に気付く。こんな強烈な感情を持つ彼の事を、あいつは── 「こんな時に人の記憶を、」 背後から声が聞こえて、一時思考が停止した。復活しかけた瞬間、背中を強く押され、ジャッカルは地面に顔をぶつける事になった。 痛みがあったかどうかは判らない、認識する暇もなく彼は顔を上げた。その場には、先程の青年と少年が居る。その奥に。 「覗き見るなんざ、余裕があるじゃねえか」 「…クォーク」 「起きろ。そしてエルザを起こすんだ。 枕の下に潜ませた短剣で風を部屋に呼び込み、煙を散らせ。 …カナンが懸命に場を護ってる。早く戻ってやれ」 そしてひとつ間を置き、 「エルザを、頼む」 ジャッカルが眼を醒して見えたのは鋭い光を放つ鋼だった。無意識に腕の中のエルザを庇う様に身体の中へと押し込むが、刃は二人に届く前に甲高い音を立てて跳ねかえる。弾いたのは、藍の色を纏った結界──古の障壁だ。 カナンか、と部屋の様子を見る。エルザを中心にして張られた障壁を囲む様に、頭から足先まで全て黒く塗り潰した皮革鎧で覆い尽くした者が数名刃を構えて佇んでいる。傍にいた筈の白騎士は入口近くで正体不明の者──暗殺者と剣を交えていた。何処か様子がおかしいと見れば、太腿に血が滲んでいる。攻撃を受けたのだろうか。 その彼の後ろに、床に伏せたカナンの姿がある。傷を受けた様子はないのだが、何かと必死に戦っているようだった。 その戸の奥からは複数の剣戟の音が響いて木霊していた。…この音が聞こえなかったというのか。 不意に、目の前に白い筋がゆらりと動いて、何だ、と不思議に思い──気付く。クォークが言っていた煙だ、これは。恐らくは催眠作用のある香。 はっとして腕の中に居るエルザの首元に手をやるも、そこには何も居らず、エルザも魘されている様子はなかった。 「エルザは無事か…」 ほっとしてそう独り言を呟けば、ぱちり、とエルザが瞼を開いた。余りの突然さに少しばかり身を引くも、直ぐに場の状況を理解し警戒を始めた彼に声を潜めて話しかけた。 「状況は判るか」 「…劣勢って事は」 「俺達は今のとこカナンの魔法で護られてる。だが今のままだと長くは持たないだろうから、手短に確認するぜ。 お前、武器は何処だ」 ちらり、と見たのは窓側のクローゼットだ。見た目では判らないので、恐らくは戸の中にあるのだろう。 「俺は傍に在る。とりあえずお前の武器を持ち出す。そして護りに入れ。今のお前じゃ敵の直中に入っても足手纏いだ」 ぐ、と痛みを堪える仕草をするも、エルザは頷いた。 「辺りは催眠香で充満してる。窓を割って、風で吹き飛ばす。それが合図だ、いいか」 「ああ」 小さな声で、カウントダウンを始める。三、二、一… 枕元に隠していたナイフを取り出し、鞘から抜く。瞬間溢れる緑の光はこの短剣が風を纏っている証拠だ。それを窓へ向けて放つと、硝子に刃が触れた途端、爆発が起こった。窓硝子が割れ、刃から風が放たれる。強風が部屋を巡り、そして外へと去って行くのと同時にエルザとジャッカルが寝台から飛び出す。 古の障壁に遮られて寝台を囲っていた暗殺者が弾き飛ばされるのを横目で見ながら、エルザがクローゼットの中に収められていた剣を取り出し、構えるのを確認する。己の剣も先程の内に回収済みだ。鞘から抜き、魔法詠唱に入る。結界が在る内にひとつでも放とうとすると、ぱりん、と薄い硝子を割った様な音が背後から響いた。青い光を発する鎖が空を舞うと、黒尽くめの者達に次々と絡み付き、彼等の視線が一斉にこちらに向く。 「おおぉい!」 「大丈夫、この方が俺は護りに入りやすい」 「だからって囲まれたら意味ない、だろ!」 練成した魔法を、ぞろぞろと寄って来る暗殺者に向けて放った。力が氷と成り、轟音を立てて足下から刃の様に突き上がる。幾らかは暗殺者の身体を貫いたが、それを躱した者が刃を振り下ろして来た。だが結界に阻まれて、剣は弾かれる。 「エルザ、何をしているッ」 部屋の奥からタシャの怒声が聞こえて来た。怪我のある足を引きずりながらも、群がる敵に向かって刃を振る。 「タシャ、足が」 「私の事は良い。それより貴殿だ、無理をするな!」 「これくらい…無理じゃないっ」 エルザが前へ出れば、結界が暗殺者を押し退け、弾いた。それを最後に、藍の幕が結び目を解かれた布の様に剥がれ落ちて行く。だが敵はもう二人だ。一人をタシャに任せ、ジャッカルが残りの一人に肉薄する。突いて来る刃を己の剣で流し、そのまま懐に飛び込んだ。僅かに防備が薄くなってしまう首を目掛けて、剣を払った。 鮮血が飛沫を上げる中をすり抜け、エルザのもとへと下がる。暗殺者は首を押さえ、身体を前へ進めようとするも、崩れる様に膝をつき、倒れた。見届けてから視線を動かせば、タシャも既に剣の血糊を払い、他の襲撃を警戒している。 そして暗殺者は全て床に倒れ、廊下からの剣戟も聞こえなくなった。エルザの右手の甲から溢れる異邦のものの力も、今は何も繋げていない。 「終わった、かねえ」 「油断はしない方が良い。だがまず、カナン姫を起こさねば」 其処でカナンが床に倒れている事に気がついたらしいエルザが振り返って息を呑んだ。 彼が慌てて駆け寄ろうとした所で、ジャッカルの中に弦を弾く音が響く。咄嗟にエルザの腕を掴んで引き止めた。 「ッ、ジャッカル?」 「気をつけろ、次が来た」 何が来たのか理解した二人に緊張が走る。周囲を見渡し、そしてジャッカルが見つめ続ける方向へ視線へ向け── 部屋の隅に置かれていた棚の隙間から、蜘蛛が噴出しているのを目の当たりにして顔色を失った。 「な…っ」 「一体何処から!」 「起きてたら効果ねえって判ってても、あれに囲まれるのは気味悪ぃわー」 顔を引き攣らせて言った瞬間、視界の隅に青く発光する鎖が浮かび上がったのを見て反射で剣を構え振り返った。ぎしり、と暗殺者の刃と盛大に打ち合ったのはタシャの剣だ。 「タシャ!」 「下がれ、二人とも」 彼等が間合いを取り剣を構え合った所で、唐突に背を押す力が伝わって、ジャッカルは倒れそうになるのを辛うじて堪えた。振り向こうとして、肩にエルザの亜麻色の髪がかかっているのが見えた。 「エルザ、ど…」 ずるり、とエルザの身体が崩れ落ちていく。彼の膝が付くのと同時にジャッカルは辛うじて彼を抱えた、そして見たのが肩から突き出る一本の刃、だった。 「ごめ…押し切れなか…」 「ば…っかやろう!」 肩にかかる荒い呼吸が繰り返される度に、エルザの身体から力が徐々に抜けて行く。 「エルザ、エルザ!」 「だい…でも、すごく…ねむく…」 短剣に何か仕込まれていたのだろう、だがそれが毒の作用なのか、それとも只の催眠薬なのか、ジャッカルには判断がつかない。 足下まで蜘蛛が這い寄って来ている。短剣を投げただろう暗殺者はまともに動けそうな様子はないが、入口までの道程を塞いでいる。背後で剣を交えているタシャが戻って来ても、この蜘蛛はどうにも出来ないだろう。 ──ああ、くそ! エルザの素足に蜘蛛がよじ上ってくるのを見ながら、腕の中に彼を押し込む。魔法を唱える頃には手遅れだろう、だが少しでも被害を減らそうと魔法を錬成しようとした時、だ。 全てを圧倒する力を、全身で感じて鳥肌が立った。急速に力が一点に寄せられ、圧縮し、しかし強大になって行く。その力は──暗殺者の向こう、廊下から伝わって来た。 「全く…落ち落ち寝てられやしない」 そんなぼやきが聞こえたと思った途端、今度は熱を感じた。ごう、と耳をかすめる音。一瞬にして目の前が、否、部屋全体が炎に包まれた。 騒音と熱風が部屋の中を入り乱れる中だが、けれどジャッカルもエルザも、そしてタシャの誰にも火は纏わりつくことはなかった。足下に集っていた蜘蛛は一瞬にして消し炭となり、暗殺者は炎の演舞を舞っていると言うのに。それだけではない、部屋の何処にも火の手が上がっていないのが判る。寝台にも、カーテンにも、荒れ狂う炎の中であっても、火がついていないことが何故か見えた。 ──魔法は、対象を分けられる。炎や氷と銘打っているが、それは己がイメージした力の象徴に過ぎない。魔法は力だ、そしてどのように構成して放つかによって、影響を与える対象を限定する事が出来る。…だが。 炎が、徐々に静まって行く。暴風の様に舞っていた炎が、緩やかな風へと移り、そして炭の匂いのみを残して消え去った。 自分達に影響はないとは言え、この力の象徴は火だ。火に煽られた空気は温度が高まり、肌や喉に熱を伝えていた。熱気に息を詰まらせていたが、火が霧散し熱のない風が流れる様になり、漸くジャッカルは深呼吸を繰り返した。そうして焦燥で麻痺しかかっていた意識も、溶けて緩んで行く。 顔を上げれば、やはり部屋には何の被害もなかった。ジャッカルが割った窓以外は、被害は少ないと言って良い。 「さっすがユーリス。お前の火はやっぱすげえわ」 「でも熱かっただろ、悪かったよ。急いでたからいまいち制御し切れなかった」 入口のカナンの下で膝をついて様子を見ていたユーリスが、後を廊下からやってきた騎士に任せ部屋の中へと入って来た。ぐるりと部屋を一周して見、よし、と頷く。 「とりあえず部屋にはもう敵となるのはいないみたいだね」 「…流石だわ、本当に」 どうやら今の間で結界の網を施したらしい。前から力の部分だけでも差があったというのに、最近の彼の能力は桁外れだ。 「ジャッカルも一度力を全力で出し切ってみると良いよ。意外に限界なんて超えても何とかなるもんだって判るから。 …タシャ、大丈夫かい」 「ああ。これは自分でつけたものだから見た目は酷いが、大丈夫だ」 足を引きずって来ていたタシャの言葉に、ジャッカルはそうか、と納得した。催眠香の影響から逃れる一番の方法は痛みだ。彼はそれを実践したのだろう。 「でも看てもらう事に越した事はないよ。…エルザのこの傷もさ」 彼の言葉に、肩に突き刺さったままの短剣を見た。ユーリスがエルザの肩に触れて、眉をひそめている。 「…深いね」 「ああ。しかも毒かなにか塗られている様だ。今の所極端な症状は出てないが…」 「エルザ」 彼を呼ぶ声が聞こえて、振り返ると其処に居たのはベアトリクスだった。息を切らせて、傍に寄って来る。肩の傷を見て、彼女もまた痛ましそうに目を細めた。 「気絶しているの?」 「いや、剣に何か塗られていたみたいで、その作用みたいだ。」 何か、と呟いて彼女の表情が険しくなる、ベアトリクスが後ろを振り向けば、殆ど気配のない女中がすぐ傍まで来て、屈み込む所だった。失礼、と一声かけ、指先で剣をなぞる。舌先に指をつけ、直ぐに取り出したハンカチに唾を吐く。 「催眠薬も混ざっておりますが、大丈夫です。」 「すぐに治療を」 「畏まりまして」 そう言ったのは別の男達だ。彼等もまた黒一色の服と、黒髪に黒目という出立ちだった。違うのは肌の色だろうか、二人のうち一人は褐色の肌をしていた。恐らくは彼等が親衛隊と呼ばれる者達だろう、ジャッカルは見るのは初めてだ。 彼等が丁寧な手付きでエルザを抱え上げ、部屋を出て行く。女中が後を追おうとして、ふとタシャに振り返る。 「タシャ様の治療も」 「私は後で良い。先にエルザを」 「では、魔術師を御呼び致します。ここでお待ちください」 そういい、彼女もまた部屋から姿を消す。入れ違いに入って来た騎士達に、ベアトリクスが顔を上げた。その視線に気付いて、一人の騎士が直立する。 「伯爵の容態は」 「姫様は催眠香を吸い込んで眠っておられるようです、怪我もないようですので自室にお連れしています。見張りを増やしましたが…」 「それで良いでしょう。侵入者の移動を、生きているのならば処置をして牢に」 「了解しました」 騎士が敬礼し、行動し始めたのを見、ベアトリクスは膝をついていた姿勢からするりと起き上がる。彼等から数歩下がり間をあけ、振り返った。 「…状況を、教えて頂けますね」 タシャとジャッカルは、顔を見合わせた。どちらが言うべきかと一時探り合い、私が、とタシャが頷くのに、ジャッカルもまた頷いた。 「夜半過ぎ、妙な匂いが微かに漂い始めて、私は唐突に眠気に襲われた。 身動きが取れなくなった頃に何処からかあの者達が現れ、彼等は私には目もくれずエルザの下へと集い始めた。 あわやという時にカナン姫が現れ…彼女が魔法で結界を張る事で難を逃れたが、カナン姫がそのまま崩れ落ちた。私は彼女を護る為に、何とか香から逃れて戦いはしたのだが…」 「そうでしたか…。実は執務室にも、彼等がやってきました」 全員が瞠目してベアトリクスを見た。刺客の到来は、想定していなかった訳ではない。だがエルザ以外にも向けられるとは思いもしなかった。 「応戦している途中に伯爵が何かに気付かれ、部屋を出られたのですが…何かを察したのでしょう。 …何処から侵入したかは、未だ定かではないのですか」 「背後から、来た様な気はするのだが」 「背後って…蜘蛛が沸いて出てきやがった場所じゃないのか?」 ジャッカルの言葉にはっとして、タシャが振り返る。部屋の隅に置かれていた棚、蜘蛛は其処から噴出していた。よくよく見ると、棚は元あった場所よりずれている。棚に隠されていた壁には、四角になぞった枠が描かれていた。 「隠し…扉?」 ユーリスの問いに、恐らくはと彼女が応えて進み出た。 「卿、危険だ。私が」 「大丈夫です。…私の読みが正しければ、もうおりません」 「確かにその先には何も居ないよ」 ユーリスの後押しもあってベアトリクスは一人棚へと近付き、ゆるりと腕を伸ばし、壁を押した。壁は四角になぞられた枠から奥へとずれて行き、やがて漆黒の闇に包まれた通路を現す。 「領主の緊急時に使用される通路…というところでしょうか」 独り言の様に、彼女が呟く。そして、 「…それを知っている者が、エルザを狙っている」 声色を低く、囁く様に、己に確認する様に言った。 ---- 収拾がつくのか不安になって参りました ■ |