上を見ろ、ジャッカル。

 呼ばれて、半ば無意識にジャッカルは其の声に従った。見上げて見えたのは、見慣れている…しかし少しばかり懐かしい板張りの天井。其処にひとつの黒い点が見えて、む、と眉を顰めた。八本足の虫が天井に張り付いている。
 何処にでも居るただの蜘蛛だ、一瞬はそう思った。けれど。
「…?」
「ジャッカル、どうしたのさ」
 会話が途切れて問うて来たユーリスに、ジャッカルは天井を見上げながら言った。
「なあ、あれ」
「?」
 ジャッカルの視線を辿ってユーリスもまた天井の蜘蛛へと辿り着き、彼は即座に立ち上がった。二、三歩下がり徐に腕を上げる。指先を向けるのは、天井の蜘蛛。
「ユーリス」
「エルザをしっかり抱えてて、ジャッカル」
 有無を言わさない口調に、事態は思った以上に深刻なのだと感じ、いまだ腕の中で眠りにつくエルザを抱きかかえた。
 しん、と部屋が静まり返る。暫し誰も動かず、聞こえるのは皆の息づかいの音だけ。それが数分続いた後、ゆっくりと、蜘蛛の足が動いた。
 糸を吐き出して、のろのろと降りて来る──エルザの真上に。
「…ユーリス」
「黙って、」
 徐々に降りて行くそれに狙いを定めて、けれどまだユーリスは動かない。
 ジャッカルが腕を伸ばせば届く所まで降りた瞬間、ユーリスから魔力の気配を感じた。だがその力は何時もの様な周りを圧倒する存在感はない。きりきりと針の如く力を張り詰めさせて行き──そして、放つ。
 素早さも上がった小さな火の針は一瞬の内に蜘蛛の胴体を貫いたかに見えた、だが微かに蜘蛛が降りる速度を早め、糸を切るのみだった。
 音もなく掛布の上に蜘蛛が転がり、足を伸ばす。そのまま進む方向は、どう考えてもエルザの方だ。咄嗟にジャッカルがそれを払いのければ、蜘蛛は呆気無く床へと転がり落ちた。
 其処へ体制を整える間を取らせる事なく、ユーリスががつ、と音と立てて靴底を落とした。つまりは、踏みつけた。
「うっわ、やるなあユーリス…」
 苦笑いを浮かべたジャッカルに、確り始末したか確認していたユーリスが振り向いて呆れる。
「何、蜘蛛なんてこれの何倍の奴を相手にしたじゃない」
「そうだけどよぉ」
「所で、エルザは?」
 ん、と腕の中の掛布の塊を覗くと、彼は相変わらず眠りについていた。
「大丈夫みたいだ」
「そう」
「しかしよ、何を待ってたんだ? もちょっと早く攻撃することは出来たんだろ」
「それでも良かったんだけどね…一応さ」
 ゆっくりと近付いて来て、ユーリスが手を上げる。指先が何かを絡める様に動いた。
「糸?」
「そう。…やっぱり」
 空を舞っていた糸を持って険しい表情を浮かべたユーリスに、もしやとジャッカルは問いかけた。
「…そうなのか?」
「ああ。……これは使役蟲だ」
 掌を握りしめ、ユーリスは告げる。
「エルザが狙われたんだ」



 女が泣いていた。涙をはらはらと流しながら、頽れている。
 どうして泣いているんだい。男が膝をついて問うた。
 私ではないのです。女が応えた。──私ではない私が流す涙です。しかし私のものでもあるのです。
 女が泣きながら続ける。──貴方がいると知ったとき、私は歓喜に打ち震えました。私が私ではない様に、貴方も貴方ではない事は判っていた。けれど、それでもまた相見える事が出来た事に胸が高鳴ったのです。それはきっと、私ではない私にも伝わったのでしょう。
 それは私も同じだよ。男が言う。──あなたに再び出会えて、嬉しかった。
 ええ、ええ。女が相槌を打つ。──嬉しかった。貴方を独りにしてしまった事を、ずっと口惜しく思っていた。もしまた何処かで相見えるならば、今度こそは共にいたいと、思っていた。…その想いが、私ではない私を、あのこを縛り付けてしまった。
 肩を震わせて、女は泣いていた。男は静かに女の言葉を待った。
 護りたかった。ただ護りたかっただけ。けれどその想いの結果が、たった一人の家族を、あんな形で失わせる事になってしまった。女は嘆く。──家族を大事にしていたのに、家族の変化に気付けなかった。貴方を護ろうと必死になるあまりに、家族が重ねていた掌を離した事に、気付けなかった。あれが最後の機会だったのに。いまあのこの掌に残っているのは、家族の肉を断った感触と、血の温かさだけなのです…
 苦し気な告白だった。女は更に俯いて、涙を零した。
 …泣かないで、愛しい人よ。男が囁いた。──貴方はいつも一人で背負ってしまう。それがどれだけ私にとって辛い事か、判るだろうか。
 男は続ける。──それは私にも非があるんだ。告げれば良かったと私ではない私は、ずっと悔い続けている。
 女が顔を上げた、其処で初めて、女は男と顔を合わせた。
 私達は、お互いにお互いしかいなかった。そして貴方を私の所為で失った事がとても悲しくて、今度相見える事があるのならば、今度こそ貴方を護ろうと、思ったのだ。…けれどまた、護れなかった。
 男が、女の顔を両の掌で包み込む。
 其の傷は恐らく、生涯消えないのだろう。私の胸の痛みが消えなかった様に。男が言う。──其の傷だけは共に背負う事も出来ない。
 けれど、男が続ける。
 だからといって幸せになれぬという事はない。純粋な幸福を得られる者は稀だ。…今度こそ私は、貴方を幸せにしようと思う。
 男が微笑み、そして続ける。──貴方を護りたかった、けれど私ではない私は、貴方と、貴方の家族に迷惑をかけるばかりだった。それでも貴方は、そして貴方の家族は、私ではない私…あのこをずっと、案じてくれた。…そして自由にしてくれた。あのこに生きる術を、選択出来る道を、与えてくれた。
 ならば次は私だろう? 男が笑って告げた。──貴方とともに生きる。貴方を幸せにしよう。
 女が眼を細めた、唇が震える。──嗚呼…

「…アルガナン…」
 そう言った己の声で、エルザは眼を醒した。
 けれど意識が浮上したのは判るのだが、其処からが動かない。此処は何処だろう──自分は誰だ? そんな混乱が駆け巡り、
「エルザ」
 自分を呼ぶ声で、己がエルザだと言う事を認識する。眼を瞬かせて、ゆるりと首を動かした。見えたのは、透き通った空色の瞳。
「…カ、ナン?」
「ええ。おはよう、エルザ」
 微笑む彼女。其の両手が、エルザの右手をずっと握りしめていた。温もりが既に伝わり合って馴染んでいるのを見ると、長い事握りしめ続けていたのだろうか。そういえば、彼女に触れるのは久し振りの様な気がした。お互いに仕事だ何だとすれ違いが続いていて顔を合わせる事も稀で…と考えた所で、はたと気付く。
「えっと、おはよう。…あれ? カナン、政務は、」
「もう、自分の状況判ってるの? エルザってば」
 え、と戸惑いの声を出して、幾度か眼を瞬かせる。その様を見て彼女は苦笑を浮かべ、困ったわね、と首を傾げた。
「自分が倒れかけたっていうこと、覚えてる?」
「……あー…」
 その言葉で、眠りにつく前の事を思い出した。…周りを見てみれば、居た筈の二人がいない。
「ジャッカルとユーリスは?」
「二人とも一階にいるわ。他の人達も皆も来ている筈よ」
「…そうか」
「ね、エルザ?」
 楽しそうにカナンが問うてくるのに、エルザは寝台に横になったまま、なんだい、と聞いた。
「今日何日だと思う?」
「え? 十六日じゃ…」
「残念でした!」
 にっこり笑って、カナンは告げる。
「今日は十七日よ?」
「……………えぇ!?」
 思わず声を上げて上半身を起こす、其の瞬間に強い目眩が起こり、身体が傾いたのを慌ててカナンが支えた。
「大丈夫?」
「ご、めん」
「気をつけて、ずっと眠り続けてたんだもの」
「でもどうして…」
 エルザはあまり自覚がないが、周囲の意見に寄ると眠りが浅い体質なのだという。最近は余程の騒音ではない限りは起きる事はなかったが、だが仲間二人が傍から離れ、そしてこんな傍にカナンが居たと言うのに目が醒めた記憶がないというのは確かに稀だ。おまけに一日ならまだしもそれ以上は初めての事だ、流石に衝撃を受けて呆然としていると、にっこりとカナンが笑っていることに気付いた。
「…カナン?」
「エルザ、部屋、改築しましょ?」
 突然の言葉に、暫し理解する間が必要だった。
「はい?」
「エルザの部屋の修繕と一緒に、私の部屋への直通の扉を設けるの。私の仕事が先に終わった時はそのままで良いけれど、貴方が先に終わったら、奥の部屋で休んで? 流石に隣の部屋なら音は聞こえないわよね?」
「あのー、話が見えないんですが…」
「じゃなかったら、予備の寝台を作っておくのも良いかもしれないわね。あっ、アルコーヴベッドなんてどうかしら! ちょっとあこがれだったの!」
「カナンさーん?」
 困惑するエルザを見て、くすくすとカナンが笑う。
「ごめんなさい。ちょっと意地悪したかったの。だって知らなかったんだもの」
「知らなかった?」
「寝てる時に誰かが近付くと、起きちゃうなんて」
 誰の事かと思って、自分の事かと思い至る。知識としてはあるが、認識としては薄い。
「…ああ。隠してるつもりは、なかったんだけど」
「ま、そうよね。同じ寝台使う様になったのも、エルザが使っていた部屋が崩壊してしまったからだし。
 でも、それからずっと眠れていなかった訳では…ないわよね?」
「確かに気配とかで目は醒めるけど、眠れていない訳じゃない。それにカナンには、お願いしてたろ?」
「お願い?」
 先程まで握られていた右手を前に掲げる。成程、とカナンが頷きながら、その手に自分の手を重ねた。
「ジャッカルが言ってたのはそういう事なのね」
「ジャッカル?」
「ええ。交代でエルザの様子を見る時は、必ず身体の何処かに触れてあげてくれって」
「そんな事を…って、交代?」
 聞き捨てならない言葉を繰り返せば、彼女はまたにっこりと笑った。
「私は今日やっと街に降りて来たから初めてだけど、それまでは貴方の仲間達で交代してたそうよ?」
「…まさか、マナミアやセイレン、も?」
「セイレンは嬉々として抱き締めてたそうだけど、本当に記憶ない?」
「…………………」
 絶句するエルザに、くすくすとカナンが笑う。
「みんな、エルザが好きなのね」
「どうしたらそういう方向になるかな…」
「なるのよ。そうやって、みんな、エルザを護ろうとしてる」
「…護、る?」
 微かに眉間に皺を寄せて問えば、そうね、と彼女は頷いて立ち上がった。
「まずは一階に行きましょう? 朝御飯もまだだし。で、はい」
 隣に置いていた何かの塊を、カナンは纏めてエルザに手渡した。見やればそれは、エルザの衣服一式だ。…殆ど何も纏っていない事に今気付いた。
「…着せる?」
 何か含みのある笑みに、エルザは精一杯首を横に振った。

 しかし、着替えひとつにも随分とエルザは時間をかけるはめになった。何故なら、動こうとする度に強い目眩が生じたのだ。吐き気も交える目眩を堪えながら何とか終え、ブーツを履き、床に足をつけ溜息をついた。
 目が醒めてからこんなことばかりだ、とひとりごちる。気分は二日も寝て久し振りに良いというのに、それに調子が追い付いて行かないとは。
 気を緩めば何も判らなくなりそうな意識を保とうと、く、と奥歯を噛み締め、立ち上がろうとしたのだが足に力が入らず、身体が傾いて見事に倒れた。床に叩き付けられた痛みと同時に発生した目眩で一瞬気が遠くなる。
「エルザ! だ、大丈夫!?」
 音を聞いて部屋に入って来たカナンが慌てて駆け寄って来た。
「す、まない。目眩が酷くて…」
「もう! それならそうと言ってくれればいいのにっ」
 カナンはエルザの腕を抱えてそっと引き起こした。そのまま自分に寄りかからせる様に腕を添えて、ゆっくりと歩き出す。
「これならまず食事が先かしら…」
「あんまり、食べる気がしないんだけど」
「だめ。それは、良くない兆候よ」
 ぴしゃりと撥ね除けて、階段をひとつ下る。すると下から顔をのぞかせて来た者がひとり。ジャッカルだった。
「ようおはようさん。さっき盛大な音が聞こえたが、どした? ってか、どうしたよ」
「エルザが目眩を起こして倒れたのよ。今もまともに歩けないって」
「あちゃあ。そうなっちまったか」
 まるで予測済みだと言わんばかりのジャッカルの言い方にエルザは困惑した。自分だけが自分自身の理解をできていないようだ。
 ずかずかと階段を上がってきたジャッカルがエルザの片腕を首に掛けて、その反対はカナンが支え、二人掛かりで階段を下りる。その間もぐらぐらと揺れるだけで視界が回る酷い有様に、ジャッカルが苦笑を浮かべた。
「下ろさない方が良かったかもなあ。ま、カナンもマナミアもいるし、なんとかなるか」
「うう…。…マナミア、いるんだ」
「おう、全員居るぜ。おまけにもう一人な」
「?」
 階段を下り切って部屋の内部を振り返れば、軽く挨拶をしてくる仲間達と其の中に、酒場に似つかわしくない純白の出立ちの者が一人佇んでいた。
「タシャ?」
 タシャと呼ばれた青年は、エルザの様を見て徐に溜息をつく。
「過労で倒れたにしては、酷い状態だな、エルザ」
「…みたいだ」
 苦笑いで返せば、彼はただ肩を竦めた。そして次にゆるりと振り返り、ユーリスを見る。
「して、話とは。」
「そうだね、皆揃ったし。ジャッカル、エルザを此処へ座らせて」
 椅子を引いて指し示すユーリスに、ジャッカルが待った、と挙手した。
「先に朝食にしようや。じゃねえとエルザ途中でぶっ倒れちまいそうだ」
 丁度其のタイミングで酒場の扉が開く。振り向いて見れば、アリエル達が食事を持って入って来た。
「おはようございます! あ、エルザも起きられたのね」
「ああ、おはよう。二日も上で寝ちゃってごめん」
「いいえ! 最近のエルザは働き過ぎだって皆心配してたから。
 あ、食事、持って来たのでどうぞ!」
「ナイスタイミング! ユーリス、まずは食っちまおうぜえっ。折角の料理を冷めさせちまうのは駄目だろ!」
「そうですわ。アリエルさんや、マスターの厚意を無駄にする様なものですわよ?」
 食事を見た途端ぐっと詰め寄って来た女性陣にユーリスは一歩下がり、そして溜息をついた。それを了承の合図と受け取った彼女達はひとつのテーブルを囲んで次々に準備を始め出した。他の仲間もその流れに乗るしか道はないと判り切っているので、次々と席に座って行く。
「騎士様はどうします?」
「申し訳ない、私はもう既に摂った後なのだ」
「じゃあ紅茶だけでも。 あ、好みはありましたか?」
「ルリのものはどれも美味い。頂こう」
「はい! あっマナミア、こちらもどうぞ」
「いただきますわ」
「エルザ、ここ座って? 大丈夫?」
「少し落ち着いて来た…」
「調子の方はどうよ、エルザ」
「気分は随分良いんだけどね…本当に吃驚する位体調が悪いみたいだ」
「エルザ、最近肉は食べた?」
「え?」
「というか、まともな食事は摂った?」
「とった…けど」
「三食?」
「………」
「…エルザ」
「あーまてまて」
「ほらユーリス、食事時にエルザを脅すなっつのー」
「脅してるつもりはないんだけどね。無茶苦茶腹が立ってはいるけど」
「…似た様なもんだろ…」
「お前…よっぽどだったんだな…」
「空腹の時はイライラしやすいって言うわよ? ほら、エルザどうぞ!」
「あ、有難う…」
 アリエルがエルザの前に置いたのは、いつもの焼きたてパンに、以前好きだと言った色とりどりの野菜が入ったクリームスープ。本来は大きめに刻まれている野菜は今回はとことん煮込まれて形が殆どない。ふわりと浮んで来る湯気の温かさが、縮むばかりだった食欲を少しだけ回復させた気がした。
「二日も何も食べてないって聞いたからこんなメニューにしちゃったんだけど…」
「や、急に肉や魚食わせたって胃が受け付けないだろうさ。ありがとな、アリエル」
 ジャッカルの言葉に頷いて、エルザも続いて礼を言う。
「有難う。頂くよ」
 それぞれ礼を述べ、食事を開始した。がつがつとハムに齧り付いて、セイレンが美味しそうに頬張る。
「やーっぱここの料理は美味いなあ! 酒が欲しくなるぜー」
「飲むなよセイレン。この後真面目な話があんだからよ」
「わーってるつーの」
 隣ではカナンが行儀よくスープを飲み、そして行儀悪くパンに齧り付いていた。
「アリエルさんとマスターの料理久し振り。やっぱり美味しいわ」
「有り難うございます! カナン様に言っていただけるなんて、光栄です」
「あ、お店再会したら、前に食べた鶏肉料理、食べに来ても良いかしら? 忘れられなくて!」
「ええ、いつでもどうぞ!」
 その隣ではマナミアがマスターにお代わりを注いでもらいながら黙々と食べ進めていた。其の隣と、斜向いのタシャとユーリスも、黙々と食事を進めている。
 皆の様子を一通り見てから、ようようエルザも匙を手に取った。スープを掬いとって、口に運ぶ。舌触りの良い食感と甘みが口の中に広がって行って、無意識にほっと息をついた。
「大丈夫?」
 横から様子を見ていたアリエルが声をかけて来て、エルザは頷いた。
「大丈夫。有難う、とても美味しいよ」
 良かった、と満面の笑みでアリエルが応えた。
「じゃあ、そろそろ戻るわね。食器なんかは纏めて置いといてくれれば良いから」
「りょーかい。 ありがとなーアリエル!」
 元の復興作業に戻る彼女達を見送って、それからは暫くは皆食事を平らげる事に専念した。景気よく頬張るセイレンに、粗雑そうでいて実は要所要所に作法が感じられるジャッカル。その逆のカナンに、驚く程のペースでしかし丁寧に料理を平らげるマナミア。一般的な食べ方をするユーリス。意外に我関せずという様子で紅茶を飲むタシャ。
 何だか懐かしい気がして、そういえば最近は、食事の場で全員が集まる事がなかった事に気付いた。この頃はカナンも政務で忙しく、エルザもまたルリの街を走り回っていたので一人で食事をとる事が多くなっていたのだ。
 以前ならこうして、皆で集まって食べる事が当たり前だった。全員が集まれなくても、少なくとも一人ではない事の方が多かった。
 正直な所最近は食欲が減退していたが、理由のひとつはこれか、と不意にエルザは気付いた。
 一人の食事は、幼い頃を思い出すのだ。
「エルザ、辛いか?」
 手が止まっていたらしい、ジャッカルの声にふと気付いて、首を振る。
「大丈夫だ。これくらいは食べられるよ」
「なら良いけどよ。無理すんなよ? 具合悪くなっちまったら意味ねえんだからな」
「ああ」
 パンをとって、一口齧る。柔らかく作られたパンは優しい甘さだった。



 全員が食事を終えて暫し。たっぷりと食事をとって気力を満たしたマナミアから治癒魔法を受け、少しばかり調子を取り戻したエルザの傍にユーリスが立った。
「じゃあ、ここに集まってもらった理由を説明するよ。エルザ、ちょっと俯いて」
「え、こうか?」
 俯けば、ユーリスが後ろ髪をかきあげて、エルザの項を晒した。その時ちり、と針が刺さる様な痛みを感じ、傷があるのだろうかとエルザは不思議に思った。
 ぞろぞろと仲間達が背後に回り、エルザの項を見る。うわあ、と声を上げたのはセイレンだ。
「いたそーだな、おい。エルザ、何にも感じないのか?」
「え? さっきちょっと、ぴりっとした痛みは感じたけど」
「これでちょっとねえ…結構痛そうな腫れ方してんぜー」
「腫れてる?」
「セイレンは大袈裟過ぎ。でも腫れてるよ。
 マナミア、どう?」
 ユーリスがマナミアに声をかけると、彼女は人差し指を傷のある場所…生え際の下、背骨が通る辺りの赤みを帯び、晴れ上がっている肌に触れさせた。また先程の小さい痛みを感じて、エルザは顔を顰める。
「…そうですわね。感じますわ」
「何を感じるのだ」
 タシャの問いに顔を上げてマナミアが応える。
「どなたかの魔力です。これは、使役という技を使う方が持つ力ですわ」
 事情を知らない者達が驚愕の声を上げた。エルザも同様で、彼は暫し理解に時間が必要だった。けれどその様子に気付かず、ユーリスは説明を続ける。
「エルザは最近、連日夢見が悪かったと言っていた。僕はそれをエルザの精神疲労によるものじゃなく、人為的なものだと思ってる」
「それって、エルザは故意に悪夢を見せられたって事?」
「そうなるね」
 カナンの問いにユーリスが頷く。
「でも一体どうすりゃそうなるんだよ。悪夢見せる魔法なんて、あんのか」
「ない訳じゃないけど、これはちょっと仕様が違う。これを見て」
 セイレンの疑問に応えながら、ユーリスは懐から小さな小瓶を取り出した。中に入っているのは真黒な蜘蛛。
「これは吸血蜘蛛って言うんだ」
 ぎょっとしてセイレンが後退った。
「吸血!? 蜘蛛が血を吸うのか?」
「そう、随分昔に絶滅した筈なんだけどね。この二日間で六匹現れてる」
「何だって? 何時? あたしは気付かなかったぞ?」
「ジャッカルが居た頃に一度だけ昼間に来たけど、其の後は全部夜中だ。
 こいつ自体は注意して探していないと見つからない位の微かな気配だから皆気付かないよ。」
「…」
 誰も声を出せず、ただユーリスの言葉を待つ。
「こいつは吸血を行う時に、傷口が塞がらない様に特殊な液を出す。それが人間にとっては少しばかり脳、精神に影響を及ぼす毒でね…足や手に咬まれたなら、影響が出る前に消えてしまう位小さな効果なんだけど。
 頭に、意識や思考を司る脳に近い場所を咬まれると、悪夢を見せる等の影響を与える」
 例えば、ここに。顔を上げてユーリスを凝視しているエルザの項に、髪の上から手を乗せて言った。
「一度くらいなら夢見が悪かったで終わるだろう。けれどそれが二度、三度と続けば、睡眠妨害として多大な精神疲労を与える。
 …それを見越して、毎夜蜘蛛を放し続けた奴がいるんだ」
「特定は出来ているのか」
 タシャの発言には、彼は首を振った。
「流石に其処まではね。けれど、絞り込む事は出来るよ。
 其の前に確認をしておきたい。エルザ」
 呼ばれて、呆然としたままのエルザが、え、とユーリスを見た。
「心当たり、ある?」
「こころ…あたり」
「エルザに対して良い感情を持っていない奴がいるかってこと」
 ユーリスの言葉を理解する為に、幾度か心の中で繰り返す。良い感情を持っていないもの。
 そんなのいるのかね、とセイレンが肩を竦めながらつぶやくのを思考の隅で聞き取り、そんなことはないよ、と心の中で返した。
 周囲の親しい人間が思っているよりも、エルザは自分が煙たがれやすい人間だと自覚している。周囲曰くエルザの性格に対して思う所があることが多いらしいが、存在自体を否定された事も少なくはない。
 ルリ島では、その様な反応は随分と少なくなっている。というよりは、殆どなかったと言って良い。彼等は本土と比べれば豊かな生き方をしているからだろう、心に余裕があるのだ。傭兵として忌避されてはいたものの、島のためになる行為を行えば、次第に態度が軟化していった。笑顔を見せてくれる様になった。
 その中にあった、幾つかの絡み付く視線。
「──、」
 目を伏せて、けれどエルザは口を開かなかった。沈黙が舞い降りた酒場の中、誰もがエルザが言葉を発するのを待っている。けれど待てどもエルザは何かを告げようとする様子がなく。
「…判ったよ。居る事は居るんだね。それだけでも十分だ」
 溜息をついて、ユーリスが妥協した。
「良いのかよ?」
 セイレンの問いに彼は肩を竦める。
「絞り込む事は出来るって、言っただろ。そもそもこの蜘蛛は絶滅した筈の種なんだ。絶滅した原因は生息地である森が消滅した所為だけど、蜘蛛自体も繊細な生き物でね、飼う事が難しい。ルリの森にただ放し飼いするだけじゃ無理だ。
 となると設備が必要になる。費用もね。」
 ユーリスに続く様に、ジャッカルが腕を組んで言った。
「んで、貴族一択になった訳だ」
 はっと、カナンが息を呑んだ。それを聞いているだろう、けれどユーリスははっきりと是と告げた。
「最初は他の傭兵達も考えた。けれどあの力は独特なんだ、街中で本人と擦れ違えば僕やマナミア、ジャッカルが気付かない筈はない。でも僕らは街でこんな異様な気配に会った覚えはない。と言う事は、街とは少し離れた場所に居るんだろう。そして街中に出なくても良い環境がある、と推測する事になる。」
「貴族なら全部可能ってか」
「そう。それで、やっと本題だ」
 言って、ユーリスはエルザを見た。
「エルザ、これからどうするの?」
「え、これからって…」
「このままもう一度寝るなんて、エルザの性格じゃ考えてないだろう?」
「ああ、まあ…一応二日も空けたから、城には一度顔を出さないと」
 だよね、と頷いて、今度は皆の方へ顔を向けるユーリス。
「十中八九、ここ数日のうちに向こうから本格的に攻撃を仕掛けて来ると思う」
「根拠は?」
 セイレンの問いに彼は応える。
「僕らが気付いた事を、向こうも気付いてる。僕らが動き出す事は判っているだろうさ。
 この蜘蛛で長期戦って可能性もあるけど、エルザが起きている間は影響はない。ならもう一歩踏み込んで来るだろうと考えた方がいい」
「他に問題が?」
「これだけ蜘蛛を使えるなら、親蜘蛛がいる。それが厄介だ」
 それで、と話を催促されるまま彼は続ける。
「親蜘蛛は力が強くなる上、付加要素が付く。…噛み付いた奴の精神を浸食して操る事が出来るようになるんだ」
 誰かが息を呑む音が聞こえた。動揺が広がる中、ユーリスはまた続けた。
「恐らく今までは、悪夢を見せて精神疲労を与え続け、自殺にでも追い込むつもりだったんだろう。けれど僕らが気付いた、これからは抵抗が始まると判れば、今までのやり方では冗長戦になる。
 なら、攫うなり隙を狙うなりして、エルザに親蜘蛛を使って操った方が早い。捉えれば向こうの意のままだ。そのまま頸動脈を──」
 親指で、自分の首を一線。
「──斬らせてしまえばいい。
 そんな風にエルザを狙ってる奴が、このルリにいる」
 しん、と部屋の中が静まり返った。
 誰も声を出せずに居る、表情は様々だが、当事者のエルザは一人、その面持ちに何も浮かべずに居た。──この島に来てからはよく狙われてばかりで、何処か感覚が麻痺してしまったのだろうかとさえ思う。
 ああ、でも。何処かで思う。
 他の誰かではないから、慌てていないだけなのかもしれない。
 突如、がん、と椅子を蹴られて落ちかけ、目眩が起こる中エルザは慌ててテーブルにしがみついた。見上げると不機嫌全開のユーリスが睨みつけて来ている。
「え、え?」
「…今碌でもない事考えたろ」
「ええっ?」
 エルザの引き攣った応えに盛大に舌打ちを打ちつつ、ユーリスは彼を無視して顔を上げた。
「まあ、見た通りにこの莫迦は、自分の命が危ないって判っても危機意識が薄い。
 傭兵としては力があるし大抵何でもこなせるからだろうけど、今回はそうも行かない。蜘蛛に取り付かれたら一巻の終わりだ」
「成程。護衛を必要とする訳だな」
 タシャの言葉にそう、とユーリスは頷く。
「メインは僕とジャッカルで行う予定。で、フォローを皆にお願いしたいんだ。
 一応きいておくけど。異論は?」
「なんでメインがお前とジャッカルなんだよ」
 何か気に入らない様子のセイレンの問いに、ユーリスは若干冷めた視線を向けた。
「セイレンは魔法の気配を辿れる?」
「…あー」
「そういう意味の護衛だ。
 カナンとマナミアは治癒魔法をいつでも使える様にしてほしいから、メインにはいれない。あと、夜だ。夜は面倒な事に、二人は居ないと無理だから、そちらに回ってもらう。」
「? どういうことだ」
「それは………」
 タシャへ視線を向けて説明しようとするも、ユーリスは言葉を濁した。
「?」
「…まあ、当日になれば判るよ。タシャには見張りを頼むから」
「……何か釈然としないが、判った」
「そんな訳で、後は役割分担なんかの話になるから、ジャッカルに任せるよ」
「はいはーい。そんじゃこっち注目ー」
 話を振られて、ジャッカルが手を振って皆の視線を集めた。つられるように彼の方へ向いたエルザの傍の椅子に、どかりとユーリスが座る。
「…」
「何?」
「あ、いや…」
 突慳貪な言い方に思わず視線を反らしてしまうと、横から溜息が聞こえた。
「大方、あんまり理解してないんだろ。血が少ないから脳の働きが低下してるだろうし、仕様がないだろうけど」
「え、俺、血が少ないのか」
「…そうだ、聞こうと思っていたんだ。一体何時から夢を見てたの」
「えっ」
 思わず戻した視線をまた反らしたが、ユーリスの突き刺さらんばかりのきつい眼差しはこちらに向けられたままだった。先程の様にまあいい、と言ってくれないだろうかと願ったが、ユーリスは一向に言う気配がない。
 根負けして、エルザは渋々口を開いた。
「…三週間、くらい前から」
「毎日、寝る度にだったよね?」
 こくり、と頷く。
「食事は摂ってた?」
「摂ってたよ。…たまに二食になった事もあったけど」
「肉は食べた? 魚は?」
 え、と答えに窮し、視線をさまよわせて暫し記憶を遡った。
「…あんまり食べてなかったかも」
「それだ。そうか、エルザは気付かないと野菜ばかり摂るんだったっけ。」
「そんな事はないと思うんだけど…」
「僕やジャッカルに比べたら少ないだろう。今日からは時間がある限り一緒に食べよう、じゃなきゃ何時までたっても回復しやしない」
「そんな、言われたら、それくらいは自分で気をつけるよ」
 ぎ、と鋭く睨まれて、エルザは口を閉ざした。今日のユーリスは機嫌が今までにない程悪い。こんなに睨まれるのは初めてだ。
「君のそういう発言を、これから五割信用しないから」
「ごわ…」
 愕然としている所に、おおい、とジャッカルから声がかかった。
「ユーリスは判ってんだろうが、一応お前等メインなんだし話きいとけよー」
「判ってるよ」
「ほんとかねえ…」
 苦笑しながら説明を再会し始めたジャッカルの声に、今度は本当に耳を傾け始めたユーリスを横目でみつつ、エルザもまた前を向いた。けれど結局、音が耳から耳へ抜けて行く。
 脳が動かないとはこういう事か、と人ごとの様に思う。頭が全く働かない。…考えたくないと言わんばかりに。
 本当は、本当に考えたくないのかもしれない。
「…おーい、エルザー」
「えっ」
 ぼんやりとしていると、ジャッカルに名を呼ばれている事に気付かずエルザは慌てて顔を上げた。苦笑して、ジャッカルが肩を竦めた。
「お前さんから、なんか一言ないか?」
 目を瞬かせ、ひとこと、と呟く。彼等に言いたい事といえば。
「…えっと、すまない。迷惑かけて」
 今度は彼等が目を瞬かせる番だった。思わずと言った風に全員で顔を見合わせ、そしてタシャも含めた全員が溜息をつく。
「な、なんだよ」
「なんだよ、じゃないだろぉ?」
 颯爽とセイレンが近寄って来て、がしりと掌でエルザの頭を抑えつけた。そのままぐらぐらと揺らしながら頭を撫でて来る。
「ちょ、やめ、目がまわ…っ」
「エルザぁ。そういう時の台詞は違うだろぉ?」
「うえ…」
「…セイレン、本当に目を回してるよ、エルザ」
 前後左右が判らなくなって来た頃に手を離されて、エルザは頭を抱えて屈み込んだ。収まっていた目眩と吐き気が再生されて、上半身を起こす事も侭ならない。
「…今日休ませた方がいんじゃね?」
「とは思うけど、この頑固者が言う事聞くと思う?」
「確かにねえ…」
 そう溜息混じりに呟くセイレンの気配が、近くなった。目眩のおさまって来た頭を上げると、至近距離に彼女の顔がある。驚いて身を引きかけたが、エルザは止まった。…セイレンの笑顔がいつになく柔らかだ。
「おっきくなったなあ、お前」
「セイレン」
「あたしと初めて会った頃、覚えてるか? お前は今のユーリスより小さくて、剣すらまともに扱えなかった」
「…」
「頑張って頑張って、剣を持てる様になって、今じゃ一人前の男で、騎士だ。
 でもさ、あたしやジャッカルにしたら、あんたはまだまだ可愛い弟分なんだよ。」
 柔らかい仕草で髪を梳く。あの長剣を持つ指にしては細い指。
「だから、そういう事で謝って欲しくないんだよ。謝られると、まるで他人の様に感じちまう。」
「でも」
「あたしらが、」
 有無を言わさぬ様な勢いで、セイレンが言う。
「嫌々お前の事に関わってるとでも思ってんのか?」
「違う」
「じゃあなんだよ?」
「…」
「エルザ」
 やんわりとエルザの頬を、セイレンの掌が包んだ。
「こういう時くらい、助けてくれって言わなきゃ、だめだぜ?」
「…セイレン」
「もう、いないんだからな」
 言わなくても、判ってくれる人は。
 つきり、と胸に針が刺さった。同時に其処から血の玉が浮かび上がるように、感情が溢れて行く。ただ赤いだけではないその色に惑い、エルザは瞼を閉ざした。
 無軌道に広がってしまいそうな色を、辛うじて抑える。そうしてゆるりと頷くと、セイレンが苦笑混じりに呟いた。
「やれやれ、まだ時間が必要か」
 上体を起こして、彼女は溜息をつく。
「ま、そんな急がせやしないさ。
 とりあえずは、だ。こういう時はどう言うかは、判ったか?」
 え、と目を瞬かせ、エルザはセイレンを見上げた。
「全く。自分で言っておいて忘れるなんてね」
 ユーリスが横から入ってきたのに彼の方へも視線を向ける。
「あのね、言っておくけれど、此処に居る皆は君がこんな事になって、何か出来ないのかって思って集まって来てるんだからね」
「あ…ご、」
「ごめんじゃない」
 ぴしゃり、とまた遮られる。
「君だろう? こういう時はこう言うんだって、僕に教えたのは」
 にぃ、とユーリスが笑う。少年らしい彼の笑顔を見て、あ、と初めて彼の笑顔を見た時の事を思い出す。
 …そうだった。
 理解するととても言い難くなる。顔に血が上るのを自覚しながら、それでも視線は皆の方へと流れて行く。違和感のない眼差しが向けられているのを見て、肩の力が抜けて行くのが判った。
 僅かに俯かせて、動き難くなった唇を動かして、エルザは言った。
「えっと、…ありがとう。少しだけ、皆の力を借りたい」
 セイレンが、よく出来たとエルザの背を叩いた。




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終わる気がしません