扉を開ければ、がらんどうの酒場。修繕は続けられているものの、まだ所々壊れたままの部分が見えた。ついこの前までは入る事も危ぶまれたが、殆どの基礎が無事だった事、床の修繕は終えていたので、こうしてジャッカルは酒場に足を踏み入れることができたのだった。 ほぼ無傷だったらしい階段を上って二階へ移動する。酒場の一番の損傷は調理場とアリエルの家族たちが使う部屋と聞いた通り、目の前にある彼女の弟の部屋の壁は修繕が行き届いていないのか大きな穴をあけていた。けれどこの階段然り、酒場の東側は奇跡に近い程残っていた。 その東側に眼を向けると、隻眼がジャッカルを睨みつけた。 「よう」 「…現場は?」 「落ち着いたよ。んで、こっちはどうしたかと思って来たんだが。よくここに来たな」 「床は修理終わってるってアリエルから聞いてた。 ……あいつが眠れる場所っていったら、ここしか思いつかなかったんだ」 「…エルザは?」 そう問えば、隻眼の少年…ユーリスが椅子に座ったまま、ちらと後ろの扉を見た。行って良しとの了承と受け取って、ジャッカルは足音を静めつつ戸に近付いた。ノックしかけ、留まる。そのまま、そっと扉を開けた。 中は多少荒れていたが、今までの原型を留めていた。初めに見たのは、彼がもともと使っていた寝台。だがそこに人影はない。 視線を横にずらし、ジャッカルは息を潜めた。探していた姿は、確かにあった。奥の寝台で身体を縮めて、静かに横になっている。 開けた時と同じく、極力音を立てず戸を閉めた。自分の眉間に皺が寄っているのが判った。振り向けば、ユーリスも苦々しい表情を浮かべている。 「寝ては…いるんだよな?」 「多分ね。確認はしてないよ、今はきっと、部屋に入るだけで目が醒める」 「だよなあ…」 くしゃくしゃに髪をかき混ぜ、溜息をひとつ。隅に追いやられていた椅子を持ち出し、ジャッカルはユーリスの隣に腰を下ろした。 「ジャッカルまでいる必要ないよ。僕がいるから」 「判っちゃ居るが、ちょーっと、俺も反省したい時があるんだよ」 「反省?」 「エルザにとっちゃ、ユーリスは弟分のようなもんだったな。 言う事聞かなくて苛々してたんじゃねーか?」 言葉なく、ユーリスは何度か眼を瞬かせ、次に現れたのは苦虫を大量に口に含んだかの様な渋い面持ちだった。 事の発端は、ルリ島でグルグ族を受け入れると決めた事だ。 ルリ島は帝国の防衛最前線、昨今は少なかったそうだが、歴史的には幾度もグルグ族と争って来た。民間人はまだしも、騎士や航海中に襲われ労働力として酷使された船員たちには寝耳に水だっただろう。グルグ族の方も受け入れられぬ者が居ない訳ではない。当然反発が現れ、一時騒然となった。 その緩衝剤を担ったのが、エルザだった。 エルザは兎角、話し合った。納得が行かないと言われれば納得いくまで話し込み、家族が殺されたと嘆かれればただ黙って宥めた。根気よく粘り、少しずつ、だが異様な早さで島民の理解をエルザは得て行った。元から彼は島民との交流が深かったのが理由のひとつとしてあるだろう。彼自身を知る島民が後押しを行い、これで戦争は終わるのだという思いの下で一応の納得を得られつつある。 グルグ族の方はエルザへの信用が異常に高く、元戦士以外の受け入れはすんなりと行った。元より彼等は困窮していたのだ、ルリ島の受け入れは思いがけない話だっただろう、ただ静かに理解を示した。 そうして残るは頑に受け入れられない者達との折り合いだ。其処が問題だった。エルザは今もこの問題で走り回っている。反発する者達との会話は困難を極め、疲労の色が次第に浮んで行くのが誰の眼にも判った。けれど彼は立ち止まらない。 業を煮やしたのがユーリスだ。彼に付いて、彼の補佐をしつつも、只管休めと言い続けたらしい。だがその言葉は受け入れられず、逆にユーリスの負担になるまいと振る舞い続け、結果、倒れかけた、とジャッカルはその場に居た者達から話を聞いた。 ジャッカルは少し遅れて彼等とすれ違い、唖然としていた島民たちから事情を聞き、適当に解散させてから二人を追い掛けたのだった。 些かむくれた様に口を閉ざして視線を反らす彼に、ジャッカルはぐいぐいとユーリスの頭を撫でた。 「怒るんじゃねーよ! しゃあねえだろ、あいつの兄貴分がそうだったんだから、自分より下の奴に迷惑かけまいとしちまうのは殆ど刷り込みなんだよ」 「痛いなっ、やめろよ。 …それ以前に仲間じゃないのか」 「仕事では頼ってるだろ? ユーリスだって言ってたじゃねえか。エルザはオンオフの切り替えが顕著なんだよ」 「だからって、」 顔を顰めて、むつと口を閉じる。…これはどうやら、ユーリスにしては相当憤っているらしい。 何せ民衆の全面で、倒れかけても尚動こうとしたエルザに平手打ちを喰らわすくらいだ。 「…エルザは、お人好しすぎるよ」 「だなあ」 「いくらルリの為だからって、カナンの為だからって、あんな誰かの為に自分の身削って動かれたら、見てるこっちがたまらない」 「だなあ…。 でも、ルリの為でも、カナンの為でもないぜ?」 訝し気に視線だけが寄せられるのに、ジャッカルは肩を竦める。 「自身の為さ。あいつの根底に刻まれた傷なんだよ。 だからどうしても、見過ごせないんだそうだ」 「トラウマってこと?」 「さあ。其処まで酷いものなのかは、俺も判らないねえ」 黙り込んで、ユーリスは壁を睨みつけている。ジャッカルは椅子に背凭れて息をゆっくり吐いた。微かに外の音が聞こえて、視線が所々穴が空いて空が見える天井に移った。そしてぼんやりと自分の呟いた言葉を思い出した。 あの言葉は、自分の言葉ではない。クォークの言葉だ。 何時の頃からか、在る時期を境に彼は、エルザの話をよくしてくるようになった。だからジャッカルは、仲間たちよりもエルザの癖を理解していた。恐らくはエルザ本人が意識してない事もあるのだろう。 それを思い出して、ひとつの思いに辿り着く。もしや彼は、と。 「でもやっぱり、嫌だよ」 独り言の様に零れ落ちたユーリスの言葉に、ひとまず自分の思考を置いて耳を傾けた。 「あんな風に倒れかけられたら堪んないよ。それでなくても今皆不安なんだ、周りの奴等がどんな顔してたか、本当に見えてなかったのか、エルザは」 「見えてたから、大丈夫だって、言うんだろ?」 「人の意見まともに聞かないで大丈夫っていうのはもう言葉じゃないよ。 只の拒絶だ」 「あー…確かに」 「独りであんなにがんばって。そんなに僕は役に立たないのか。そんなに僕は頼りないのか。 …そう思っちゃうじゃないか」 「ユーリス」 「くそっ…クォークもクォークなら、エルザもエルザだ。似た者同士過ぎてどんどん眼が離せなくなる」 徐々に俯いて行く仲間の頭を、ジャッカルは再度手荒く撫でてやった。 「痛い」 「いやあ、現場見てみたかったぜー」 「…は?」 「平手打ち食らわすとこ。」 「拳よりは良いだろ。拳だったら間違いなくエルザは昏倒したね」 「うわ、そこまで酷かったのか。 そっかーすっきりしただろうなー」 「…素直に自分も同じ気持ちだって言えば?」 「はっはっはっ」 再度くしゃくしゃに撫でてやる。機嫌が悪そうだったが、ユーリスは文句を言わなかった。 恐らくはユーリスにとって自分達は、やっと見つけた気の置けない人間たちだろう。そんな仲間が差し伸べる手をやんわりと避けるのを、拒絶と受け止めてしまうのも無理はない。 否、確かに拒絶なのかも、しれないが。 「な、ユーリス。あいつらの昔話、聞いた事あるか?」 「昔の? 小さい頃から一緒だった位しか」 「エルザはクォークと出会った時、七つになったばかりだったらしい」 ひゅ、とユーリスが息を呑むのを微かに聞いた。 「暫く、ひとりで放浪してたんじゃなかったの?」 「数ヶ月、な。十にもならない子供が独りで放浪して生きるには、過酷な数字だ。いろいろあったらしいぜ」 「…」 「いや、クォークと一緒になったって、過酷だっただろうさ。クォークだって当時は成人しちゃいない。街に依存せず、孤児の集団に加わらず生きてくのは並大抵じゃないだろうな。それは俺じゃなく、お前さんの方がよく判るだろ」 「…僕はそれでも、十は過ぎていた。母さんもいたし、自分を護る術は、持っていた」 「其処だなあ。…エルザは何の力も持っちゃ居なかった」 意識の上をよぎる、この話を聞いた日。何処か不思議な気持ちで、ジャッカルは続けた。 「エルザたちが幼い頃に居た地域は、今はもう風前の灯だ。昔から一部を除いて、大地の崩壊が酷く進んじまってた。略奪と紛争が帝国領土の中で最も横行した土地とか言われちまってる。…そんな中で、クォークはずっとエルザを護り続けた」 「…」 「酷い怪我を負っちまった事もあるらしい。何度死ぬかと思ったらしい。でもクォークは、自分の腕の中にエルザが居たから奥歯噛み締めて踏ん張った。生きて行けた。そう言ってたよ。 でもエルザは、違う事を思っていた」 エルザが剣を握る理由は大切なものを護る為だ。それは同時に、もう大事なものを失いたくない、という声になる。 「自分の所為でクォークが死んじまうんじゃないかって、思ってたんだとさ。 自分が居なかったらクォークはもっと楽に生きていたんじゃないかってよ」 「そんなの…」 「確かに、そんなのは実際はどうか判らない。ただ、クォークは昔っからいろいろ器用だったらしい。傭兵始めてからは身の立ち回りの上手さで何度か傭兵団に誘われたみたいだが、条件は毎度、エルザを捨てる事だった。」 「───」 「クォークは言われる度に、断ったんだとさ。俺は家族を、絶対に見捨てない、ってな」 (その言葉を言う度、エルザは泣きそうな顔をした) クォークの言葉が脳裏に浮ぶ。 (それを当時の俺は安堵した顔だと思ったんだよ。 全く莫迦だったんだ、俺は。真逆だったんだ) 「けれどある日。エルザの方から、孤児院の話が持ち出された」 「孤児院?」 「ああ。自分は其処に入るって、な。 理由を聞いても、何一つ言わなかったらしい。ただ其処に入ると決めた、としかな。 クォークは正直、裏切られた様な気持ちを持ったらしい。自分が頼りないから、自分を護ってくれる大人の元へ行ったんだと」 「…。 でも。違ったんだね」 「ああ」 相槌を打つユーリスに頷いて、ジャッカルは続ける。 「いろんなものが消化しないまま、誘われていた傭兵団に入ってエルザと別れたその日の夜に、仲間の一人に問われたんだとさ。それで良いのかと。」 (何の話だ、と聞き返したら、驚かれたよ。エルザが何処へ行ったのか、知らないのかとな。 …孤児院じゃなかったんだ) 「人身売買…」 「しかも売った金は傭兵団の手元だ。怒り狂ったらしい。大暴れした後に金を取り返して、直ぐさまエルザを連れ戻しに行ったんだとさ」 「よく連れ戻せたね。金を返したって、そう易々と手に入れた商品は手放さない筈だ」 「忠告して来た仲間が手を貸してくれたらしいが… まあともあれ、エルザを見つけて、何とか取り戻した。 で、問い質した訳だ。なんでこんな莫迦な事をしたんだってな」 (あれが、初めてだったな。頭っからエルザを怒鳴りつけたのは) 言葉を紡ぎながら同時に蘇る記憶。彼の言葉。酒を片手に苦笑いを浮かべていたのをよく覚えていた。滅多に見せる顔ではなかったからだ。 (俺の剣幕に怯えながら、エルザは言ったんだ。 …自分の存在が、何時か俺を殺すと言われたと) 「クォークの居ない所で、大人たちが言っていたらしい。こんな足手纏いを連れるのはどうかしている。役に立たないのなら、捨てるか金の在る人間に売ればいいのに。でなければいつか共々潰れるだろう。 …子供に聞かせる言葉じゃねえよな」 だが一方で、それが日常と化している地域もある事を、二人は承知していた。食糧を確保する事も侭ならなくなった領土は特にその傾向にある。 「クォークはエルザを護った、どんな時もだ。 言葉はどんどん重くなっていっただろう。当時のエルザには自分を護る術すら持ってなかったんだ。どんなに頑張ったって、ちょっとやそこらで力を持つ事なんざ出来ない。 …恐かったろうさ」 無言のまま、ユーリスは顔を顰めた。ゆるゆると息を潜めて行くのが判る。 「そんな時に傭兵団の奴等がエルザを言い包めちまった。そいつらの提案は自分を犠牲にする事が条件だったが、それまでずっとクォークが自分の身を削って生きてきた命だったから、それを返そうとした。そうするしか、なかった」 (頭を殴られた気分だった) 本当に不思議な日だと、ジャッカルは思う。過去を思い出す事は何度も在るが、ここまで鮮明に思い出したのは初めてかもしれない。 (それまでずっと、我武者羅に生きて来た。エルザを連れての旅路は確かに厳しくてな、必死にならなきゃやってけなかった。 …それは何処か、自暴自棄だったのかもしれない。 エルザさえ無事なら良いと、思っていたのかもしれない。 それがエルザを傷つけているとは、思いもしなかった) 「エルザは、両親の二人ともを、自分を護ったが為に亡くしている。 だからこれ以上、自分の無力が原因で大事なものを失いたくないと思っている。それは多分、今もなんだろう。 加えてクォークのそれまでの過保護さが刷り込みで身に付いてるからなあ。護るべきもの、って括りに入れちまったら、そっから先は頑なのさ、あいつは」 「…長い前置きだったけど、つまりは僕は、エルザの中では「保護」の対象ってこと?」 「セイレン抜かした女子もなっ」 「セイレンは抜けるのか…」 「あいつは小さい頃のエルザを知ってっからなあ。 それにエルザは心配性ではあるが、強い奴は自分が手を出すより自力で何とかするって理解してるから、本当に危険な時を抜かしては気にかけねえぜ?」 「…そうか」 また拗ねるかと思いきや、ユーリスはひとつ間を置いて、何か腹を括った様な面持ちを浮かべた。何を決めたのだろうと問いかけてみようとした時、不意にユーリスの気が逸れた。扉へと視線が移動する。 息を潜めて待っていれば、微かに床が軋む音が聞こえた。のろのろと軋みは続き、少しずつ近付いて、そうして扉が鈍い音をたてながら開いて行く。 「…」 ジャッカルが想像したよりも、酷い表情のエルザが居た。そういえば暫く自分は会っていなかったのだ。先程もすれ違いで、彼の様子をちゃんと見る事はなかった。 「まだ一時間も寝てないよ、エルザ」 ユーリスの険の篭った言葉にはっとしてエルザが顔を上げる。 「ユーリス…ジャッカルも」 「よう、エルザ。もうちっと寝ないと、ユーリスはお許しにならないみたいだぜ?」 「ユーリス…」 気のせいか、動作も何処かひとつテンポが遅れている様だった。これはユーリスが必死になるのも無理はないかもしれない。 「もう、大丈夫だ。それに、多分これ以上眠れない…」 「眠れなくたっていいんだ。もう少し横になりなよ。酷い顔してるの、自覚している?」 「大丈夫なんだ、本当に。夜になったらちゃんと休むし…」 「今までだって休むって言って、その顔なのはどうしてだろうね? いいから戻れエルザ」 「ユーリス…」 ユーリスに睨まれ、困った様に立ちすくんで、けれど戻る気配がないエルザに、ジャッカルは溜息をついた。これはきっと埒があかない。徐に立ち上がって、かつかつと靴音を響かせながら彼の目の前まで進む。不思議そうに見上げて来るエルザに笑ってやり、 がつ、と足払いを掛けた。 「…っ!?」 見事に食らってふらついたエルザの身体を肩に担いで、そのまま持ち上げる。…思ったより軽い。食事は摂っているのだろうか。 「…何?」 「ちょ、ジャッカル!?」 驚く二人を他所に、部屋の中へ入った。奥の寝台へと進み、エルザを寝台へ転がす。何が起こっているのか判っていない様子の彼の足を掴んだ。 「ななななにをっ! ジャッカル!?」 「何言っても寝ないっつーなら実力行使しかねーだろぉ? ほらさっさと靴脱げよ!」 「そのままでも眠れるって! っていうか!」 「いんやー。脱走防止にでも脱いでもらわないとな!」 「脱走って…、いや、そうじゃなくてっ」 「はあ。生温いよ、ジャッカル」 何時の間にやら寝台の逆側へ来ていたユーリスが溜息をついた。つかつかとエルザへ近付き、 がばり、と上着を掴んで広げて、言った。 「身包み全部剥がそう」 エルザの顔が真っ青になった事は言うまでもない。 「よおし、完了!」 本当に身包みを全て剥がし、下着姿のエルザに掛布を被せた。疲れ切ったのか、エルザはもう呻き声のひとつも上げない。 「せめて二時間。じゃないと解放しないよ」 服を全部腕に抱えて仁王立ちになったユーリスが宣言する。ジャッカルとしては滅多に見ない姿ばかり見ているのでなかなか楽しい。 「…どうしても?」 「どうしても」 のろのろと顔を上げたエルザに僅かに躊躇う仕草が見えて、おや、とジャッカルは首を傾げた。躊躇っていると言うよりも。 ぬ、とふと考え込んでから、ジャッカルは徐に隣の掛布を剥がした。無造作に靴を脱いで、寝台に乗り上がる。そして眼を見張るエルザを抱き込んで、寝台に二人で転がった。 「ちょ…っ、今度はなんだよ!」 「何って、添い寝」 「はぁ!?」 「ねむれなーいって愚図る弟を優しいお兄さんが隣で子守唄歌ってやるっていってんだよぉ喜べー?」 「いらない! いりません! すいませんごめんなさい許して!」 「えー…平謝りかよ流石にショック受けるぜ俺」 じたばたと暴れるエルザだが、二重の掛布に阻まれてなかなか動けずに居る様だ。もぞもぞと腕の中で動くばかりで逃げ出せる様子はない。しかし蹴られる足は痛い。 「…吃驚したよ。一瞬ジャッカルは両刀なのかって思っちゃったじゃないか」 「わあ、それは勘弁して欲しいわユーリスー偏見はないけど俺は違うぜー」 「あってもなくてもいいから、ジャッカル!」 「んだよ、そんな恐がんなくたって良いじゃねえか」 「だから、そういう事じゃなくて…っ」 「寝るのが怖いんだろ?」 ぴたりと、硬直する様にエルザの動きが止まった。 「寝るのが?」 訝し気に聞いて来るユーリスに多分な、と応えながら、動きが止まった隙にエルザを腕の中に抱き込んだ。ひく、と肩が震えるのを無視する。 「多分夢を、見てるんだろ。見たくない夢を」 「…見ていない」 エルザの声が硬質になる。感情を抑えているのか、震えを抑えているのか。 「じゃあ答えろよ。どうして眠るのが嫌だ」 「…寝て、いる」 「でも飛び起きちまうんだろ? さっきみたいにな」 「…」 「しかもまた寝ても同じものを見ちまう。違うか? そうなりゃ寝るのも嫌になるわな」 「…」 「…なあ、エルザ。もしかしてよ」 「違う!」 即座の否定。嗚呼、そうかとジャッカルは確信した。 「見るんだな…クォークの最期を」 「───、」 これには、ユーリスもまた身体を強ばらせた。ジャッカルはその場に居合わせる事が出来なかったが故に、二人の感情がどんなものかは、想像するしかなかった。 死闘の末だったと、聞いている。言葉も届かず、思いはすれ違う。彼が作り替えると宣言した世界は、これ以上の異邦の力の使用によりそのものが消滅する恐れがあった。だからどうしても止めねばならないと、必死に戦って、そして。 「…言葉が上手く出ないとき、」 ぽつりと、エルザが口を開く。 「思うんだ。クォークならどう話しただろう、クォークならどう行動しただろう。 癖のある人間相手でも、クォークは良い方向へと話を持って行くのが上手かった。本土に居た時は隣で話を聞いている事が多かったから、それを思い出そうとした。考えながら眠る事が多くなって、ある時、…」 「見たんだな」 ゆるりと、小さく彼が頷いた。 「最初は、あの時の事だった。自分でも疲れているんだって、思ったよ。だから早めに切り上げて休む様にしたんだけど、その日から毎回見る様になって、次第に夢も変わって来て」 「変わって?」 「…場所が変わって、俺達が段々幼くなって行って。いろいろだ。でも結局最後は変わらない。最後は…俺が、俺が。 クォークを、殺す事は、何時も変わらない」 誰も暫し、言葉を紡ぐ事が出来なかった。 辛うじて出た声も、掠れて酷いものだった。 「…エルザ…」 「ごめん、忘れてくれ」 顔を俯けて呟くエルザ。面持ちを隠す様に掛布の中へと潜り込んでしまって、どんな顔でそれを言っているのか判らない。 「其処で忘れてくれって言われて、忘れられると思ってる?」 「ごめん。でも、忘れてくれ」 「…何を忘れろって言ってるんだよ」 何かに気付いているのか、苛立ち混じりのユーリスの問いを聞いて、エルザが更に縮こまった。…明らかにこれは拒絶だ。 「ユーリス」 落ち着け、と声色で宥めれば、ユーリスは盛大に舌打ちを打った。寝台に腰を下ろして、ジャッカル達に背を向ける。 「エルザだけじゃないだろう。僕ら皆だ。僕らみんながクォークの気持に気付かなかった。最後はエルザがやったかもしれない。けどクォークを死地へ赴かせたのは僕ら全員だろう!」 「落ち着けって」 「何を一人で背負ってんのさ。それはエルザ一人が抱え込む事じゃない!」 「…違うんだ」 「何がだよッ!」 ユーリスの激昂が響く。肩を震わせて、呼吸を繰り返す。 重い沈黙が暫く続いて、現れたのは、本当に小さな囁き。 「…俺が、殺したんだ。俺は…判ってたんだ。 クォークが、何を考えていたか」 勢い良くユーリスが振り返り、エルザを凝視する。ジャッカルもまた声を出せずに居た。 …判っていた? 独り言の様に、エルザは言葉を紡ぐ。 「思い出せばおかしいことは、たくさんあったんだ。 あんなに毛嫌いしていた騎士に、クォークからなろうと言って来た時は特におかしいって、思ったんだ。けれど訳を聞いて納得出来る応えが返って来たからって…違和感を無視した。 あの辺りからだ。聞いても、話してくれない事が増えたのは」 「エルザ…」 「誰にも、俺にだって言えない事があるのは当然だ。 だけどずっと何か、違うと思ってた。何か違うって。判っていたんだ、でも判らない振りをした。クォークが何も言わないのなら、俺が判らなくていい事なんだって気にしない様にして…」 いつの間にか、本当に判らなくなっていた。囁いた声は、殆ど音にしかならなかった。 これは、懺悔か。ジャッカルは思いかけ、否と思った。これは恐らく、自分への楔だ。 「本当に、」 ぽつりと、音が落ちる。感情が抜け落ちた声。 「俺が、殺したんだな…あのひとたちの、いったとおりに…」 先程まで思い出していた過去の話が蘇る。あの事を覚えていたのか、とジャッカルはやり切れない思いに駆られた。 エルザのクォークへの信頼は、妄信に近い。カナンに出会ってからは反発も見えたが、それでも彼へ向けた信頼は揺らいではいなかっただろう。 その絶対的な信頼は、ジャッカルが先程までユーリスに話していた過去の話が原因だと言う事を彼は知っていた。クォーク自身がそう言ったのだ。 それが今、他の思いも複雑に絡み合って、エルザの中で鬩ぎあっている。 そりゃそうだ。ジャッカルは溜息をついた。 唯一無二に近い者を自らの手で殺めて、平然と出来るような者ではないのだ、エルザは。 「あいつめ…押し付けやがったな」 ジャッカルの独り言に顰め面でユーリスが何事かと問うが、彼は肩を竦め後で、と流した。 「なあエルザ。もう一度、寝とけ」 「…」 「そんで起きたら、一旦皆と集まって、話をしようや。 クォークの事をさ」 小さく反応が返るのを見届けて、ジャッカルは続ける。 「お前さんの中に譲れないものがあるのは判った。だけどよ、俺もユーリスも、それじゃ納得出来ない部分があるんだよ。 それにやっぱな、お前だけに、背負わせたくないわ。クォークの事は、さ」 「…ジャッカル」 「後は、そういう問題に関係なく話そうや、クォークの話をよ。最近は何となく避けがちになってたからよ。 やっぱ駄目だろ。それじゃあまりにも、クォークが可哀想だ。 …な?」 「…うん」 掛布の中で頷くエルザに、ジャッカルはその背を宥めてやった。 「じゃ、もういっちょ、寝る事にチャレンジしようや。 お前が魘されたら起こしてやっからよ、安心して寝ろ!」 「そのジャッカルが寝ても僕がいるから、もっと安心して良いよ」 ユーリスが割り込んで来る。信用されてない言い様に空笑いすると、微かに笑い声が聞こえた。 「…今度はジャッカルの腕の中、か」 「俺の腕の中はでっかくてあったかくてきもちいーだろ?」 「かたくて心地よくない」 「エルザ…、寝不足で性格悪くなってね?」 くつくつと笑い声が響く。腕の中の温もりから、ゆるりと力が抜けて行くのが判った。 「…本当に、起こしてくれる、か?」 小さな問いかけ、振動から伝わる震え。確りとその背を抱えて、応えた。 「ああ。」 「……判った」 腕の中で、彼がゆるりと深呼吸をひとつ。息を吐くごとに、重みが身体に掛かって来る。そう時も経たない内に、エルザは眠りについた事を示すゆったりとした呼吸を繰り返し始めた。 「…もう寝たの?」 「ああ。本当に限界だったんだろう。やれやれ、とんでもないもんを大将は残して行ったぜ」 「それ、さっきも言ってたよね」 ユーリスが睨みつけてくるのに、先程と同じ様にジャッカルは肩を竦めた。 「生前に、頼まれちまってたのさ。もしクォークが何らかの原因でいなくなっちまったら、エルザを頼むってな」 「…クォークに?」 「おう。そん時の話では、別行動とった場合、なんて感じで話をされたけどよ。 多分、あいつん中では、この状態も想定してたろうな。…こちら側の方がメインだったかもな」 己の復讐の為に自分達を利用したと、クォークは言ったらしい。けれどジャッカルは、そうだろうかという疑念が消えない。自分達は利用したかもしれない、けれど、エルザは違うのではないだろうか。 エルザがクォークに対し妄信に近い信頼を置いているのと同様に、クォークもまた、エルザに対し依存に近い庇護欲を持っていた様に思える。ルリ島に来てからは仲違いする様に離れて行動する事が多くなって行ったが、今思えば、あれは態とだったのかもしれない。 自分の為す事に、エルザを巻き込まない為に。 「莫迦だぜ、大将。…そんだけ大事なら、踵を返すべきだったんだ。」 けれど彼は戻らず、そのままエルザが彼に向けていた想いごと去って行ってしまった。 「…本当に」 ユーリスが何処か戸惑う様に言う。 「仲、良かったんだね」 「んー…そうだなあ。クォークは過保護だってしょっちゅう言われてたし、エルザはエルザでクォークの言う事鵜呑みにし過ぎだって注意されてたな。 エルザが傭兵始める頃には流石になくなったが、それまではかなりべったりしてたみたいだしな」 「…そういえば、よくまた、一緒に行動し始めたよね」 「ん?」 「さっきの話だよ。エルザは結構頑固だから、クォークに連れ戻されても、また一緒に行くなんて言いそうにないじゃないか」 「ああ、それはな……───」 少年は、きつく掴んでいた子供の肩を離して、腕を下ろした。其処から沈黙が流れた事を不安に思ったのか、怯えながらも子供が顔を上げて少年を伺う。 「…そうか」 ぽつり、と呟いた言葉に、子供がびくりと震える。それに気付いているのか、いないのか、少年は続けた。 「お前の想いは、判った」 「…」 「だけど、これだけは聞いてくれ。これだけは聞かせてくれ」 少年が顔を上げる。怯えているのは子供なのに、涙を浮かべているのは少年の方だった。 「お前をそんな風に傷つけるつもりはなかった。ただお前と、生きていたかった。俺はその為に、今を生きてる。 だからこれからもお前を見捨てるつもりはないんだ。」 「…」 「だけど、お前は?」 えっ、と小さな驚きの声が子供から上がる。 「お前は俺と一緒に居て、嫌になったか。俺とじゃなく別の奴と、別の場所で生きていたいか」 「…そんな…っ」 「本音を聞きたい。俺と生きるのが辛いなら、孤児院も探す。他の道も考える。 …お前は、どうしたいんだ、エルザ」 エルザと呼ばれた子供は眼を瞬かせ、そして次に顔をくしゃくしゃに歪ませた。眼を潤ませ、けれど涙は零さずに。口を何度も開いては、閉じて。音が喉から掠れながら吐き出されて行く。 ぎゅ、と小さな拳を作って、とうとうエルザは俯いた。震える肩を見て、少年は無理をするなと子供に言おうとして、 「…たい…」 聞き逃してしまい、再度問いかけた。子供は震えながら、懸命に言葉を紡ぐ。 「いき、たい。クォークと…っ。僕は、でも、僕は役立たずだから、何も出来なくて…」 「良いんだ。何も出来なくたって良い」 「クォークの足手纏いになるだけで…っ」 「俺は!」 身体を引き寄せて、小さな子供を抱き締めて言った。 「お前を拾った時に決めたんだ。お前を育ててやるって、絶対見捨てない、死なせないんだって。 だから何としてでもお前を護りたかった。 …でもそうじゃないんだな。そうじゃ、ないんだ。 一緒に生きようエルザ。二人でこの世界を生き延びよう」 「…っ」 「何も出来ないなんて言うな。一緒にやろう。お前にだって出来る事はある筈だ」 「…うん、っ」 「ごめんな、エルザ。俺はもう間違えない。…二人で生きよう」 「うん…っ」 腕を伸ばしてしがみついて来る子供を、少年はしっかりと抱き締めた。 ……その光景を、自分の過去を。エルザは言葉もなく見ていた。 覚えている、この時の事を。ここからだ、本当の意味で、二人で生きる様になったのは。 「…結局、また俺は間違えたか」 隣で呟く声が聞こえて、小さく笑う。耳聡く聞いていたのか、伸びて来た掌がくしゃりと髪をかき回して来た。 「そしてお前は結局、まだ上手く泣けないのか」 苦みを含んだ笑みを浮かべて、小さく頷いた。この過去もそうだった。泣きたかった、泣きたい気分だったのに、涙は一向に出て来なかった。 クォークの最期の時だけだ、無意識に涙があふれていたのは。 「…エルザ」 呼ばれた途端に頭を抱えられる。夢だと言うのに、酷くリアルで、暖かい。 「有難う」 一緒に、生きてくれて。 仮令それが、己が願ったが故の言葉だったとしても。 「…ん?」 不意に腕に何かが伝うのが判って、ジャッカルはそっと掛布を捲った。 自分の腕を枕に、今の所エルザは眠りについていた。…其の目尻に涙を零しながら。 「どうしたの」 ユーリスが問いかけて来る。考えて、ジャッカルは首を振った。辛い涙ではないだろうと思ったのだ。 眦に残る雫を拭ってやり、ひとつ息をつく。そうして再度抱きかかえてやった。 ---- ずっと思っていたのがエルザの兄貴分の役割がクォーク→ジャッカルに変わっていったように見えた事。うちのクォークがジャッカルにエルザの事を頼むのは多分その辺りの印象から来たんだな、という結論に至りました。(在る夜の後のあとがきでも考えてた…) ラストは納得のいく終わりだったんですが、私的にやっぱりこういう葛藤というかそういうものがあってほしかったなあという希望がこの話でした。単にいつもの悪癖が出ただけじゃない? と言われても否定はしませんが。しませんが! いろいろ内々に考えながら書いてた事をひとっつも説明してない箇所が複数あるんですが、そのままでいいでしょうか…だめだろうか。特にカナン関連がまったく出てきてません…。俺設定過ぎてどうしようっていう状態になってきました。いつものことだね! 途中から脳内で続き物になっちゃって考えた挙げ句その辺りのくだりを全部カットしたけど大丈夫だろうか…続き物は終わらせた事があんまりないので出来ればやりたくないのです…。 が、エルザの悪夢は実は妨害を受けてたんだよ、ってことだけ書いときます。 ■ |