深い眠りについたことを示す呼吸を繰り返し始めたエルザに、クォークは安堵の息を吐いた。随分久し振りに見たエルザの癖だ、自分で何とか出来るか少しばかり不安だったが、彼は無事腕の中で、年相応の表情で眠りについている。
 そんな面持ちを見たのも、そういえば久し振りかもしれない。仲間達とのやりとりにはからかわれている事も多々あってそれなりに少年に見えるが、任務で自分の隣に立つ時には、彼の面持ち…否、雰囲気そのものが一変する。未熟ではあるものの、その出立ちだけは既に傭兵のものとなっているのだ。最近はそちら側ばかり見て来た様に思える。
 いつまでも子供のままじゃ困る。それは本音だ、しかし。
「…」
 思考を一旦止めた。何度も繰り返して来たものだ、そして答えは出る様で出ない問題でもあった。今日は埒があかないと、クォークはその思いを横に置き、徐に視線をエルザから外して、じろりと睨みつけて言った。
「…趣味が悪いぞ」
「悪い。だけど興味で起きてた訳じゃねえよ、そろそろ火の番だろ、俺」
 狸寝入りを決め込んでいた男…ジャッカルが、身体を振り向かせて手を振った。彼が言った言葉にふと焚火の事を思い出す。放ったらかしていた。
「…そうだったか」
「おいおい、俺がそろそろだと思って火の傍離れたんじゃないのかよ。」
「エルザが眠ったら戻るつもりだったんだ」
「で、ちょっと梃子摺った訳ね」
 楽しそうなジャッカルに、睨みつけまま問う。
「何処から聞いていた」
「エルザがでっかくなったー、って辺りから」
 殆ど聞いていたんじゃねえか、とぼやくとジャッカルはへらりと笑って肩を竦める。
「故意じゃねえって事は判ってくれよ?」
「…ったく。お前、この事は誰にも言うなよ」
「そうやって甘やかしてる事を?」
「そんなもんどうでもいい。エルザのことだ」
 弄ってやろうとでも思っていたのか、楽しそうに問うて来ていたジャッカルの表情が、おや、と不思議そうな色を浮かべる。
「どの辺まで?」
「…後半だな。こいつ、一人称が戻ってたろう」
「ああ、そういや」
「あれは半ば眠りかけだ、本人も殆ど無自覚でやってるし、その辺の記憶は曖昧だ。
 だが誰かにいわれりゃばっちり思い出す。そうすると、またこの状況になった時今でも強がる癖に更に意固地になるんだ。ほっといたら間違いなくこっちに被害が来る」
「八つ当たりが来ると?」
「任務中にこいつがぶっ倒れる」
「……そりゃあ大変だ」
「一度あった時は、そりゃあ大変だった…」
 過去を思い出して思わず遠い目で空を見上げていたらしい。ジャッカルから乾いた笑い声が聞こえて来る。
「了解、ラッキーな事にセイレンは爆睡中、ユーリスもマナミアの疲れてるのか身動きひとつしねえ。これは俺とお前だけの話って事で」
「お前と、ねえ」
「あら、信用されてないのね、俺」
 は、と鼻で笑えば、にやりと彼も笑う。傭兵は、基本的に互いの内情に干渉しない。ある程度の信頼関係が結べられたら上々なのだ、信頼は出来ても信用出来るかは、また別の話になる。
 ジャッカルとは傭兵団の一員となる前を含むならば、それなりに長い付き合いになっている。…どうだろうか。
「じゃあ、信用してやる代わりに、もうひとつ聞いとけ」
「嬉しい言葉だねえ。で?」
「エルザを頼む」
 流石にそうくるとは思っていなかったのか、彼からの応えは暫くなかった。
「…そいつは、どういう理由で?」
「こいつは周りが思っている以上に、性格に癖がある事は判ってんだろ。
 もし何かあった時にこいつの首根っこ引っ掴んでやれんのは、この中じゃお前とセイレンだろう。
 だから俺が居ない時には、頼む」
 最後の言葉を聞き届けた後、がくりとジャッカルが盛大に項垂れた。長い溜息を吐いて、呻いている。
「何だ」
「……そうフラグ立てるような事言うなよ。驚くじゃねえか」
「フラグ? 何だそれは」
「や、まあいいや。俺もエルザは気に入ってるし、りょーかいリーダー。あんたが居ない時は俺に任せろ」
「ああ、頼むぞ」
「…本当にクォークは、エルザの兄貴だねえ」
 何処か羨む様子で言われて、どう応えて良いかクォークは暫し躊躇する。
「過保護だって言いたいのか」
「兄貴は、何時まで経っても弟を護るもんだろ」
「…」
「俺の兄弟なんざ、血が繋がってんのにまるで他人だったもんだからな。
 お前等見てると兄弟っていいなあって思っちまうよ」
「めんどくせぇな、貴族ってのは」
「仲のいいとこもあるんだけどな」
 肩を竦めて、ジャッカルはゆるりと起き上がった。
「さて、そろそろ火の番するかねぇ。お前はもう休んじまいなよ」
「そうだな、そうさせてもらおう。後は頼む」
「おう、おやすみー」
 ひらりと手を振って応えて、クォークは一時起き上がるかどうか考えた。朝の事を考えれば、エルザを置いて自分の寝床に戻った方が良いのだろう、けれど。
「…」
 腕の中でエルザが小さく身じろぎする。少しばかり長く息を吸って、吐く。そのまままた静かになるのを見届けて、クォークもまた息を吐いた。
「…まるでこどものむずかりだ」
「んあ? 何か言ったか」
 ジャッカルの問いかけにいや、と応え、クォークもまたそのまま、眼を閉じた。



 ふわりと、気配を感じた。柔らかい、それでいて懐かしい気配だ。徐に眼を開けてみると、腕の中にいるエルザの頭部越しに、茶毛の動物の前足が見えた。
 見上げてみれば、覚えの在る面持ちの犬。エルザの傍に座り込み、静かに緑の瞳をこちらを向けている。
(…心配で来たのか)
 声には出さず、クォークは語りかけた。この犬は過去、仕事で宿に一人待たせるばかりのエルザが拾って来た野良犬だった。既に成犬だったその犬は母犬だったが、街の治安の悪化と食料の激減で子犬共々飢え死にする寸前だったらしい。エルザがそれを見かねて連れて来たのを、当時のクォークは少しでも寂しさが紛れてくれるならば、と世話をする事を許可した。
 野良であった故に初めは警戒心が強かったその犬も、エルザの丁寧な応対により次第に慣れて行き、最後にはエルザの守役として欠かせない存在にまでなった。
 もの静かで滅多に吠えず、エルザの傍を付かず離れず見守り、人の行動が読めるのか先回りもうまく、周囲に異変があればすぐに知らせてくれる利口な犬で、この犬ならばと周りも認めてくれ、犬が寿命を迎えるまで、旅路をずっと共にしたのだった。
 ああ、そうだ。この犬が来てからだ、エルザが夜に眠れないと滅多に言わなくなったのは。助けられなかった子犬の代わりの様に、慣れてからはずっとエルザの傍を離れなかった犬。
 犬の名前は、そうだ。

「レガラッド?」

 間近で聞こえた言葉に、今度は本当にばちりと眼を開けた。覗き込む様にしていたセイレンが驚きのあまりびくりと痙攣する。
「わっ。…おどかすなよなあ、吃驚したじゃねえか」
「…それはこっちの台詞だ。何だ、じろじろ見て」
「いやあ、お前等兄弟なんだなあって、ちょっと実感してたとこ」
 兄弟? と首を傾げかけて、思い出す。ちらりと視線を下に下ろしてみれば、まだ眠りの中に居るらしいエルザが静かに呼吸を繰り返していた。
 顔を上げれば、奥の方でジャッカルが手を合わせている。わりぃ、と言っている様だ。
 溜息を漏らす。こんな日に限って、どうしてセイレンは早起きしてくるのか。
 空を見上げると、徐々に群青から青に移り変わって行く。日の出が近いようだ。
 エルザの身体を持ち上げて、枕代わりの腕を引き抜く。しびれて感覚のない腕に、殆ど動く事がなかったのだと呆れつつ半ば自分とエルザに関心しながら、毛布をエルザに与えて起き上がった。
「なんだよ、もーちょっと見てたかったのになあ。」
「そうもいかないだろう。まだ道は長いんだ、動けるうちに動いておく。」
「へいへーい」
「…エルザはもう少し眠らせておく、さわるんじゃないぞ」
 にっこりと笑って応えを返さないのに、念を押す様にセイレンを睨みつけながら、ゆるりと立ち上がった。近場に川があるので頭を起こす為に顔を洗うのと、朝食の水を用意する為に布と水袋を持って向かう。
 その道すがらに、おぉい、とジャッカルが声をかけて来た。
「どうした? ジャッカル」
 隣に並ぶと、彼はいやなあ、と言葉を選ぶ様にしつつも、気になる事があったのだと最後には告げた。
「レガラッドって、誰だ?」
「…ああ。俺の寝言か」
「おう、お前がエルザ以外を呼ぶなんて珍しいからなあ。誰なんだよ?」
「……俺は寝言でエルザを呼ぶのか?」
「ありゃ、結構俺は聞くんだが。危ないから出て来るなとか戻ってこいとかいろいろ言ってるぜ。んで?」
「…………。
 お前の思ってる様なもんじゃないさ。犬の名前さ」
「犬?」
「ああ、昔飼っていたんだ。エルザが小さい頃は傭兵の仕事には連れて行けなかったからな。何日も宿にひとりっきりってことも多かった。
 そんな時に死にかけた犬を見つけて連れて来たんだ。自分が飯代作って食わせる、って言い切ったし、ひとりでずっと待ち続けるよりはいいだろうと思って世話をさせ始めた」
「へえ」
「慣れて来ると随分利口な犬でな。エルザが傭兵の見習いを始めた頃にはあいつのアシストとしても活躍出来る様になった。お陰で寿命までずっと一緒にいたよ」
「そうだったのか。寿命っていうと老衰か…随分長生きさせたんじゃねえか」
「結構こき使ったんだがな。」
「じゃあ、レガラッドが手を抜くのが上手かったんだな」
「どうかねえ。まあ、エルザを任務に同行させ始めた頃はエルザの方が先にへばってたから、そんくらいは頑丈だったんだろうさ」
 そうして膝を折りそうになるエルザを後ろから急いたり、服の裾を引きながら彼を連れたのを、よく覚えている。本当に子犬代わりと言わんばかりの世話焼き様に、当時の仲間はよく話題にしてエルザをからかっていた。
「エルザをよく護ってくれた。飼い犬というより、大事な仲間だったよ」
「…いいな」
 静かに呟かれた言葉に、眼を瞬かせる。
「お前等は、良い出会いが多いなって、思っただけだよ」
「…そうだろうか、な」
「少なくともエルザは、そういう出会いがあったからこそ、ああなんだろうな」
「…」
 応とも否とも言い難かった。エルザと共に過ごした人生は、平穏とは程遠いものだった。けれど似た様な生き方をする同じ年頃の孤児たちが次第に性格を歪ませて行くのに対し、エルザは異様な程に純粋さを保ち続けた。
 自分が過保護だということは正直自覚している。それに、確かに誰かとの出会いが良いものだった事もあった。だがそれを上回る程の、酷い出来事があった筈なのだ。何度打ち拉がれたか判らない。何度生きるのを諦めようとしたか判らない。
 しかし、どれほどの酷い仕打ちを食らっても、彼は人を憎めない。
 それに理由がある事を、クォークは知っていた。故に、表面的な意味で捉えたジャッカルの言葉に、頷く事は難しかった。
 だがその冷たい風が通り過ぎ、まだ生きている事が判ると、エルザはその負の出来事に負けず、立ち上がった。ほんの少数の良い出会いを糧に成長していったのもまた事実なのだろう。
 …いいや、その出会いに、エルザは護られたのだ。
「クォーク?」
 はっと、問いかけに我に返った。思考の海に沈み込んでいたらしい。
「すまない、少しばかりあいつの性格について考えていた」
「ありゃ、何か気になる所でも」
「…少しな」
 と、答えた所で川に辿り着いたので、取り敢えず用事を済ませる事にした。ジャッカルも身支度を整えるらしい、川岸に膝をついている。
 適当に顔を洗い、水袋に水を貯めていると、ぽつりとジャッカルから言葉が零れる。
「俺は、今のエルザが居たからここにいるんだよな」
「…ジャッカル?」
 水を顎から垂らしたまま、水面を見つめてジャッカルが続ける。
「お前さんが何を気にしているのかは判らんが、でもやっぱ俺は、今のエルザを結構気に入ってるんだ。
 お前さんとあいつがいるから、今こうしているってのは、結構本音なんだぜ」
「…」
「それを覚えといてくれな」
 顔を拭い、ぐっと背伸びながら立ち上がるジャッカルに声をかけようとし、
 ……遠くから叫び声が聞こえて、二人は同時に振り返った。空気が一瞬にして張りつめるが、叫び声と、それにより周囲の鳥が飛び去った後、他の音がなにひとつしないのに、少しばかり警戒を解く。
「魔物…じゃねえかな?」
「判らん。だが…」
「今の声、エルザ…だよなあ?」
 思わず顔を見合わせて、慌てて野営地に戻った。

 そして案の定、辿り着いてみて見えた光景は、予想した通りのものだった。
「…あー。時既に遅しってか」
 思わずといった様子で呟いたジャッカルの言葉に反応する様に、勢い良くこちらを振り向いたエルザに、思わず後退る。
「……クォーク…ッ」
「…聞かなくても状況は何となく判った。すまない」
「ううー…っ」
 恨み言を言いたい様子で、けれど言葉にする事はなく。がばりと立ち上がり、エルザはその場から逃げるように川へと向かって行った。
 後ろ姿も見えなくなった頃に、クォークはエルザの寝床で胡座をかいているセイレンを睨みつけた。
「…セイレン」
「触っちゃいないぜぇ? ただそーっとあいつの横に寝転んだだけなのに、さっさと起きやがって」
「…あのなあ」
「くっそう、やっぱクォークじゃなきゃ駄目なのかぁ?」
「方法が間違ってんだよ、ったく」
 そう呟いて、しまった、と思う。見ればセイレンと…何故かジャッカルが興味津々とこちらを見て来た。
「方法? 間違い?」
「…あー」
「んだよ、そんくらい良いじゃねえか。あいつ自分の事なんざほとんど話さねえんだし!」
「お前等だってそうだろうが」
「まあまあまあまあ」
 そういって話をそらせる事もさせない二人に頭を抱えた。何気に眠そうにしているマナミアとユーリスも…ユーリスは興味なさそうに装いながらだが、耳を傾けている。
 溜息をついて、クォークは口を開いた。
「あいつは寝てる時に、誰かが傍に寄ると眼を醒すんだ。」
「それは知ってるぜえ。現にいま起きたしぃ」
「……警戒してるんだよ。昔ちょいとばかり、痛い目にあった」
「痛い目?」
 なんと言えば良いものかと首を摩りながら、クォークは言葉を探す。
 が、説明するのを諦めた。いろいろ面倒くさくなったのだ。
「聞きたかったらあいつに聞け。俺は言わん」
「ええー」
 抗議の声を無視して、水袋をジャッカルに押し付けてからクォークは鞄から使用していない布を取り出し、そのまま踵を返して川へと向かった。

 川へ辿り着いて見えたのは、川から顔を上げた状態で一時停止しているエルザの姿。まだちゃんと回復しきれてない所を見ると、随分と混乱していた様だ。
 傍に寄って布を頭に載せれば、のろのろとエルザが顔を上げた。
「すまんな。油断していた」
「…いいよ、元々は俺が悪かったんだし」
「眠れたか?」
 ゆるりと頷くのに、安堵の息をついて、こちらも頷く。寝癖のついたままの髪をくしゃくしゃにかき回して、クォークはエルザに問いかけた。
「あと一日は此処を抜けられない。平気か」
「大丈夫だよ。昨日は、久し振りだっただけだから」
 いつも通りの強情な態度だ。昔はそう息巻いて、結局また眠れなかった事が何度あった事か。今回はどうかな、と肩を竦めながら応えた。
「…まあ、そういう事にしておこう。」
「なんだよその言い草は」
「いいや、何でもないよ。
 朝飯にしよう、エルザ」
「…うん」
 少しばかり納得いかない様子で、しかし彼は頷いた。その姿を見て、クォークは先に踵を返した。
 …ぐらりぐらりと、胸の中で天秤が揺れている。
 心が揺れている。その原因は、判っていた。
 ふと、追ってくる足音が聞こえない事に気付いて、振り返る。エルザは川からそれほど離れても居ない場所で、じっと小さな音を立てて流れる川を見つめていた。
「エルザ」
 呼べば、エルザは振り返る。そして笑うのだ。
「今行くよ、クォーク」
 そうして、彼はクォークの後を追い掛ける。
 …強くなれ。
 クォークは、願った。

 そうして、自分を追い越せ。




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全く申し訳ないめんどくさくなったのは私です(叩頭)
二人の話は、埒があかないんです、よ! …また何処かで出せるかなあ…出せないだろうなあ
ジャッカルとクォークは何故か結構気が合いそうなイメージがあるんですが何故か全く判りません。酔っぱらったクォークに付き合ってたのが切欠だろうか。他にいろいろ二人で話してましたっけ…
クォークの心情はちょっと難しくて、判り難い形でしか書けませんでした…わたしもよくわかってないんだ…とりあえず決めてる事は、私のクォークは、基本自分の分岐点をエルザで考える人です。おいおいちゃんと決めたいなー
あまり関係ないですがレガラッドはシンダリンで「緑」と「輝き」という意味です。緑の輝き。