明け方、とはいってもまだ陽は姿を見せずただ空がしらしらと青みを帯びて来る頃の時刻。
 彼女はずかずかと歩いていた。手に箒とちり取りと雑巾をいれたバケツを持って。彼女は今日己が乗るオベル巨大船ナディシアのとある一角の掃除の担当だった。
 常ならば億劫なこの作業も、近頃熱が入って来ている。特にこの一角の担当になった者は特に。
 何故ならば。
 ばたり、と扉を勢い良く開けると、そこに人陰がひとつ、廊下の真中にぽつりとあった。
 その影が振り向く。
「…あ、おはようございます」



 思わず項垂れそうになる。また彼よりも早く辿り着く事が出来なかった悔しさに苛立ちが募るのを堪えてずかずかと中に入り込み彼の目の前に立つ。
 がこ、と箒の柄を床に押し付けて。
「おはようごうざいますシーア様。お願いですから敬語はやめてください」
「あ、うん、ごめん」
 にへらと笑う彼の目の下に隈が出来ているのを彼女はしっかりと見た。片眉を上げながら昨日を振り返ると、そういえば彼は…彼等は昨夜遅くにこの船に戻って来たはずだ。真夜中も過ぎた頃、と聞いた。だから今日は彼が起きぬ内に仕事をし、終えられるかも知れないと思っていたのに。
 というか。
 モップを持つ彼を凝視する。だからどうしてこの人はと、訳の判らぬ感情が募る。
 曲りなりにも目の前のこの少年は、このナディシアを拠点とする軍隊マティスのリーダーなのだ。それが、モップを持って、モップ用のバケツを持って。
 …………
「眠いなら寝てください。朝はまだ早いですよ」
 へらりとまた笑って答える。
「癖だし、もう目冴えちゃったから大丈夫だよ」
 どこがだ、と叫んで投げ飛ばして無理矢理ベッドに括り付けたい。
 それほど迄このリーダーの様子はおかしい。目の下の隈は濃いし、よくみなくとも足元が覚束ない、なによりもこのへらへらとした顔。本来はもっと大人しい笑みを"つくる"人間の筈なのだが。
「じゃあ始めようか。君は向うからお願い」
 そう言いふらふらと反対側へ歩いていく後姿に彼女は溜息をつき、決心をする。
 次こそは、と。

 今日はいつもよりも早く目が醒めて、暫しベッドの中でぼんやりとしていたが埒があかない。仕方なくテッドは起きだして身支度を軽く整えてからサロンに向かった。
 朝はまだ早い、この分だと厨房もまだ支度の段階だろうと思い人もいないだろうと踏んで行ってみたのだが、扉を開けて彼は目を瞬かせた。
 いるはずのない人物がモップを持ってサロンを歩いている。
「………」
 呆れて口を開けてまま惚けているとカウンターから声がかかって来た。ルイーズだ。
「あら、早いのねえ」
「あ…おはようございます、水を、頂きに」
 人のいない朝に現れて水を頼むこのやりとりは既に二人の間では習慣となっていて、テッドが口にすると同時に彼女は彼に水の入ったコップを渡した。有難うと返しながらテッドはちらりとホールの奥を見る。
「なにやってんですか、あいつ」
「サロンの掃除よ、いつもやってるわ」
「…は?」
 聞き間違いかと思いたかったが、続く彼女の言葉にその願いは軽く吹き飛ばされた。
「はじめは私もしなくていいって言ったんだけどねえ、向こうが何をどうしてかすごく頑で。」
「でも、あいつ、ここのリーダーなんじゃ…?」
「そうなんだけど、やらないと気がすまないってきかなくて。昨日は帰って来るのが遅かったのにねえ…」
 くらくらと目眩が起こる。出逢ってまともに顔をあわせて開口一番「友達にならないか」にも驚かされたが、何を好き好んで雑用等するのか。
 そしてふと彼も思い出す。先日彼は夜も更けてから帰って来たという。皆それぞれ散ってすぐに眠りに付いただろうが、仮にもこの船の上に立つ人間であるシーアは彼等とは別の仕事があって、それを放っといて眠れるような人間ではないと言う事を、テッドは知っていた。つまり。
(ほっとんど寝てないってこと、だよな…こいつ)
 そう思った途端、自然と身体が動いていた。
 つかつかと彼に歩み寄り、気付かない様子の彼の背を軽く蹴り押す。案の定ふらふらとしていた彼の身体はその衝撃に耐えられず、床にべしゃりと倒れこんだ。
「おまえ、なにやってんだよ? 今日も外に出ていろいろ島回るんだろう、そんな鈍い頭抱えて何ができるんだよ。曲りなりにもお前はこの船のリーダーだろ… … おい?」
 途中迄捲し立てた彼だが、そこからぴくりとも動かない彼に言葉を止めた。目を瞬かせて上からそっと様子を窺う。
「シーア?」
「…ん?」
 微かな声の後、そろりと彼のからだが浮き上がる。頭を振って暫しぼんやりと辺りを見回した後、見下ろすテッドを見、にへらと笑う。(流石にその笑みを初めて見たテッドはぎょっとして後退りそうになった)
「ああ、ごめん聞いてなかった。なに?」
「あ、え、いや、だから。体調が万全でなくていいのかって」
「ああ、うん大丈夫。今日はテッドも来てもらうし」
(確定かよ)
 突っ込むべき所は其処ではないのだが。頭の中を切り替えて反論する。
「そういう問題じゃないだろ、大体なんでお前が雑用なんてやってんだ」
「ん?ああ…癖というか、やらないとなんかすっきりしなくて」
 気持はスッキリしても頭がスッキリしないのはどうなのか。突っ込む所は山ほどあるがどうもおかしく交わされている気がしてならない。口を開けたまま言葉を告げられないでいるとそれにと、シーアが言う。
「慣れてるから、大丈夫だよ」
 流石にそれには顔をあからさまに歪ませる。それに彼は笑う。先程の柔らかい…というよりは緩みまくった笑みではなく、……そう、
 人に好かれようとする訳でもなく、嫌われる訳でもなく、ただ通り過ぎられる様な、紙の様な、何かを諦めたような笑み。
 時折見せる面持ち。
「…」
 何も返さずにいると、彼は立ち上がり、再びモップを持って動き回りはじめる。テッドはそれを止めて更に言葉を告げようかとも思ったが、自分が他人の中に潜り込もうとしている事に気付いて、莫迦莫迦しくなった。頭を軽く振ってカウンターに戻る。
「手強いでしょ」
「何を考えてるのか判らない」
 あんな風に何処か諦めたように振舞う所があるが、紋章の事に関してはまるで其の欠片を見せない。己が持つ事の意味を必死で考え、向き合おうとしている姿は真直ぐに目の前を見つめて歩いていると言えよう。
 人間、環境が変われば様々な性格になるが、彼はどんな所でどの様に育ったのか。何処かアンバランスで、見ていて怖い。憧れる所もあるのに、心配してしまう所も多いのだ。
「ま、その内にちょっとだけ解決はするんだけどね」
「どうやって?」
 怪訝そうな面持ちになったテッドに、ルイーズは笑って暫し待ちなさいと言った。

 サロンの掃除がじきに終りそうな頃、カウンター横の扉が徐に開く。現れたのは彼が騎士団時期からの仲間だと言っていたエルフの女性、ポーラだ。
 彼女は目の前で雑用をこなしているシーアの姿を見つけるとふと息をつき、ぽつりと呟く。
「やはり、起きてましたか…」
「おはよう、早いわね」
 不意にかけられた声にも驚かず、するりと彼女はこちらを振り向いて挨拶を交わす。テッドの方にも律儀に挨拶するが、彼は無愛想にちらりと目をやり、ああと呟いてすぐに反らした。
「シーアは、どれくらい前から…?」
「かれこれ二時間くらいは。貴方も昨日彼と一緒だったんでしょう?大丈夫なの?」
「はい、私はすぐに床につきましたから…」
 それからポーラはじっとシーアを見つめて、思案する様子を見せた後。
「…階段、転びそうですね」
「そうねえ」
 そんな事を交わしてから、かつかつと前へ進んで言った。突慳貪にしていたテッドも、何が始まるのかとつい身体事彼女の方へ向けた。
「おはようございます、シーア」
 二拍程遅れて、シーアが顔を上げた。にへらと笑って返すのも動じず、ポーラはにっこりと笑みを称えたまま言葉を紡ぐ。
「昨日は眠れました?」
「うん、少し」
「そうですか」
 言うや否や彼女は流れるような仕種で彼の掌からモップを剥ぎ取った。
「あ」
 呆気に取られている合間に何時の間にやら傍に来ていた担当の彼女にモップとバケツを渡して、すたすたとひとり奥に進む。そしていつもは仲間に占領されて使えないソファに腰掛けて手招きしている。其処で漸く彼は気付き、苦笑しながら近付いていく。
「大丈夫だと、思っているんだけどな」
「駄目です、少しでも休んでください。まだ朝食迄は時間がありますから」
 その言葉に彼はふ、と息を吐いて。
「…判った」
 折れたのだった。

「…あんたはシーアと付き合いが長いのか?」
 驚いた面持ちで呟くテッドに、ポーラは微笑を浮かべて首を横に振った。
「それほどでもないです。年月で言えば、私よりも長い人がいます、でも」
「…でも?」
 言葉を区切り、彼女は視線を膝元に乗っているシーアへと下ろす。照れた様子も見せず己の膝に頭を乗せて、数分ともせずに眠りに落ちた。彼の様子を見ていて予想はしていたが、やはりまともに眠れていなかったのだろう。
 そんな彼の髪をさらりと流して。
「私は他の皆よりも、少しだけ彼の中を知っています。
 それだけ、なのです」






すいませんオチがみつからない…っ
いやもともと私の文に落ちなんてないんですが。ええ。
とりあえず、初。わたしの4様はシーア、船はナディシア(ロシア語のナジェージダ「希望」を捩ったもの、因にナディアやナージャの語源)、軍はマティス(古語ドイツ語のマティルダ「力、戦い」を捩ったもの、…そういや2で出て来たよ…)です
テッドとは…微妙な関係。というかどうも私のテッドさんは乱暴です、すいません…なんか、ねえ。はじめの「ガキじゃないっ」てのと懺悔室でどうも怒る事があると知って、とにかく拒絶してるけども、根は明るくて人懐っこくて子供っぽい一面があるのではないかなあと。1の彼も大分引き摺っておりますよ…
なのでどうもわたしのテッドはシーアを見てると蹴りたくなるらしい。
ぽつりと呟いてみるとルイーズさんとテッドは話はするけど中迄入り込まない淡白なお付き合いです。故に話しやすいようで。
ちなみにこそーり4主ポラです