昼が過ぎて少し経った頃。ノックが聞こえて扉を開けると、不機嫌全開の表情のテッドが突っ立っていた。 「……ええと?」 「暇か」 「ええと、うん、今日は仕事は終わったし…」 「邪魔するぞ」 扉を開けた状態で凍っていたシーアを押しのけて、彼はずかずかと部屋へと入ってきた。ゆるりと見回して彼が問いを口にする。 「ポーラは?」 「別件の仕事に出ているけれど」 「そうか」 一人で何か納得したらしい。そのまま席に座ってばちばちとテーブルをたたいて茶を要求してくる。素晴らしく横暴な態度だ。しかも過去と比べてやる事が大袈裟になっている。 昔は指で、しかも飲みたいなあっていう無言の合図だったのになあ、なんて思いつつ、それに逆らおうという選択がないシーアは、待っていてと告げつつ大人しく茶の用意を始めた。 ――そして出てきた茶に、テッドは複雑な顔をみせた。 「テッド? どうかしただろうか?」 「…いや、何と言うか一言も苦情もなく出されるというのも………何でもない。とりあえず頂く」 言い、ぐいっと一杯。良い飲みっぷりだなあ、なんてぼんやり思っていると飲み干したテッドがカップをテーブルに叩き付けて、よし、と気合いを入れた。 徐に持っていた古びた鞄の中を探り出して、封筒を抜き出しばつり、とテーブルに叩き付けた。今日はやることがいちいちオーバーだ。 「それは?」 「…じゃじゃーぁん」 トーンを下げた声で厳かっぽく言った。 「レイ様直筆、アンケートタイムのお時間でぇーす」 「………………………………」 「……頼む。突っ込んでくれ。それでなくてもいやんなってるっていうのに何か挫けそうだ…」 テーブルに突っ伏して、テッドは絞り出したような声で呻いたのにシーアは慌てた。 「ご、ごめん…その、なんと言ったら良いのか…」 「…いや、お前にそれを求めたのがそもそもの間違いだったか」 「ご、ごめん」 のそりと頭を擡げて、テッドはシーアを見上げた。その表情が不意に緩む。 「その辺は、変わってないな」 「…喜んでいいのか判らないんだが」 「俺も判らない」 体を起こしてテッドは苦笑する。つられて笑うと、彼は肩を竦めた。 「ほら、この前俺とレイで賭けをやっただろ。あれの罰ゲームなんだよ。この前聞き逃した事もあるから、お前にアンケートとってこいってさ。」 「どんな事?」 「知らない。シーアと出来る状態になるまで絶対見るな、って言われてたからな」 そう言われると見たくなるんだけど、破ったのばれたら倍返しくらうからなあと遠い目をして言った彼にふうん、と相槌を打つ。多分彼の脳裏にはその倍返しの事が浮かんでいるのだろうが、そういうものとあまり縁のないシーアは想像する事が出来なかった。 テッドは小刀を取り出し、封を切る。中身は数枚の紙だった。用紙には丁寧な文字が書き連ねられている。 「あいつにはシーアについて大雑把にしか伝えてなかったからな。こういうのが来そうだと思ってたんだ。丁度良いから辻褄あわせてしまおうぜ」 「ああ、そうだね」 シーアが頷いたのを見て、テッドは携帯用のペンを取り出した。ペン先にインクを付けて、ため息をついてから紙に向かう。 「じゃあ第一問目ー」 ・フルネームはもしかしてある? 「…あるよな? 仮にもオベル王子だもんな」 「けれど、日常的には使っていないし、あんまり表に出すなと言われているから」 「じゃあ、ない、ということで。…ちなみにどんな名前だよ?」 「えっ」 「え、じゃなくてな。どんなんだって聞いているんだよ」 「……えっと。その内でいいかな」 「何故に今教えないんだ。恥ずかしい名前なのか?」 「そ、そうじゃないけれど。…うん」 「まあ、その内な。その内、必ず」 「………うん」 ・群島の何処の生まれ? 「オベル、でいいんじゃないかな」 「まあ一番群島で有名な場所だしな。違和感はないだろ」 ・テッドとの出会いは? 「……どうする?」 「乗ってた船が事故でぶつかった…とでもしとくか?」 「それどういう状態なんだ…」 「霧に遭遇して、とか」 「………突っ込まれると思うんだけど。」 「…書くのはここまでにして、後はもう少し考えとくか…」 ・どうして一緒に旅をしていたの? どれくらい? 「………どうする?」 「戦争、していたから…」 「なんて言ったらやばいぞ。曲りなりにもあいつ軍人の家系だし、群島と赤月は一時期水面下で睨み合っていただろう。徹底的に調べられたらボロが出るぞ」 「じゃあどう言うつもりなんだ、テッドは」 「事故で知り合って、からか。 妥当に行き先が同じだったからそこまでの間一緒にっていうので良いんじゃないか? 他にも仲間はいて集団で行動してたが、お前等が事故で行方不明になって、暫くして俺も道が分かれたから一人旅をはじめた。そのすぐ後くらいにテオ様と会って、赤月に来たと。」 「…ほぼそのままじゃないか」 「いいだろ、下手に隠すとボロが出る。お前の方は自分で考えておけよ」 ・ポーラさんは恋人? 「……………………」 「お、それは聞きたい。 というか夫婦じゃないのか?」 「ふ…ッ。や、ほぼそうなんだけど…っ…で…や…っ」 「あー、おちつけおちつけ。はいしんこきゅー」 「………………。 …で、でも、戸籍上の関係はないから…」 「内縁、ってやつか? 何でまた」 「僕は今オベルに籍を置いているんだけど、其処から紋章を狙う者達が僕を嗅ぎ付けたら、何らかの標的にされる可能性があるからって。僕の足を引っ張るようなものは、出来るだけ残したくないって…」 「…あいつが?」 「…うん」 「はあ…お前にしてもポーラにしても…やれやれだな」 ・テッドとの関係は? 「同士」 「…ってかくのも、微妙だな…」 「知り合い?」 「よそよそしくないか?」 「そうなると…」 「友人、くらいか。無難に」 「………」 「………」 「なん、だろうね…」 「友人ですらなんでこんな恥ずかしいかな…」 ・…本当に? 「…………なんで質問の時点で疑ってんだこいつ」 「はぐらかされる、というのはこれを罰ゲームにした時点で判っていたんだろうな…」 「まあ、あれなら有り得るか…半分はからかってるだろうしな」 ・嘘はいけないぞテッド! さあ正直に書け! 「い・や・だ・ね。というかお前は俺達に何を求めてるんだよ!」 「…って書いたら嘘書いたってばらしてるようなものじゃ…」 「……………………はっ」 「なんとかごまかそう…」 かしかしとペン先が紙の上を滑る音が続く。時折ポットに湯を足して茶を飲みながら、言葉を交わしながら。稀に現れる意地の悪い質問に嫌そうに顔を顰めるテッドに思わず笑うと、彼はじろりと睨みつけてくるが、それだけだった。もう、過去の様に距離を置こうとしたり表情を故意に消したりしない。それどころか苦みが混じってはいるが、小さく笑い返してくれさえする。 今更ながら、彼と別れてからの時の長さを、思い知った。 テッドはこの百五十年で、立ち塞がっていた壁を乗り越えたのだ。声を掠らせ、涙も枯れ果て、それでももう目の前の痛みに逃げない、と自分の前で誓ったテッド。痛みは、変わらず彼に降り掛かっただろうに。 やはり彼は…――― 「シーア?」 沈み始めていたシーアの意識を、テッドは呼び戻した。肩を揺らしてシーアは顔を上げる。 「なんだ、疲れたか?」 「う、ううん。大丈夫」 首を振るシーアに、テッドがやや訝し気に視線を送ってくるのにどくり、と心臓が跳ねる。悟られやしないかと、彼と顔を合わすたびにシーアは少しばかり緊張が走った。まだ、今の自分を見せる勇気がシーアは持てなかった。そんな事をする訳がない、と思う予想ばかりが頭の中を駆け巡り、どうしても前を向く事が出来なかった。 いつか言える日が来るのか、言わなければならない日が来るのか、不安が少しずつ降り積もっていく日々を重ねている。 暫しシーアを睨みつけていたテッドはゆるりと肩を落とし、感じただろう違和感はとりあえず今は流すらしい、次、と紙に向き合い始めた。それにシーアはほっと息をつくも、彼がまたむつと眉を潜めたのにひやりと背筋が寒くなった。動揺したのを押し隠しながら、問いかける。 「どうした?」 「や、なんか質問がもうそろそろ終わりらしいんだが、もう一枚あるぞ…」 紙の半分ほどでレイの文字は終わっていた。けれどもう一枚、その紙の後ろに残っている。何気なく紙を捲り、ひたり、と彼の動きが停止した。 「テッド?」 呼びかけるも、彼は微動だにしない、じっと紙を凝視している。シーアからはその後ろの紙に何が書かれているのかは見えなかった。 す、とその姿勢のまま、テッドは息を吸った。そしてゆっくりと吐き出して、シーアを見る。あまりにも真剣な表情に、気圧されてシーアは自分の身体を椅子の背凭れに押し付けた。 「何、か?」 「…これを見てくれ。あいつの、最後の質問だ」 そして、テッドは後ろの紙を引き抜いて、シーアの前に差し出した。 その紙にはたった一行、中央にレイの文字が走っていた。 ・大丈夫? その言葉を理解できなくて、暫くシーアはその文字を繰り返し読んだ。自分に対しての言葉なのは判る、けれど、同時になぜ自分に、という疑問が沸き上がった。どうしてレイが、とも。 「…レイは、さ」 ぎこちなさを伴いながら、テッドが口を開いた。 「人の心の動きに聡いんだ。相手が何を思っているか、どんな感情をその時持っているのか、感覚で悟ってしまう。」 指に力が入って、振動が持っていたカップに伝わり机にぶつけてしまった。上がった音に慌てて手を引くも、胸の早鐘が収まらない。 「お前に初めて声をかけた時、宿で一度見かけたのもある。けれど、それだけでもないって――言った。声をかけてからずっと気にしていたとも、言っていた」 そういえば、テッドの家で話をしていた時、一度穴があいてしまいそうな程に見つめられた。あの時既に、レイは何かに気付いていたのだ。 微かに、手が震え始める。隠すように両手を机の下へ潜り込ませる。 「その後何度かお前と会って、話をして。確信したって。」 視線を交わしていられない。シーアは目を反らして僅かに俯かせた。その先の言葉を聞きたくなくて、耳を塞ごうとする手を押し止めながら。 「あいつが…レイが言っていたんだ。 『いまにも、きえてしまいそうな顔をしている』って。」 ―――耳に痛い表現だと、端でシーアは思った。 軽くそう見えるかと言う事も、苦笑して流す事も出来なかった。自分には無理に笑うなと、取り繕う事をするなと、ずっと彼が言っていたから。シーアはただ顔を俯かせて、押し黙るしかなかった。 苦しいなら苦しいと言えとも、彼は言ったけれど。けれど今の自分を自分から晒すのは、こんな状況になってもまだ戸惑われた。 間があいて、暫し。シーアと同じく口を開こうとしなかったテッドが、不意に立ち上がった。靴音がゆっくりと近付いてきて、身体の緊張は増すばかりだ。 傍まで寄られるだろうか、と思ったが、彼は隣の空いていた席を引き出して、シーアに向かうように座った。視線が寄せられているのを肌で感じる。 顔を、上げろと、自分に告げる。もう逃れられない、逃げてはいけない。どうあろうと、ばらしてしまった方が良い。そう思って、シーアは顔を上げろと自分に叱咤する。けれど上がらない、力が入らない。まるで糸が切れた人形のように、身体が言う事を聞かなかった。 あげなければ、彼に呆れられてしまう。ぐ、と奥歯を噛み締めて、すべてに覚悟を決めて、身体を起こそうとした、その時だった。 落ちていた横髪を、やんわりとした動作で彼の右手が掬い上げた。耳にかけてゆるりと離れていくのを追うように、視線が無意識にテッドへ向いた。彼と視線が混じり合う。 酷く何かを慈しむような瞳で、笑っているテッドを、見た。 彼が、今迄聞いた事のない口調で、名を呼んでくる。 「いろいろ、背負ってしまったな」 どこまでも優しい声色で、なあ、とシーアを呼ぶ。 「お前今さ、少しばかり…生きるのが、辛いんだろう?」 あの時の、自分みたいに。 声が出なかった。言葉が紡げなかった。押し隠していた感情が溢れ出て、頭の中が真っ白になる。目の奥が熱を持って視界が歪み始めたのに、目を閉じてまた顔を俯かせると、彼の苦笑いが聞こえてきた。 「…シーア」 なに、と言おうとして声が出なかった。否、出そうすると震えてしまいそうで、出せなかったと言うのが正しいか。 ゆるりと気配が寄って来て、テッドの腕が背に回り、引き寄せられる。肩に頭を押し付けられるように抱きしめられた。 「そういや昔、そんな顔した事あったよな」 「そ、うだっけ…」 「一度だけな」 結局震えた声で応えてしまったのに、テッドは何も言わずくしゃりとシーアの頭を撫で回した。どこまでもどこまでも、その仕草は優しい。まるで子供を慰めているみたいだ、と小さく呟いて思い出す。 「…今考えてみると、昔からテッドは僕の事子供扱いしてたね…」 「実際年はその位離れてるしな?」 「子供どころか、お爺さんと孫よりも離れてるけど」 「…泣きたいガキは無駄口叩いてないでさっさと泣いとけっ」 思わぬ反論だったのだろう、一瞬言葉に詰まり、それを繕う様に言い返して来たのに、涙声で笑った。少しだけ愉快な気持ちになったけれど、それは次第に萎んでいって、最後には嗚咽を堪えるので精一杯になってしまう。 もう感情が、止められなかった。こちらは懸命に蓋を閉じていたのに、こんなにあっさりと、彼は開けてしまった。 何時からだったか。変わらない自分を抱えて生きていく事に、重みを感じるようになったのは。己の身が不変になったのだと知った時だったか、ポーラを巻き添えにした時か。それとも、あの草原と風と大地を、もうひとつの故郷とした時だっただろうか。 もう覚えていない、けれど何時からか、シーアは今迄こんなに長く抱えた事のなかった重みを抱えていた。時を経る事に重みは増し、痛みが現れ、シーアを苛んでいった。 その重さに、その痛みの激しさに、驚愕するしかなかった。世界から隔絶され、変化の出来ない身を抱え、時折紋章を狙う者達から逃れながら、確かな目的もなく生きていく。 何処迄歩けば良いのか。 何処迄生きれば良いのか。 先が見えない。あまりに見えなさすぎて、絶望すら感じた。 そして、気付く。今迄は、先が見えすぎていたのだ。紋章を受け継ぐ前は、親友の盾として一生を使うつもりだった。紋章を継いだ後は、いつかはこの罰に焼き殺されるのだと思った。終りが、確かな終りがあったから、自分は走れたのだと、痛感する。 次いで思い出すのは、不器用に人を避けていた後ろ姿。 「…百五十年」 囁くように、シーアが震える声で呟いた。 「漸く出会った時の君の年に、追い付いて。やっぱり実感する」 「何が」 「テッドは、強い」 そうだ。彼は強い。一度は手放した紋章を、彼は自分の意志で取り戻した。百五十年を、何処にも留まれない日々を、たった一人で生きてきた。 「こんな長い年月を君はずっと、ひとりで生きて来たんだ…やっぱりテッドは、強い。 …僕なんか、ポーラがいなければどうなっていたか…」 「…シーア」 「百五十年経って」 身体の震えが抑えられなくなる。背に回された彼の腕の力が、少しだけ強くなった。 「やっとテッドの気持ちが、判った。 …莫迦だ。本当に僕は、莫迦だ」 今思えば、愚かしいとしか思えない。あの時己が彼にかけた言葉も、行動も。それを今自分にされたら苦痛にしか思えないだろう。けれどテッドはそんな自分に向き合ってくれた。 短い時間ではあったけれど、共に歩いてくれたのだ。 「…そんな事言うなよ」 宥めるような声色で、彼は言葉を紡いだ。 「俺だってずっと一人じゃなかった。三百年近い時を生きる間に、お前や、アルドの様な奴に遭えた。 そうやって、一人で生きていく合間に誰かと出逢いながらなんとかやってったんだ」 子を慰めるような仕草で、彼はシーアの髪を梳く。 「なあ、シーア。俺は、シーアが俺の事のすべてを理解しなくったって、それでも俺に手を差し伸べてくれていた事は、俺にとって何よりも救いだったよ。 判らなくても、認めてくれる。受けれてくれる。傍に居てくれる。そしてそれを、俺が受け入れる事が来出る。 お前みたいな奴がいるんだって知ったから、俺は此処で、レイと出会えた。 あいつと笑う事が出来たと思ってる」 じゃなかったら、多分とっくに逃げていた。テッドは笑う。 なあ、と呟いて。 「人間ってさ、本当に…ひとりじゃ生きていけないんだよな。どこかで必ず誰かと繋がっていて、完全に繋がりを断ち切る事なんか出来ないんだ。 だからさ、誰かと歩く事を望んだって、俺は良いと思う。 お前は昔から何でも一人で背負い込んで、その重荷を誰にも渡さないんだ。でも、それは人ひとりが抱えるには、重すぎる。だから、な?」 顔をあげろ、とテッドの掌が催促する。従って俯いていた顔を上げて、苦笑いを浮かべる彼と向き合った。 「もっと隣にいる人を、居てくれる人に、頼ったって構わないと思う」 瞬いた瞳から、落ちていく雫を指先で拭う彼に、シーアは小さく首を振った。 「…テッド、それは」 「じゃなきゃポーラがあまりに哀れすぎる」 有無を言わせない口調で告げられた言葉に、シーアは息を呑んだ。 「何の為にあいつはお前の傍に居るんだ? 判らない訳じゃないだろう」 「でも、僕は…ポーラは…」 「判っている、永遠には居られない。何時かはいなくなる。若しくは、お前が命を落とす可能性だってある」 断定した言葉が胸に突き刺さる。けれど宥める掌は優しい。その矛盾に見える彼の姿に、彼が進んだ道程が垣間見えた気がした。 「だから、悔いのないように。共に居てくれる今を、大事にしとけ。 その僅かであろう時間が、何よりもお前を生かす事になるから」 な、と笑うテッドを見つめる。三百年経って手に入れた、否、取り戻した色鮮やかな彼の笑顔。 暫くの沈黙の後、彼の言葉を何度も脳裏で繰り返した後、ゆるりと頷いた。 よし、とテッドが呟いて、シーアの顔を両の掌で包み込む。 「じゃあ第一弾だ」 「?」 「お前、俺に言ってない事いっぱいあるだろ」 きっぱりと言われて、僅かにたじろぐ。どう答えれば良いのか迷っていると、さらに言葉が降って来た。 「シーア。お前、何が怖い?」 「…―――」 胸の中の奥底から寒気が上って来て、シーアは青ざめた。 「テッド…」 「吐き出した方が、楽になる時もある。俺だって言っただろう?」 テッドの言葉に、微かに眉を潜めた。彼が怖いと、言った事があっただろうか。 笑いながら、テッドは続ける。 「怖いってよりは、愚痴だったのかもな。 短剣の話、覚えてるか。」 シーアは頷いた。その後に交換した短剣は、今でも持っている。 「あれだって 弱音のひとつだった。 それにお前に死ぬなと言った。お前に目の前で死んでほしくなかった。目の前にしたら、生きていこうと思った気持ちを、潰されそうだったから。」 榛色の瞳が伏せられる。 「今は、此処に居る事が怖い。 此処に来て、一年半になる。いつもならとっくにこの地から離れてる筈なのに、まだ、いる。 離れられない、自分が怖い」 「…テッド…」 「あいつの傍に居ると紋章の事を忘れてしまう。楽しいんだ、一緒に居ると。 時々そんな自分が怖くなる。だから何事も起こらない内にと思う。でも、できない。 離れるのが、すごく寂しい」 瞼を上げる。榛の瞳が陰って、くすんだ笑みが浮かんでいた。 「俺も、弱いままだよ」 「……」 ぼんやりと、シーアはそのくすんだ笑みを浮かべた彼を見た。思考がどこか遠くへ行きかけて、うまく考える事が出来ない。けれど何か、どこかがはっきりとしている。 見えない繋がりが一本線を引いている気がした。その線は、何時だったか、遠い昔にも感じた事がある。 緊迫した、けれど賑わいのある場所で。彼の右手と、己の左手だけが異物だった頃。誰にも言えなかった言葉を、お互いにだけは言えた、あの閉塞感の中で感じていた。 戦争の後彼が去ってから、その繋がりが消えても閉塞感はなくならず、左手だけではなく、己自身にまで広がり、そして。 彼女を、巻き込んだ。 「…ポーラは、」 視線が合わせられない。彷徨わせながら、掠れ声で呟いた。 「呪いが掛かっているんだ。どんなものなのか、詳しくは判っていない。けれど多分、罰に関連している」 「罰に?」 こくり、とシーアは小さく頷く。 「それから、ずっと彼女は年を取らない、取れない。 僕は今…彼女の呪いの解き方を探している。……だけど」 ひゅう、と音を立てて息を吸った。 「今、彼女が居てくれる事に、安堵している自分が居る。 誰かが居てくれる事に安心してる自分が居る。 …ひとりになったときの事を考えられない自分が、いる」 「…ああ」 「傍に居た人がいなくなるのがこんなに辛い事だとは、思わなかった。知らなかった。 目の前に広がる道を一人で歩く事になる日がくるかもしれないなんて。」 その先の終りのなさに、途方もない旅に。北の風がひどく寒くて震えているのだと、身体を縮ませて思い込んだ、あの時。 絶望感が、身体中を苛む。 「ひとりで生きるのが、怖い。 ひとりになるのが、こわい」 ひとりで生きて来た彼に告げる言葉ではない。しかしシーアは止められなかった。どうすればあの道の先に潜む虚無感を乗り越えられるのか、判らなかった。 頬を包んでいた彼の掌が背に伸びて、再度引き寄せられた。先ほどよりも強い仕草で抱きしめられる。 「…そうか」 小さく呟いた、テッドの声。目の奥が熱くなるのを感じて、シーアはきつく瞳を閉じた。 うちの二人は基本傷の舐め合いなんだなあ、とちょっと実感してしまった… 微妙な寄っかかり合いなんだと思います。 シーアは当初あんまりここまで凹んでいるとは考えていなかったんですが、どうにもこうにもシーアというひとを形成していく内に、こんな事に。あれえ…あんま強い人ではないようです。多分一人で生きていく事になったら、無口シーアと似たような生き方になっちゃうんじゃないかな。無口シーアはこのシーアとは若干たどる道が違うんですが…。 ■ |