月明かりが窓から差し込み、灯りの無い筈の部屋は淡い灰青に包まれて浮かび上がっている。
 島の宿のさして広くもない二人部屋、寝台の片方に、身を起こして黙り込んでいる姿がひとつ。彼も部屋もしんと静まり返り、隣で眠る仲間以外は何の気配も感じられない。その静けさの中に小波を聞いて、彼は寝台に座り込んだまま徐に顔を窓へ向ける。窓の向うに広がっているのは、果てしなく続く濃紺の海に、境界線を隔てて広がる夜空を支配する満月。
 月光に負けて今日は共に輝いている星達の姿が見えない。深い青ばかりが空に広がって行くのに少しだけ戦きそうになり、無意識に左の手を右の掌で覆い隠した。
「…っ」
 微かな声に振り向いて、朝露を受けて開く、露草を連想する蒼を持つ瞳が見れば、先程迄静かに眠りに付いていた少年が眉間に皺を寄せて蹲っている。起きている様子はない、とすればきっと。
 出来るだけ静かに寝台から降りる。裸足のまま軋む床をゆるりと歩いて反対側の寝台にいる仲間の元へ行く。近付いてみれば判る、彼の様子。夢を見ているのか、苦しそうに呻きながら忙しなく息を繰り返している。体中から汗が溢れて茶褐色の髪が頬や額に貼り付いていて、暑苦しそうだと思う。風に任せる様にふいと手を伸ばして彼に触れようとし──
 はっと眼が開く。眠りの中にいると思っていた彼の腕が伸びて胸元の服を掴み、寝台に引き摺り下ろされる。
 肩を押し付けられて顔を上げれば、鋼の輝きが首に舞い降りようとしていた。
 嗚呼、だめだ。
 その輝きと、光に照らされて浅梔子色に変化した、現実に帰って来ていない彼の虚ろな瞳を見ながら思う。
 そんな所を斬ったら君に降り掛かる。
 輝きが、目の前を通り過ぎ、首筋に走り。

「…ッ、…」
 全力疾走した後の様な呼吸が響いている。闇の中に僅かに差し込む月の光だけが灯りとなって、互いの姿を現している。一人は静かに寝台で仰向けになり、一人は肩を揺らし息を繰り返しながら、下の者に刃を突き付けている。
 荒い息だけが響いている、その中に、ぽつりと。
「…シーア」
 刃を突き付けている少年が、呟く。ゆるゆると状態を起こすと同時に、短剣を彼の首筋から離して行く。上半身を起こし腕を両肩から垂れ下げて、深く息を吐いた。
「すまない…」
「いや、僕こそ…ごめん。不注意すぎた。
 魘されていたから…紋章だろうかと思って」
 でも違ったのかな、とシーアはを苦笑を浮かべる。
「…大丈夫?」
 己の首に走った赤い線にも気付かず首を傾げて聞いて来る彼に、思わず溜息が漏れる。ひとつ間違えれば命が落ちていたのかも知れないというのに。
 右の手に巻いていた包帯を解いて、シーアの首に乱暴に宛てがう。
「?」
「俺より自分の心配しろっ。」
「へ」
「首に擦ったんだよ、血が出てる。……元はと言えば俺が悪いんだけど」
 むつ、と顔を歪ませて罰の悪そうに呟く。視線だけを不思議そうに下ろした彼を見てから、包帯を宛てたまま、脇に置いた短剣を見やる。
 月の輝きを反射しててらてらと鋭利な光を放つ刃、使い込んだ跡がはっきりと残っているそれに、声を押し殺した。
「…莫迦みたいだろ」
「テッド?」
「弓でも何でも良いんだ、だけどそういうものが近くにないと眠れやしない。」
「……テッド」
「そうでもしないとやってけない時期があった。周囲の空気を読めない時期があったから、逃げ遅れて戦争に巻き込まれたりとか、山賊に絡まれたり、………あいつらに捕まりそうになったり。
 何時何処で襲われるか判らない、寝首を掛れるかも知れない、実際殺されそうになった事も何度もある。ソウルイーターが暴走して結果俺の命が助かった事も…あるけれど……何度これで助かったかも判らない」
 いつになく饒舌になっているテッドを、シーアはただ見上げた。顔色の良くないまま言葉を続けている彼は、微かに身体が震えている様に思える。…それ程夢見が悪かったのかも知れない。
「眠っている時もいつも不安なんだ。こんなものでもあった方が、少しは安心する…」
 苦く笑う、自嘲の含んだ笑みに眉を寄せてシーアは彼を見上げる。ちらと自分の寝台を見、彼はテッドに声をかける。
「テッド」
「何だよ」
「ちょっと、いいかな」
 避けてほしいなと呟くのに、テッドは今になって彼の身体に乗っていた事に気付く。慌てて避ければシーアは徐に立ち上がり自分の寝台の方へと歩んで行く。何事もなく横になるのかと思えば、枕の下を探り始めて出て来たのは。
 自分と同じ、抜き身の短剣。
「………」
 唖然と見る彼の元にシーアは持って行き、とんとそれをテッドの手に押し付ける。テッドの手の中に収まったそれは刃の潰れた紛い物等でもなく、丁寧に研がれ冷たい輝きを放つ本物の刃だった。
「…前から思っていたけれど、僕らは似た所があるようだね」
 君は嬉しくないと思うけど、と呟きながらシーアは寝台に腰を下ろす。自分の短剣はテッドに押し付けたまま、彼は寝台に置き去りになったテッドの短剣を持ち上げ、苦笑を浮かべる。
「…お前」
「ずっと前から、持っていたんだ。ナディシアに乗る前から…騎士団に居た頃から。
 教え込まれた事だったけど、最近は僕もそうだ、ないと落ち着かない。
 幸いな事にまだこれを一度も使った事はないけれど」
「…」
「なんだろうね…どちらとも誰とも知らせず、こんな事してるなんて。なんか可笑しい」
「…誰にも?」
「うん。
 …あ、出来ればこの事、誰にも言わないで欲しい」
 気付いたら皆心配に思ってしまうだろうからと言う彼に、テッドは顔を顰める。その理由は恐らく本音の一部でしかない、彼は察したが問いつめる事はなくシーアに是と答える。
 柔らかく笑って、シーアは感謝の言葉を述べる。短剣を寝台横の棚に置いて、そのままくらりと身体が揺れる、彼の身体は寝台に横たわった。
「シーア?」
「…眠い」
「は?」
「眠いんだ、テッド」
「自分のベッドで寝ろよ」
 一刀両断に斬られた言葉にシーアは苦笑する。
「じゃあ、白状」
「…は?」
「君に近付くちょっと前に飛び起きた」
「…───」
 声が詰まって、言葉を紡げなくなる。"起きた"のではなく"飛び起きた"…その意味に彼は声を失った。
「多分僕の夢が君の夢に拍車をかけた。──御免」
 その言葉に、テッドは軽く唇を噛む。舌打ちをしたくなる思いを抑えて、顔を歪ませて黙り込んだ。莫迦だと心の中で嘲って髪をかきあげる。無意識であろうが、何故彼が相部屋の相手を自分にしたのか、自分は判っていた筈なのに……まったく意味がない。
 …互いが紋章の影響による悪夢を見るという事を知ってから、共鳴する様に互いの紋章の影響が夢の中に時折入り込むのを知ってから、それが互いの紋章の力で和らぐ事を知ってから、それとなく相手の様子に気を配る様になっていた。テッド自身も長い生の中で起こった出来事が夢に現われて魘される事がある。けれどそれはテッド自身が見るもので、紋章の影響も多少あるが、紋章自体が見せるものではない。
 けれどシーアは違う、彼の持つ罰の紋章は、故意に継承者に悪夢を見せる。それもただの悪夢ではなく──前継承者達の、紋章に喰われる迄の短い生を、…その末路を。
 ただ見せつける様に流れるのではなく、継承者達の心が入り込んで来るのだ、前に影響を受けてテッドも見た事があった。紋章を継承したが故の葛藤、恐怖、焦燥、紋章を行使した後の焼き尽くされるような痛み、そして。
 身体が灰になり崩れて行く絶望と、聞いた者の身体の奥から底冷えさせる、絶叫。

 ──自分がその道を行くことは、そんなに怖い訳じゃないんです。

 前にシーアが告げた言葉。続いた言葉、

 ──僕が怖いのは、僕が紋章に喰われた後…誰かがこの紋章を受け継いでしまう事…それだけです。

 だから生きようとする、それだけの為に。けれど力を使わねば仲間を守れないから、迷いを振り切って彼は力を行使する。不安を胸の中に終い込んで。
 紋章が見せる悪夢に時折我を忘れそうになりながら。
「…」
 軽く息をつく、持っていた彼の短剣を枕下に潜ませてから、横になっているシーアの髪をくしゃくしゃに撫でる。
「寝ろ」
 ぶっきらぼうに言い、眼を丸くしたまま動かない彼を他所に上掛けを分け与えてそのまま横になる。背からそっとこちらを窺う視線が感じられたが、動く事はなく、次第に身体の緊張を緩ませて行くのが判る。
「…有難う」
 答えずに沈黙していると、眠りに落ちたらしく落ち着いた呼吸が聞こえて来る。音を立てぬ様注意を払いながら身体を反転し、寝に入ったシーアを見た。首の傷が塞がっているのを見て明日紋章で癒しておこうと思いながら、身体の上にある左手の痣を忌々しく見つめ、そうと右の手で、痣事包み込む。
 光のような人間だと、薄暗い霧の船の中で出逢った時に思った。遠い空の向うに浮かぶ太陽の様にただただ光り輝くそれと同じような、そんな存在だと思っていた。
 けれどそれは勘違いで。彼も人で…少々、いや大分何処か螺子の外れているような性格の持ち主だが…歩む道に戸惑い、躊躇し、途方に暮れる事もある人間なのだと知ったのは、いつだったか。それでも尚、進もうとする人間なのだと知ったのは。
 自分は、何も出来ない。
 ただ彼の歩む道を、縋る様に辿っている。彼も判っていて、だから只管に歩みを進めて行く。その背に僅かな翳りを見て不安に思うも、隣に行くのは恐怖と躊躇が入り交じり、辿り着く事が出来ない。
 でも。その後姿に手を伸ばして届くのならば、それくらいならば。
 彼を支えていたいと、思う。

 重ねた左手をゆわりと撫でて、テッドも眼を閉じる。
 そのまま何事もない事を、夢を見ぬ事を願いながら。












とうとう書いちゃったなあ…なネタであります…私は短剣を持たせる事が好きらしい、てことでテッドとシーアの短剣話でした。本編後半、大分テッドが打ち解けている頃の話。
我流だろうけれどテッドはナイフぐらいは扱えるだろう…とか思ってます。公式では一通り扱えるみたいですけどね。ただ自分の状態を考えて一番の獲物にいいのは弓だっただけで。
シーアは騎士団で訓練しただろうし(其の前から短剣は持っていたけれど、持たされただけっていう設定になると…思います…これ以上進んだら暴走しますんで…(私が))それ位の自己防衛は持っていていいじゃないかなと。いや、趣味なんですが(…)
ちなみに紋章の設定も…私設定です…おかしい…はじめそんなに夢には動じない筈だったのに段々夢の内容がエスカレートしてきています<罰
…よくよく考えてみると、罰の紋章が見せる夢って、実際酷ですよね…自分が辿る事になるものを見せられているのって、すごく嫌です。見せられるテッドもたまったものではありませんね!(誰の所為だ)
……読んでくださって有り難うございました!(脱 兎)